岩淸水

心を潤す

朴 正煕

2008年06月18日 05時42分00秒 | 人物

 

 

 


朴 正煕 ぼく せいき

(パク・チョンヒ、박정희、1917年11月14日(時憲暦9月30日) - 1979年10月26日)は、大韓民国の軍人、政治家。第5 - 9代大統領(在任:1963年 - 1979年)を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。また、日韓基本条約の締結を行い、「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長へと結びつけた。韓国はこの経済成長により最貧国グループから脱した。本貫は、高靈朴氏。号は「中樹」(チュンス、중수)。

日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお、 - 1945年)。日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになったが、昔通りの漢字読みも一般的である。陸英修は妻、ハンナラ党(現セヌリ党)代表やセヌリ党非常対策委員長を経て2013年に第18代大統領に就任した朴槿恵は長女、EGテック現会長の朴志晩は長男。

なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があるが、これは時憲暦での表記であり、実際にはグレゴリオ暦に直すと11月14日である。

 

 


朴正煕は、日本統治下の朝鮮の慶尚北道善山郡亀尾(クミ、現在の亀尾市)で、貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。父親は科挙に合格したが、韓国が併合された後に没落し、墓守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど生活は苦しく、後世、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという[2]。家が貧しいうえに病弱だったが、亀尾小学校を優等で卒業。大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で3年間教師をした。

 

満洲国軍 [編集]

その後、日本国籍のまま満州国の首都の新京で陸軍軍官学校に入校し、同校を首席で卒業する。日本の陸軍士官学校に留学した。その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。

第二次世界大戦終戦時は満州国軍中尉だった。朴正煕が日本陸軍の軍人だったという誤解があるが、上記のように満州国の軍人として日本の士官学校への留学を命じられたに過ぎず、日本軍人として任官したことはない。

韓国軍 [編集]

1945年8月に第二次世界大戦が終結し、満洲国が崩壊したために退役し朝鮮半島に戻った。その後朝鮮半島の南半分がアメリカ軍政庁の統治下におかれた後の1946年9月に、陸軍士官学校の前身である警備士官学校(南朝鮮国防警備隊の幹部を育成するためにアメリカ軍政庁が設置した教育機関)に2期生として入学した。

3ヶ月余りの速成教育を受け卒業した後、大尉に任官されたが、1946年10月に大邱で共産党が指導した暴動事件、いわゆる10・1暴動事件が発生し、この事件で兄の朴相煕が共産党幹部として警察に殺害された。一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告された。しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることがアメリカ軍当局に評価されて釈放された。

朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、更に戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。その後は、1955年7月14日には第5師団長、1957年には陸軍大学を卒業して第7師団長、1959年7月1日には第6管区司令官、1960年1月21日には釜山軍需基地司令部司令官、同年12月15日には第2軍副司令官となった。


1961年5月16日、張都暎陸軍中将(当時)を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗り、軍事クーデターを起こした(5・16軍事クーデター)。反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由とした。決起に関する謀議は李承晩が退陣に追い込まれた四月革命の過程と同時進行だったことがわかっている。学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱の中、軍が突然、政治の舞台に踊り出たことは多くを驚かせた。軍は朝鮮の政治史において例を見ない巨大勢力だった[3]。

当時、陸軍少将の階級にあり第2軍副司令官だった朴正煕は、陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推されてクーデターグループのリーダーになった。陸士8期生は解放後初めて韓国が自前で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鍾泌だった[4]。なお、陸軍士官学校11期生には後に大統領になる全斗煥、盧泰愚が含まれている。これら軍人たちには地方の貧困層出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。

軍そのものの規模に比してクーデターに動員された人員は必ずしも多くはなく、成功もおぼつかないはずだった。クーデターグループたちは軍首脳の懐柔に成功し、後に軍首脳を排除した。クーデターグループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布いた。金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張勉政権の閣僚を逮捕した。

政権を奪取した朴正煕は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称した。自ら議長となり、治安維持と経済改善のためとして国家再建非常措置法を施行した。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部 (KCIA) を発足させた。7月3日には張都暎を失脚させ、軍事政権のトップに立った。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていった。これに抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、武力で押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる。

その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとなり、アメリカ大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従い、大将に昇進した。訪米の往路日本に立ち寄り、11月12日に池田勇人首相と会談、早急なる国交正常化で合意した。このとき一部日本語を使って会談したため、韓国内の反日勢力から批判を買うこととなった。訪米ではケネディ大統領との会談を実現した。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹潽善を破り、自らが大統領の座に就く。

1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。日韓基本条約は日本統治時代を清算するものでなく、僅かばかりの金で国を売るものであるとして、民主化活動家の大学生に市民も加わった韓国民と野党議員たちの激しい抵抗の中、日本との条約締結が強行された。また、日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとして反対運動が起こり、大学生を中心に大々的な反対運動が展開されていた。

その後、アメリカの要請に応じてベトナム戦争への派兵も決定するが、次第にアメリカ軍の敗色が濃厚となるに従い、ナショナリスト的な立場からアメリカから離れていく。

西ドイツへ炭鉱労働者と看護婦を派遣し、その給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に充てた。また、ベトナム参戦が、漢江の奇跡と呼ばれる経済成長に繋がっていく。教育政策では高等学校を大幅に増設し高等教育機関への進学率を アジア随一のものにさせるなど教育政策にも力を入れた

国防の面では、中華人民共和国の核兵器開発に対抗して、密かに核・ミサイル開発に着手してアメリカと衝突して中止するなど、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに基づく独自の自主国防計画を推進することになる。

1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が、1970年8月15日の演説で平和共存を提案し、1972年7月4日には南北共同声明を発表した。

国内では、1972年10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁色を強め、金大中事件に代表されるような中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った[5]。反政府勢力に対する弾圧は執政期全般を通して苛烈を極めた。共産主義者ないし北朝鮮のスパイ摘発に名を借りた不法な拷問・冤罪事件は枚挙に暇がない。そのうち、1975年11月22日の「学園浸透スパイ団事件」は同時代の日本でも大きく報道された[6]。国内でのマスコミへの言論弾圧も自由主義国家としては極めて異例なほどに行い映画のセリフひとつまで国の検閲が及び、海外の新聞、特に朴に批判的であった日本の朝日新聞、読売新聞の韓国への輸入が禁じられるほどであった。


開発独裁 [編集]

内政は典型的な開発独裁であった。軍備増強よりも経済基盤の建設を優先した。軍人としては珍しく強い経済マインドを持つ人物だった。クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法(一種の徳政令)であった。

大統領に就任すると、日本を模範とした経済政策を布いた。国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財閥や国策企業を通じて、ベトナム戦争により得たカネとモノを重工業に重点的に投入した。これによって建設された代表的施設に、八幡製鐵所をモデルとした浦項製鉄所がある。又、「日本の経済急成長の秘密は石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。この結果、1961年には国民1人あたりの所得が僅か80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620ドルになるといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるという「漢江の奇跡」を成し遂げた。工業化にある程度成功した頃には農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。

政治的なスローガンとしては執政期中頃から標榜した「維新体制」がある。開発独裁と言われる朴正煕の経済政策は、ソビエト連邦の計画経済をモデルにしている。例えば、1962年から始まった数次にわたる5ヶ年計画方式がそれである。また、朴正煕の経済開発手法が実際に見聞した満州国の経済からヒントを得ているとする分析がある。それまでの輸入代替工業化政策を大胆に輸出型重工業化による経済離陸政策に切り替える柔軟性を見せた[7]。

しかし、国外からは、反共同盟の強化を意図するアメリカ政府や日本政府などを除けば、朴正煕政権は批判的に評されることが多かった。特にセマウル運動については、農業近代化であるよりも相互監視を機能させるための農村の強制的な組織化であるとして、全体主義的な組織化になぞらえる論考も日本では生まれた。


政権末期、そして暗殺 [編集]

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていた。1974年8月15日、日本統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文世光に銃撃を受け、朴正煕自身は無事だったものの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。

なお、この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し強奪したものであったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を、自由民主党の一部や日本社会党などから圧力を受けた日本政府及び警察側が擁護し続けたこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。さらに最末期には、核開発などでしばしばアメリカと対立していたとも漏れ伝わっている。

釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

肯定的な評価 [編集]

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判され続けていたが、民主化後その達成感によって運動が退潮し始めたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げ、韓国を中華民国(台湾)・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」とまで言わしめる事となる足がかりを作った事や、治安の良さを再評価する動きが出て来た。特に政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。また人事面においても釜山市の都市建設で力量を発揮した工兵将校出身の金玄玉をソウル市長に抜擢するなど、格式を無視して有能な人材を要職に登用した[9]。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

支持者からは「独裁政権」ではあるものの、日本から経済援助を引き出し、韓国に秩序と経済発展をもたらしたのも事実であり、見直すべきとの声も根強い。かつて朴正煕批判で職を追われたことがある趙甲濟も、「日本の一流の教育とアメリカの将校教育を受けた、実用的な指導者だった」と、暗殺事件の取材を通じて以前の否定的な見解を変えている。ネットユーザーからは「親日派として罵倒するのは問題がある」、「朴正煕大統領が親日派だったら、日本統治時代に生まれ育ち、日本の教育を受けた人はみんな親日派である」、「親日派であるかもしれないが、国民生活の向上に力を入れたことは評価すべき」、「韓国が発展できる基盤を作ったことは重要」と、功と過を正しく評価すべきとの声も多く上がっている[10]。

また、独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素潔癖であり、ネポティズム(縁故採用)も嫌っており、韓国大統領の中で極めて清廉潔白な大統領とされ、汚職も見られず、彼の死後には私有財産がほとんどなかった。そのため保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国の発展に最も大きく貢献した韓国歴代大統領ともいわれている。韓国大統領の人気ランキングでは、朴正煕がダントツ1位の75.8%、金大中が2位の12.9%に選ばれている[11]。

否定的な評価 [編集]

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因となった。

批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて朴正煕を日本統治時代における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際2005年8月29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典の第1回リストに記載された。2004年に日本統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終的には保守派の反対を受け、彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。これらは韓国で行われている歴史見直しの一環であるが、次期大統領選絡みで、彼の娘であり有力候補の一人であるハンナラ党(当時名称)党首・朴槿恵の人気低下を狙ったという見方もある。朴大統領を始め、韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝国による朝鮮統治が手法・理念その他でどれだけ影響を与えていたかは、歴史家によって意見がまちまちである。

また、ベトナム戦争に韓国軍を2個師団プラス1個旅団の延べ31万名、最盛期には5万名を派兵した。韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われ、ベトナムでは村ごとに『タイハンの残虐行為を忘れまい』と碑を建てて残虐行為を忘れまいと誓い合っているという[12]。アメリカは見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4000万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たした。派兵された韓国軍部隊が現地でベトコンと見なした一般市民を女性や子供も含めて虐殺する事件やベトナムの女性を強姦する事件、その他数々の蛮行を起こした。生存者の韓国軍の行為に関する証言で共通な点は、無差別機銃掃射や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などが挙げられている[13]。また強姦により韓越混血児ライタイハンが数万人が生まれたことが確認されている(ライタイハンを参照)。ベトナム戦争自体にベトナムの独立運動を妨害・抑圧する性格(当時の植民地解放闘争は共産主義との関連が強かった、ベトナム戦争も参照)があったのではないかという問題もあって、ベトナム人の視点からすれば朴大統領はまぎれもない「侵略者の一員」であるとベトナム人の多く、および韓国・日本の左派の歴史学者を中心に指摘されている。とりわけ、韓洪九は自著『韓洪九の韓国現代史』(元はハンギョレ新聞連載コラム)でベトナム戦争の植民地解放運動への圧迫としての面を重視し、日本による侵略に苦しんだ韓国の近現代史と重ねながら、朴大統領のベトナム戦争参戦を批判している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95

 

 

 

Site Information

■ 2009年7月9日
 「我が郷は足日木の垂水のほとり」 はじめました。   本稿はその保管用記事です。

■ 2010年3月2日
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