八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「善勇猛般若経」を読む(38)[知恵の完成の住まい 5]

2008-11-30 03:49:01 | Weblog

 七 讃嘆 ・ さとりの保証された菩薩たちーその比喩の数々

世尊の仰せ

 「・・・・・・(省略) 善勇猛よ、この知恵の完成がだれかの耳に届き、それを聞いて彼らが信を起こし、歓喜し、真実であるとの思いを起こすようなことがあるならば、彼らの善根もこのうえなく正しいさとりをもたらす、と私はいうのである。

実に彼ら良家の男子や良家の女子が、偉大な知恵への材料となるものをすでに蓄積し、さらにそれ以外のもろもろの善根も身につけるのだ、ということは、これまたまったくたしかなことである。

  善勇猛よ、ましてある菩薩の手に、知恵の完成のすぐれた方便を説くこの教説が届くならば、それら菩薩のあるものが、たとえ眼前に諸仏世尊から(将来に関する)予言が与えられていなくとも、彼らは実に予言を受けることに近づいているし、また遠からず(仏の)眼前において予言を得るであろう、とこのように知られるべきである。 以下・・・・・・(省略) 」(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p284)

私の解釈

 私たちは仏典で説かれているような「さとり」とか「知恵の完成」を達成することは不可能であると思います。

 本文にしても、私がどのように修行を積み仏教を学んだとしても私の心に「正しいさとり」がもたらされるであろうとは考えられません。何故なら「正しいさとり」とは菩薩にもたらされるものであって、私たち凡人には達成不可能な境地であると思うからです。

  私たちが仏典を読み、教えのことばを書写し、記憶し、読誦することによって「善根」を身につけ、学び続ければ、いつかは、[偉大な知恵の材料となるものを蓄積」できることは間違いないと思います。しかし、私たちは絶対に「知恵の完成」の境地に達することはできません。

何故なら、私たちの心は、絶対に取り払うことのできない煩悩の網で覆われているからです。

   このため、私たちはどのような修行や学習や努力や忍耐を積み重ねたとしても、たとえば、次のような菩薩たちの境地に達することは絶対に不可能であると思います。

・ [山々は大千世界中において不動のものといわれているが、そういう山々が、 たとえ風によって動揺させられることがあっても、しかし、法に立脚している比丘は不動 である。」 (32)

・ 「諸仏の不変の住居である空性にいつも専念し、ものは空であると明確に理解している人、 そういう人は、いかなる論者によっても動揺させられることはない。」 (33) (大乗仏典11 「三昧王経 Ⅱ」 田村智淳訳・一郷正道訳 p270)

 私は、このような境地に達することは絶対に不可能であることを認識したうえで、この境地を絶対的な目標として仏教を学び続けて行きたいと考えています。


「善勇猛般若経」を読む(37)[知恵の完成の住まい 4]

2008-11-25 04:07:38 | Weblog

 七 讃嘆 ・ あらゆるものに基底はない

 世尊の仰せ 「・・・・・・(省略)

 善勇猛よ、実にあらゆる存在には、とどまるということがない。それはなぜであるか。善勇猛よ、実にあらゆる存在は、とどまる場所(執藏)をもたない。とどまる場所をもたないから、とどまらない。

もし善勇猛よ、もろもろの存在にとどまるということがあるならば、それらにとどまる場所が、あるいは不動の基底があるべきである。如来も、それら存在がとどまることについて説示するはずであるーーもろもろの存在がとどまるとはこれこれ、もろもろの存在のとどまる場所とはこれこれ、もろもろの存在が集積するとはこれこれである、と。

しかし善勇猛よ、あらゆる存在はとどまることもなく、とどまる場所ももたず、集積することもないから、それゆえに、どんな存在も不動ではなく、したがって如来は、もろもろの存在のとどまることも、それらのとどまる場所も、それらが集積することも説示していないのである。  以下省略 」(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p280)

私の解釈

  ここでいう「あらゆる存在」とは物質的なもの、精神的なものすべてを含んでいる、と思います。つまり、あらゆる物事はとどまることもなく、とどまる場所もないということです。

どういうことかといいますと、すべての物事は私たちの眼前あるいは頭脳(心)から消えてなくなるものであるということです。

しかし、消滅するといっても、たとえば知恵や知識の場合、私たちは物事を記憶したり、後で思い出したりしながら生活を営んでいます。

教えに従いますと、私たちが記憶するということは、物事がとどまる場所にとどまるということではないというのです。

 私たちの頭脳内で記憶の営みがどのようになされているかについては、仏教哲学として有名な「唯識三十頌」で詳しく解説されています。

解説の中では、知恵や知識が頭脳に記憶される状況について「恒に転ずること暴流の如し」という言葉を使って説かれています。つまり、私たちが対象とする物事は、そのまま生の状態で記憶されるのではないということです。

私たちの頭脳(心)の中では、既に記憶されている無数の物事と新しく入力された物事とがまるで暴流の如くに混ざり合い加工しあって変化し続けていると考えられています。その様子は、あたかも綺麗に澄み切った湖へ雨が降り、谷から泥水が流れ込むときのようなものであろうか、と想像できます。

  頭脳(心)内における物事(知恵や知識)の融合のされ方は、人それぞれの人格を形成するものであり、社会的経験によって相違があると思います。ですから、私たちが正しく成長するためには、頭脳内で正しい知恵や知識の融合が行なわれるように心掛けなければなりません。

 そこで、私は日常生活のなかで、特に気をつけなければならないこととして、陰徳を積むことと、修行としての努力と忍耐に精力を注がなければならないと考えています。

 何故なら、私たちは精神的な油断がありますと、邪念や妄想に取り付かれて、心を曇らせてしまう傾向があるからです。

 私は主要な修行方法として、四聖諦(苦・集・滅・道)と八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の教えに従うことであると考えています。しかし、これの実践は中々難しいことです。


「善勇猛般若経」を読む(36)[知恵の完成の住まい 3]

2008-11-19 04:34:40 | Weblog

七 讃嘆 ・ 結合と離脱 世尊の仰せ

 「・・・・・・(省略)

 善勇猛よ、実にあらゆるものは転倒に起因する。そして、転倒にはどんなものとの結合もなく、離れることもない。それはなぜであるか。善勇猛よ、実に転倒には実在が認められないし、また生起も認められないからである。

それはまたなぜであるか。善勇猛よ、実に転倒は真実ではなく、虚妄であり、偽りであるものであり、空虚であって、そこでは、 ”転倒はこれこれである”といわれるようなどんな存在も認められない。

 善勇猛よ、転倒というものは、これは衆生たちを惑わし、衆生たちをたぶらかすものである。これは、衆生たちの真の実在にもとづかない妄想であり、衆生たちのみだりに考えたこと、思い迷い、ことばの遊びにすぎない。 以下省略 」(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p272)

私の解釈

 先ず初めに、「あらゆるものは転倒に起因する」ということが真実であることを確認しておく必要があります。

 私たちはあらゆるものを主観的に見ています。主観的に見て判断するから私たちはものの見方や考え方に個人差があるのです。その個人差には、当然、地域や民族などによる違いもあると思います。このような個人差は何故生じるのかといいますと、私たち凡人の頭脳や心眼は、すべて煩悩に覆われているからです。

  脳科学者によりますと、人間の脳細胞は一千億個以上もあり、その個々の細胞は数百から数万個ものシナプスという接触子で隣の細胞と繋がり合っているそうです。

 人間としての本能は、このように複雑な細胞組成の頭脳のなかに何千万年もの昔から先祖代々受け継がれ蓄積され形成されてきたものが含まれていると考えられます。

 本能だけではなく、私たちの煩悩も同様であるとあると思います。ですから、私たちの心が煩悩の網に覆い尽くされているということは、人類としての歴史的な宿命ともいえます。

  お釈迦さまは苦しい修行を積まれた結果として、知恵の完成を成就され、煩悩の網を完全に取り払われたのです。凡人がそのような修行をするとすれば、何千万年の何千億倍もの年月を必要とするというようなことが仏典で述べられています。私たち凡人には不可能なことです。

  私たちは心の中が煩悩で深く覆われている以上、真実を観ることは不可能です。真実を観ることができないということは、真実でないものを観ているということであり、これを転倒であるというのです。故に、「あらゆるものは転倒に起因する」というのです。

 たとえば私たちが、ある問題について、考えたり、迷ったり、議論し合ったりするのは、転倒したものごとを観ているからです。しかも私たちはそれらに執着するから、考えたり、迷ったりするのです。このような転倒したものごとは真実ではなく、虚妄であり、夢幻のようなものである、と仏教では教えています。

ですから、私たちが取り扱っているものごとはすべて、実在するとは認められませんし、また、その生起さえも認めることができない、といわれるのです。一般的に、私たちが実在すると思っているものごとは、実は、すべて仮のものであるともいうわけです。

  浄土真宗の経典の中に「本願一乗、円融無碍、真実功徳、大宝海」という教えがあります。私は本題の「転倒」ということに関しても、この教えを応用して考えたいと思います。

  つまり、すべての問題に対して個人の解釈は異なります。このことを浄土真宗の教えに基づいて考えますと、問題の真実解はすべて「空」の中にありますが、私たちの解釈はその「空」のなかから、因縁に従う「転倒に起因するもの」として、取り出されたものであると思うのです。真実解は、大宝海ともいわれる「空の世界」の中に秘められているのです。そして、その世界の中には無数の解釈の素が円融無碍に存在していると考えられます。

  お釈迦さまはこのような「空の世界」の様相を巧みな方便を使って私たち凡人に説いてくださっているのです。

  私はお釈迦さまの教えを受け入れるために、次のような修行を続けていきたいと思います。

・毎日、仏典を読み、必要な教えを書き写し、記憶し、繰り返し読誦すること。

・人々の考え方や、意見の個人差を認め、他人の意見を認めること。

・すべては「空の世界」に存在するという真実を、時々、思い起こすこと。

・四聖諦(苦・集・滅・道)と八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の教えを実践するように心掛けること。


「善勇猛般若経」を読む(35)[知恵の完成の住まい 2]

2008-11-11 03:57:57 | Weblog

七 讃嘆 ・ 結合と離脱

世尊の仰せ 「・・・・・・(省略)

 このように実践する彼は、物と結合するのでもなく、離れるのでもない。感覚、観念、意志形成、認識と結合するのでもなく、離れるのでもない。心的・物質的なものと結合するのでもなく、離れるのでもない。転倒や誤った考えと結合するのでもなく、離れるのでもない。(以下、76項目について「結合するのでもなく、離れるのでもない」と説かれていますが、省略)

 それはなぜであるか。善勇猛よ、実にあらゆるものは、結合されることもなく、離れられることもないからである。

 それはまたなぜであるか。善勇猛よ、実にあらゆるものは、(他と)結合するものとしてあるのでもなく、離れるものとしてあるのでもないからである。善勇猛よ、結合というのは、これは永続をあらわす語であり、離とは断滅のことである。善勇猛よ、実にあらゆる存在に関してなんらかの理解があり、その理解によって(その存在が)結合したり、あるいは離れたりする、ということはない。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p269-271)

私の解釈

 最後に、私は補記として「私の活用方法」を述べました。

  この引用文でいう、”実践する彼”とは、知恵の完成を実践する菩薩のことです。引用文によりますと、菩薩は五蘊(色・受・想・行・識)を初めとして、あらゆるものが心と結合することもなく、離れることもない、と説かれています。

  このことは、私たち凡人も同様であると思います。

  先ず、「ものが心に結合されない」ということについて考えてみます。

 たとえば、私たちが特定の分野とか物事に対して、それを理解するために徹底的に取り組んだとします。このとき、私たちはそのものに成りきるとか、或は、心がそのものと一体になるというような体験をすることがあります。

 しかし、そのような体験は一時的な現象であり、私たちは特定の心の状態をいつまでも持続させることはできません。何故なら、私たちの心は因縁によって変化するからです。私たちの心の中が変わらないということは絶対にありえないということです。だから、ものが心に結合されることはないのです。

  次に、「ものが心から離れない」ということについて。

 私たちが、一時的な体験として深く関わったものは、年月が過ぎてから、ふと思い出すことがあります。このことは過去に経験したことが私たちの潜在意識の中に記憶されていることを示しています。これが、あらゆるものは心から離れない、といわれる所以です。しかし、心から離れないといっても、それらが心と結合しているということではないと思います。何故なら、私たちが過去に体験した様々な物事は、潜在意識の内部において、まるで暴流の如くに互いに混合し合って、夫々に変化しているからです。(仏教の唯識哲学ではこれを「業異熟」ということばで説明しています)

 ですから、厳密にいえば年月が過ぎてから思い出される過去の体験は、心に結合したものではない、ということになります。それられは過去の体験とは違ったものとして思い出されるからです。

 以上の解釈によって私は、ものは心と結合するのでもなく、離れるのでもないと理解します。

  ここで、引用文の教説を理解するために、参考となる教えを次に紹介します。

「あらゆるものは因果律に従って変化するもの(諸行)であり、空である、とことばによって説かれる。しかし、ことばの本性は、深遠で、微妙で、理解しがたい。[一一七] 」 (『三昧王経』・大乗仏典11、p155、田村智淳・一郷正道訳)という教えがあります。

 補記・私の活用方法

 以上のようなわけで、あらゆるものは私たちの心に結合するのでもなく、離れるのでもないのです。この教えは、私たちの心の働きに因縁が深く関わっていることを示しています。

 そこで私は、この教えの活用方法の一つとして、因縁の働きを利用することにより、不安や妄想を取り除くために役立てています。

  もう直ぐ71歳になる私は、肉体的にも精神的にも活動量が少ない生活のため、睡眠が浅く、また、夜中に眼を覚ました後、いろいろな雑念や妄想が思い浮かんで中々寝付かれない時があります。このような時に眠る対応策として、私は静かな「心の城」に入るための訓練をしています。

 その訓練とは、次のようなものです。

 ・毎朝、目覚めた直後に、寝床の中で気持ちを調えてから、小声で「ありがとう」を500回、  続いて「ついてる」を500回唱えます。

 ・「ありがとう」は、眼・耳・鼻・口・丹田・両足・頭脳・天・空・地(10器官等)に対して、意識を巡らせながら唱えるのです。(このとき私は、これらの器官等のお陰で、 元気に生活することができるということと、 ありがたいということを強く思うようにしています)

 ・「ついてる」は、広大な砂浜の海岸に立って、大海原を眺めている姿を思い浮かべながら  2,2,3,3(=10)のリズムで唱えます。(私の場合は、近くにこのような風景が見られる場所に住んでいる自分はついていると思うようにしています。

 なお、「ついてる」ということばを声に出して言うことを発明された斎藤一人さんは、少なくとも毎日100回言い続ければ、本当に「ついている人間」になれると断言しておられます)

 ・数の数え方は、自己流に左右の手の指を使うことによって、500まで、殆ど意識せずに数えることができます。

  毎日、このような訓練(約10分間)をしておきますと、睡眠を妨げる雑念(不安や妄想)が発生して寝付きにくい時に、上記の手段を用いれば、心が静まる「心の城」に入って行くことができるのです。

 また、強烈な雑念のために妄想が増大する気配があるときには、特別に、これらの言葉を1000回唱えます。それでも駄目な場合には、続けて静かな呼吸をしながら、数を「ひとーつ、ふたーつ・・・・」と100まで数えますと、自然に「心の城」に入って行くことができます。私はこのようにして夜の睡眠を快適なものにしています。

以上です。最後まで読んでいただいてありがとうございました。