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バイク乗りのちょっと寄り道、思った事…

私はバイク乗り 21

2006-09-04 06:55:12 | 私はバイク乗り
と、いう事で限定解除に行く事は決めたが
もちろん750ccのバイクに乗ったこともないし
400ccのバイクも数えるくらいしかありませんでした。
愛車のFZ250も軽量小型の部類に入るし…。

当時普通はレインボースクールに練習にいって
それから受験するというのが一般的でしたが
貧乏学生でお金もないし
250ccのバイクをうまく操れないで大型のバイクを
うまく扱えるはずがないっと思い
ちょうど川原にバイクや自転車の練習場があったので
毎日夕方その場所に2ヶ月通いました。
クランクや一本橋、急制動などを練習し
終いにはアクセルターンやウィリーなんかもやってましたかな。

寒さも厳しい2月、一番受験者が少ないだろうと
福岡県で唯一受験できた野間の試験場に出撃しました。
かなり練習していたので自信はありましたが
しかし結局一度も750ccに乗らないままの受験は
無謀だったかもしれません。

つづく。

私はバイク乗り 20

2006-09-01 10:56:25 | 私はバイク乗り
FZ250フェザーで日本各地を旅して
“こらからもずっとバイクに乗り続けたい”っと
思っていましたがひとつ気になる事がありました。
それは自動二輪は中型に限るという免許証に書いてある事。

もちろん我が愛車は250ccでありながら
ちょっと前の400ccよりパワーがありはしましたが
いつも大型バイクへの憧れがありました。
でも貧乏な学生の身分で
今では信じられませんが、当時車検は12万円くらいかかり
任意保険は新規で20万円くらい必要でした。
それは運転技術的にも経済的にも無理な話でした。

でもこれからもずっと乗り続けていくならば
いつかは750ccに乗ってみたい。
当時愛読していたモーターサイクリストのオールアルバムでは
400cc以上のページは必要なかったのですが
いつかは、いつかは…っと思っていました。

経済的には無理でも免許取得くらいの費用は何とかなるかもしれない。
やがて大学を卒業し社会人になると取得の為の時間すら無くなるだろう。
今しかないのか…。

当時福岡県の限定解除は全国でもっとも厳しいと言われ
合格率なんとは3%。
無理とは思ったがもうチャレンジする事を決意してた。

つづく。

私はバイク乗り 19

2006-08-28 08:22:39 | 私はバイク乗り
その頃我が家には弟用のSRX250
私用のFZ250がありました。
実は私には妹もおりましてどこでどう間違ったのか
私もバイクに乗りたいと言い出したのでした。

女の子なので普通は反対する所ではありますが
そこはバイク一家
逆にどの車種がいいかで話は盛り上がりました。

当時、SUZUKIからギャグという
ポップなポケバイの様な50ccのバイクが発売されていました。
何種類かカラーリングがあったのですがアメリカ軍仕様のカラーリングがあり
遊び心があってちょっと欲しいなと思っておりましたが
ポケバイを一回り大きくした程度の大きさでは
ポジショニングの件と絶対的パワーがあまりにもなく二の足を踏んでいたのです。

これなら妹でも大丈夫かなと思っていた所にYAMAHAから新型が発表されました。
それがYSR50です。
ギャグよりも一回り大きなサイズに7psのエンジン。
カラーリングもレーシーでYZRを思わせるものでした。
白に赤のストロボライン、ゴロワーズのブルーに黄色のライン
発売と同時に人気車種になりました。
結局このオシャレなYSRのゴロワーズカラーを購入して妹の物となります。

その後、この分野でもHONDAが負けじと
水冷エンジンのNSR50を投入してきました。
これがミニバイクレースのきっかけとなり
2ストローク250ccバイクが一番元気な時代になりました。

つづく。


私はバイク乗り 18

2006-08-22 10:24:53 | 私はバイク乗り
もうあとは駅寝しかない。
上り坂でエンジンをかけて、下り坂でエンジンを切る。
小さな集落をさらに通過する。
綺麗な月明かりだけが自分の味方だった。

やっとの思いでJR大歩危駅に到着した。
待合室に行くと不思議な事に先客が2人いた。
こんな日にこんなな場所で同じ考えのヤツがいるのか?
彼らは列車を利用して貧乏旅行を楽しんでいて
今日の宿を同じ大歩危駅にしていたのだった。
こんな状況で同じ同士にめぐり合うとは。

落ち着くと昼から何も食べてない事に気がついた。
彼らに「食べ物を分けてくれないか」っと言うと
「こんなものしかないけど」っと言って大きなみかんを2つくれた。
よく見ると彼らの脇には大きなビニール袋に入った
いっぱいのみかんがあった。
「貧乏旅行なんでこれを主食に旅を続けているんですよ」っと
恥ずかしそうに言ってきた。

もちろん空腹の私にとって
かけがえのないものだったので喜んでもらったが
彼らに悪い事をしたと思ってあたりを見渡すと
見つけた自動販売機でビールを買い
彼らに差し出した。
寒い夜、ギンギンに冷えたビールだったが
久しぶりのビールだったのか彼らは喜んで飲んでくれた。
その夜、みかんをつまみにしてささやかな宴会が行われた。

次の日、ざわついた人の動きで目が覚めた。
駅寝の鉄則“始発前に起きる”は疲れていたのかできなかった。
昨夜の彼らはもう出発したのかもういない。
ベンチに広げたシュラフをたたみ、駅前に出て驚いた。
目の前の山が真っ白に染まっている。
多分あの後、降り出したのだろう。
あのまま頂上で野宿していたらまず降りてこれなかっただろう。
いや、凍死していたかも…。

荷物をまとめ、バイクを傾けたが
もうキャブにガソリンを送り込む事はできなかった。
残量0。
GSまで愛車を押していった。

その後、徳島から和歌山に渡り
大阪で仲間と再会し
そのまま名古屋で今回の目的を達成した。

今でも忘れる事ができないツーリングでの出来事でした。

つづく。

私はバイク乗り 17

2006-08-20 11:20:32 | 私はバイク乗り
突然ヘッドライトの光が不安定になってきた。
エンジンをかけずに電力を消費したので
バッテリーも上がってしまったのだ。
しかもここから平坦な道が続く。
坂道を下る惰性だけでは走れない。
仕方なくバイクを傾け燃料をキャブに送り
セルも回らなくなったので押しがけでエンジンを始動し
下り坂ではエンジンを切ってを繰り返し繰り返し先に進んだ。

小さな集落はあったがどこも人がいるのかいないのかわからない。
いくつか通り過ぎたあと、やっとGSがある集落にたどり着いた。
山中の集落のGSはポンプが1台あるだけの小さなGS。
時間も10時を過ぎていれば誰もいるはずはない。
ふと見るとそのGSの前には赤い丸燈。
助かった、そう思った。

「すみませーん、すみませーん。」
やっと聞こえたのか私服姿のおまわりさんがでてきた。
カクカク、シカシカ…話を終えると
「もうGSの人はいないからねぇ。」っとつれない返事。
「この辺に宿はありませんか?」
「ないねぇ。」
この神様は私にとって何も役に立たないと解り
またエンジンを押しがけでかけてそそくさと後にする。
“泊めてください”とだけは言えなかった。

つづく。

私はバイク乗り 16

2006-08-13 19:55:48 | 私はバイク乗り
もちろんこんな状態で先に進む事はできない。
幸い野宿用に寝袋は積んでいたのでここでキャンプか?っと
辺りを確認したが適当な場所もなくこの白さが恐ろしくも感じた。

仕方ない、今来た道を戻ろう。
サクサクいう雪の音を踏みしめバイクの所まで戻り
慎重に慎重にUターンをして山道を下りはじめる。
あんなに苦労した登りだったが程なく雪が消えた道まで戻ってきた。
とりあえず寝床を探すべく民家がありそうな場所まで戻る事にする。
雪のない下り道は快調に走れた。走れた?走れる???
妙にエンジンか吹けなくなる時がある。
おかしい、どうしたんだ?
ひょっとしたら…。
リザーブコックに手をやって青くなった。
燃料がない!

エンジンが吹けなくなったのはそのせいだったのだ。
こんな山奥、ここで止まればどうする事もできない。
バイクを斜めに傾けるとまたエンジンをかける事はできたが
直ぐに尽きてしまうだろう。
幸いここからしばらくは下り坂なのでエンジンを切って惰性で下っていく。
エンジンがかかってないとこんなに静かなんだろうか。
タイヤが回る音さえ確認できる。
静けさが不安をさらに増幅させたが
暗い闇の中でヘッドライトだけが希望の光だった。
しかしその希望の光も長くはもたなかった…。

つづく。

私はバイク乗り 15

2006-08-12 08:55:40 | 私はバイク乗り
頂上に近づくにつけ頼りの轍が細くなり
ついにはアイスバーンとなってしまった。

頂上まであと少しここでUターンする訳にはいかない。
バイクを停め少し先まで確認に行くと
そこからはまたかすかな轍がある。
そこまで辺りに転がっていた棒切れや足を使って轍を作る。
なんとか頂上まで来たがそこは一面銀世界だった。

この少し先に国民宿舎はあるはずなので
仕方なく愛車はここに置いて歩いていく事にする。
風もなく寒くはなかった。
むしろ雪かきやバイクを押したりして
汗をかいているくらいだった。
懐中電灯もなく漆黒の闇ではあったが
月がとっても綺麗に見える夜でした。

数分後ここが国民宿舎であろう場所に着いた。
でも何かがおかしい。
明かりがまったく見えない。
表に回って見ると入口らしき場所にはベニヤ板で覆われた入口と
“冬季につき営業終了”の文字が!
自動販売機の電源さえ入っていない午後8時の事でした。

つづく。

私はバイク乗り 14

2006-08-11 11:26:09 | 私はバイク乗り
大学も何とか卒業しあとは4月の入社式となっていました。
もちろんそれからは今までの様にロングツーも難しくなるでしょう。
その前にもう一度…。

目的はあの北の大地で知り合った全国の友との再会でした。
あの旅のあとからお互いの撮った写真を交換していたので
交流は続いていたのです。
コースは四国を抜け、大阪に行き、最後は名古屋と決めた。
3月中旬とはいえ南国四国
暖かいだろうと嘗めていたのが事の始まりでした。

四国は平家の隠れ里
小さな島に見えるが実は切り立った山々が折り重なる様に続いていて
まっすぐ伸びる道はなく、細く曲がりくねった道が山肌を縫うように走っている。
なので思ったように距離が稼げず時間ばかりかかってしまう。
祖谷まで来た時、山の上が白くなっているのに気づいた。

時間は午後3時
ここからR439を通って徳島にぬけるつもりでいた。
ガソリンは残り少なかったがここは山の中
入れるGSもなかったのも事実だが
満タンにして峠を越えるより軽くして峠を越えた方が
燃費も機動性もいいだろうと考えていた。

いくつかの小さな集落を抜け道が登りになる。
急に道が狭くなり曲がりくねった道となる。
日陰のコーナーでは路肩に白い物がちらほら
そのまま登って行くとついには車が通った轍の跡の2本のラインだけになった。
そのうちの1本のラインを電車が走るが如くトレースする。
ちょっとヤバイかなっと思ったが
地図で確認するともうすぐ峠の頂上なので
峠さえ越えればと先を急ぐ。

轍のトレースは速度を歩く速さと同じにし
あんなに高い位置にあった陽も
すでにヘッドライトを必要とする夕闇となっていた。
この時点で今日の峠越えはあきらめた。
いくら峠を越えたとはいえ多分反対側もこのような状態だろう。
夜の雪道程危険なものはない。
地図で確認した頂上の国民宿舎に泊まろうそう決めて
とっぷり暮れた雪道を頂上目指して登っていった。

つづく。


私はバイク乗り 13

2006-08-10 09:46:01 | 私はバイク乗り
このFZ250ではいろんな所に行きました。
阿蘇はもちろん本土最南端鹿児島県佐多岬
本土最西端平戸をはじめもう何処にいったのか
はっきり覚えていない。
そしてもちろんあの北海道も!
今から20年も前の事だ。
そしてその旅でホントのバイクライフを知り
その北の大地で一生バイク乗りでいようと思った。

そしてあの私のバイクライフで最大のピンチを迎えたのも
やはりこのバイクであった。

つづく。


私はバイク乗り 12

2006-07-14 11:04:54 | 私はバイク乗り
ギリギリの予算で購入したので
登録関係は自分でしたのを覚えています。
こうしてFZ250は私の愛車になりました。

嬉しくて嬉しくて言葉にはできませんでした。
人に見せびらかしたい気持ちがあったのは事実です。
最初に彼女をバイクに乗せてあげたかったのも事実です。

そして初めて彼女とタンデムすることになりました。
ツーリングの当日彼女の家に迎えに行くと
彼女と一緒にお母さんが出てきました。
とても心配そうな顔をしてます。
それはそうでしょう、あんな危ない乗り物
親が心配するのは当たり前です。
その時初めて罪悪感を感じました…。
でも初めて彼女とツーリングに行ける喜びの方が大きく
親の心配をよそに走り出しました。

新型のFZは何処に行っても注目の的で
しかも後ろに彼女が乗っている。
気分上々、その瞬間私は欲しいものを同時に手に入れたのです。
その後バイクは私の中心的存在になり
彼女は嫁さんになりました。

そしてGF250に乗っていた友人が同じFZに乗り換えたのは
その後すぐの事でした。

つづく。