Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

連載 BLスタディーズ1-8

2007-12-13 11:16:07 | 本を読んだ
注:勝手に連載になったので、これは1から順に新しいほうを下に置いていきます。

しばらく日記の更新を放置していたんですが、それでも来てくれているひと、有難う。さて今日は、久しぶりに真面目に書きます。

ユリイカの12月臨時増刊号『BL(ボーイズラブ)スタディーズ』、この間BL本が出たばかりなのに、第二弾ということは、ニーズがあるということですね。先回の本はなかなかよくできていて、面白かったので、第二弾も楽しみにしていました。今回も面白かったんですが、残念なのは、先ほどの回に較べると、ちょっと寄せ集め的な感じがしなくもないところ。もう少し突っ込んだ作品批評、というか、BLについてのもう少し理論的な考察が読めると嬉しいです。なんでBLという形式が日本社会で発達したのか、という疑問ってわたしにとっては大きなものなんですが。

あと当然ガイド的なものもついているんですが、小説のラインナップは、かなり趣味が違いました。それは「趣味」だから、いろいろ違って、いいんですけどね。わたしだったら榎田尤利さんは『眠る探偵』シリーズよりは、漫画家シリーズを推しますし(どうでもいいけど、榎田さんと鬼塚ツヤコさん、紹介文の印刷が逆です…)、崎谷はるひさんは『ブルーサウンド』シリーズも人気あるのかもしれないですが、個人的に好きじゃないのです(ってそれだけかいっ。まぁ一年間に限っても、崎谷さんは作品数があまりに多いですけど。でもこのひとのは、ぶっ飛んだもののほうが面白い気がする)。あとは鳩村衣杏さんの『ドアをノックするのは誰?』とか、かわい有美子さんの『透過性恋愛装置』とか、砂原糖子さんの『言ノ葉ノ花』や『夜明けには好きと言って』など幾つかのものとか、人気があったし、挑戦的であったのではないかなぁと思います。マンガに関しては、わたしはどちらかというと古め(?)の作家さんが好きなので、やや自分の趣味の渋さが悲しくなっちゃったりしました。まぁ、そういう腐話は置いておいて。

今回ちょっとひっかかったのは、森川嘉一郎さんの『数字で見る腐女子』です。吉川さんは、仕事でご一緒させていただいたこともあり、イケメン(死語御免)なのに佇まいにオタクを実践されていて、すでにそれがパロディにまで昇華されているブリリアントな方ですが(変な文章ですみません)、今回の腐女子と非モテに関してはちょっといただけなかったです。

冒頭で「本稿では『腐女子論』をメインに扱います。男性によって腐女子が分析されることに嫌悪感を抱く方、『放っておいてくれ』という方、興味やご理解のない方は、ここから先の閲覧はご遠慮ください」という注意書きから始まり、「腐女子は縁遠い、などということを統計的に掲げたのは、危険な行為だったかもしれない。腐女子学者も怖いが、腐女子はもっと怖い。怖いので文頭にクレーマー除けを書き加えた上で、筆を置こう」で終わるあたり、かなり批判されることを意識されているようですが、わたしは腐女子と非モテというテーマや結論よりも、論じられている手さばきに、はてさて?という疑問を禁じえなかったです。

ご本人もお書きですが、でもやはり。腐女子の統計として使用するのが、雑誌『ぱふ』のアンケートです。う、うーん。『ぱふ』、年に一回はかならずBL特集をやっていますが、「『ぱふ』の読者=腐女子」という定義には、やっぱりかなりの疑問があります。「『ぱふ』の読者=マンガ好きの子」ではあっても、腐女子とはいえないような。しかもやっぱりアンケートに自ら進んで答える読者のサンプリングの問題があるので、統計的に「遜色がない」といわれても、それはちょっとといわざるを得ない。それをランダムサンプリングの国勢調査(あ、全数調査でしたね)や社保人口研の出生動向基本調査と較べてもなぁ…。でもまぁいいです。ここで突っ込むのはやめます。

『ぱふ』読者が求める恋人のタイプとして、一般人が35%、同類が37%、現実ではいらないが9%、その他が19%なんですが、それと社保人口研調査の「一生結婚するつもりはない」という4%と較べているんですよね。これを元のデータに当たってみると、女性で、

20-24歳 25-29歳の順にパーセンテージを書き込みます(ガタガタしててすみません)

一年以内に結婚したい            8.9  16.1
理想の相手ならしてもよい(結婚年齢重視派) 14.1  16.1
理想の相手ならしてもよい(理想相手追求派) 15.8  28.8
まだ結婚するつもりはない(結婚年齢重視派) 23.2  10.3
まだ結婚するつもりはない(理想相手追求派) 27.0  15.3
一生結婚するつもりはない          3.9   4.2
不詳                    7.1   9.2

森川さんは最後の3.9%と4.2%を足してだいたい4%と見当をつけられたようですが、これって「現実では恋人いらない」よりかなり強い決意じゃないですか? むしろ理想の相手を追究したいのでまだ結婚するつもりのないカテゴリーは20代前半では27%、後半でも15%近くいますが、なぜこれと比較してはいけないのでしょうか?(あ、表を書き写して疲れたので、語気荒くなってきた)。それも「恋人のタイプ? 一般人、は、腐女子との両立は難しいだろうし、同類、は、かえって鬱陶しいし、そういわれちゃうと現実ではいらないなぁ。今はテニミュに夢中だも~ん」なんていうふうに出されただろう数字が9%ですから、これをどうとっていいのか? 「結婚するつもりか」と聞かれるのと、「どんなタイプの恋人がいいか」と聞かれるのは、「いらない」と答える確率は、かなり変わってくるはずです。それを「どんなタイプがいい?」と聞かれて、「いらない」と答えたひとが少なかったので、腐女子は恋愛したいのに、相手がいない、と結論付けるのはちょっと手続きとして乱暴すぎる気がします。

こういう統計のデータの使い方がおかしい!みたいな批判って、まぁあんまり好きじゃないんですが、むしろ問題は、ジェンダーカルスタ論批判と腐女子の多様性をめぐる論考以下、いろいろです。息切れたのでとりあえず途中でアップ。消えちゃっても困るので(あ、ついでにいっておくと、べつにわたしは腐女子学者じゃありません)。

2に続きます。
  ↓

連載 BLスタディーズ2

2007-12-13 11:15:13 | 本を読んだ
なんだか途中まで書いたんだけど、ネット上にチマチマと文章書くのが面倒くさくなってきた。でも乗りかかった船だから完成させることにします。こんなことを書いている暇があるんだったら、論文書いたほうがと思うんですが、まぁいいや。今日も少し書いたら切り上げるので『連載』にしました(笑)。

この前の日記には、些細な意見の違いなんてどうでもいいのにと書いたんですが、やっぱり「些細」じゃないなぁと思うので、続き。

ええっと森川さんは、この間のデータから、腐女子がモテないという結論を引き出されて、やおいやBLの内容との関係を探ろうとするのだけれど、このような追求は、「モテない腐女子像を退けようとする学者たちのやおい論や腐女子論の思潮と、真っ向うから対立する危険性をはらんでいる」といい、その思潮とは、ジェンダー論の傾向で、前回の『腐女子マンガ大系』の学界の書き手による文章には明確にその傾向があったらしい。

うーん、具体的に誰をさしているのか、よくわかんないんですが(金田さんだけは名指しだけど。きっとわたしがこんなところでチョコチョコ書くより、森川さんが仮想敵(?)にされている方が直接反論なり、応答されたほうがいいんだろうなぁ)、「モテない腐女子像を退けようとする学者たち」というのが、どうもいるのかなぁ? わたしの知るかぎりでは、杉浦由美子さんなんかは、かなりその傾向がありましたが、彼女は学者じゃないし…、でもきっと、おっしゃるからには存在するんでしょう。わたしはBLという表現形式には関心があっても、腐女子というカテゴリーはともかく、実態はどうでもいいし、モテ非モテもどうでもいいので(っていったら、終わってしまいますが)、ここの部分は飛ばします。でも正直にいえば、前回の『大系』で、むしろジェンダー分析がされないことにわたしは違和感をもったし(だって男同士が性交渉する作品を女性ばかりが(腐男子もいますが)読んでるんですよ! 変な現象じゃないですか?)、表象の暴力の問題もさらっと流されていて(明らかに当事者じゃないひとたちの領有が起こっているというのに。今回は石田さんが論考を書かれていましたが)、森川さんと印象はまったく逆です(きっと信じている神が違うんだと思います)。

で、こういうやおいを考察する際の、既成の学問分野がカルチュラル・スタディーズと女性学であることが、これらの原因である、と森川さんはおっしゃって、カルスタ(略すの嫌いだけど、長いから略す)と女性学批判を行われている。

カルスタは、人種問題があり宗教問題があり、これらが焦点となる政治風土を背景とした社会での左派の理論武装で、日本は「歴史・人種・宗教風土」を「大きく異にする」という。うーん。わたしの琴線に触れるのは、ここです。こういう批判って、どうなんでしょう?(もう論じつくされている問題でもあり、今さらでもありますけど)。

例えばマルクス主義でもいいですし、構造機能主義(笑)でも、精神分析(これは半分保留)でもいいですけど、まぁそういう大きな理論の枠組みがあるところでは、その理論的枠組みの適用可能性を論じることって、まだ意味があると思うんですよね。大きな物語ってどうなの?でもいいですけど。でもカルスタって、そもそも既存の学問の境界線を壊しましょうというような学問的実践であって、何というか、ポスト構造主義のなか、ミシェル・フーコーが「知の道具箱」呼んだような、たんに分析のための小さなツールに過ぎないんじゃないんですかね? そんな小さなトンカチみたいなものを、「西洋」を実体化してそこに帰属させ、二項対立的な「日本」を作り上げたりするよりは、トンカチのオリジンなんて、どうでもいいじゃないと考えるほうが、現実に即しているように思います。森川さんのいうような批判自体が、「西洋」を実体として作り出しちゃうんじゃないのかしら?

もちろん、ひょっとしたらカルスタ総体を神として信じているひともいるのかも知れませんが。しかし具体的なテクストを分析するときには、ここは「オーディエンス」という概念を核に分析してみようとか、少なくともわたしは、その程度のことしかやらないし、できないです。そんな概念のクレジットに、漢字がついていようと、カタカナがついていようと、それはたいした問題じゃないと、わたしは思います。

うーん。また体力がなくなったので待て次号!
いったいいつ終わるのやら。

連載 BLスタディーズ3

2007-12-13 11:14:15 | 本を読んだ
なんだかちまちま進んでます。わたしは今日読んだ『天使のうた』にショックを受けて、なんだかどうでもよくなってきてしまったんですが、続けます(怖くて次号が読めません)。毎日、1セクションについて書いていると、森川さんのこの論文がすごく好きなような気がしてきました。少なくとも、今、森川さんのこの論文を、日本で一番読み込んでるのは、わたしですよっ(というのは、どうかわかりませんが)。

ええと、森川さんの批判のもうひとつの論点、女性学について。森川さんの懸念は、やおいや腐女子に関する研究が女性学によって植民地化されることのようです。そうなると起こる例として森川さんが挙げられているのは以下のような事態です。

「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が、「ゲイ差別的」で、その時々のフェミニズムの文脈にとって都合が悪いという基準でアカデミズムの高みから「望ましくない」と審査されたり、そうした基準に配慮したかたちでやおいの作品史が編纂されたりしかねなくなるのだ(129ページ)。

森川さーん、まるで杞憂ですから、安心してください。というか、森川さんっていいひとですね。わたしの知る限り一番最初に同性愛の文脈でやおい表現(やおい少女たち?)を問題化して批判したのは、キース・ヴィンセント氏だと思うのですが、むしろフェミニズムはヴィンセント氏のようなゲイ・スタディーズの側から、異性愛中心主義的であると批判される側であって、「ゲイ差別」を自ら告発するような、そんな立派なことはおこなってこなかったと思うのですよ。例としてはほとんど考えられない事態、というより、ジェンダーの視点から(というものがあるとここでは仮定して)テクストを分析することはあっても、そのときに、ゲイ差別の視点が落ちてしまうことのほうがあり得て、むしろこちらの事態のほうが問題だ、という風に思うのです。

しかしこう書くことによって、わたしが森川さんの批判するような「女性学」の学者になっていると思われると心外です。なぜなら、いまどき、表現と表象の問題を考えるときに、こんな単純な理論を取るひとって、いるのかなぁ? 性表現の規制派の代表格とされているキャサリン・マッキノンですら、ここ10年は、表象がパフォーマティヴであるということを理論的支柱に置いていて、こんな単純な批判はしないと思う。

まぁ、悪書追放運動を推進したいひとたちが、こういう理論を取るかもしれませんが、そのときはむしろ「ゲイ差別だから」なんてことをいってくれるよりも、「ゲイのこんな不道徳なシーンが描かれているザマス(なんでこういうことをいうPTAおばさんって、「ざーますふじん」として戯画化されるんでしょうね?)」と片付けられると思いますけどね。

ここでまともな学者がやるべきことは、「俺はゲイなんかじゃない、お前だから好きなんだ」といった表現が何を意味しているのか、書き手によってどのように意味づけられ、読み手がどのように受け取っているのか、テクスト総体のなかで、どのような効果を生じさせているのかを分析することであって(それは最終的に「ゲイに対して差別的な効果を生んでいる」という結論かもしれないけれど)、もしも「ゲイ差別的」だと断定して終わりという単純なひとがもしいるとしたら、森川さんは堂々と「こんな分析で満足しているなんて、あんたは学者として三流だ」と、個別に批判されればいいんじゃないでしょうか。と、わたしは思うのです。

さらに森川さんの心配は続きます。「このようなフェミニズムの文脈からの審査に足しして反発でも起きようものなら、植民地的な体質の下では、『それが進歩的な国(ルビ:アメリカ)では常識だ」、「世界の笑いものになる」といった、帝国主義的な原理の召喚へと容易に発展する」(129ページ)。大丈夫です、しないですよ。

むしろ可能性があるとしたら、「ゲイ差別だ」と怒るひとに対して、「ああこれは、アメリカではクィアっていうんですよ」と無化する、というほうが、まだあり得る気がします。森川さんのカルスタやジェンダー研究(女性学)へのイメージはすごくよく伝わったのですが、内実は全然違いますから、ご安心ください。そもそもあるジャンルを簡単に実体化して、統一的な見解を想定するっていうのは、無理があるように思います。カルスタやジェンダー研究も内部は多様ですから。

で、上手く繋がったところで、次回は、森川さんによる「多様性」批判を検討してみます。


連載 BLスタディーズ4

2007-12-13 11:13:40 | 本を読んだ
グランプリファイナル、高橋大輔、本当に惜しかった…っ!! 4回転を成功させたものの、そのあとの演技が精彩を欠いてしまいました。ジャンプの数、いつも織田信成が数え間違えて無効になったりしていますが、見ているほうもわかんなくなるのに、滑りながら「今のはコンビネーションを変えちゃったから、どこかのジャンプをコンビネーションにして…」とか考えるのは大変そうですね。荒川静香もオリンピックシーズンの全日本のとき、演技後に感想を求められて「ジャンプの数を数えていたら不安になって他は何にも覚えてません」というようなことをいっていましたね。ジャンプを成功させればそんな心配はあまり必要ないのですが、それはさておき。

ええーっと4回目。別にこんなに引っ張るつもりはなかったんですが、森川さんの提起する問題が面白いので、つい長くなってしまいました。で、今日は、多様性について、でしたっけ?

森川さんによれば、「多様性」というのは、エコロジーとか平和とかと同じで御旗の錦であり、こんな単語を珍重するのもカルスタと女性学のせいである、ということになります。そして、特殊な女たちの主張とされてきたフェミニズムが、腐女子の「多様性」を謳うことにより、「一般的な<女性>として扱うことができた方が、好都合」だからこそ「多様性」を謳うのであるが(フェミニズム陰謀論ですね)、それは「モテない腐女子」を抑圧し、有徴化するような効果をもつといいます。

わたしなりの要約なので、間違っていたらすみません。しかし、面白いなぁ…。わたしには、とても思いつかなかったです。しかし別に、フェミニズムが団体というか、ひとまとまりになって陰謀をめぐらしているわけではないと思うんですが、フェミニズムとは離れても、腐女子って多様なのは当たり前じゃないでしょうかね? そして「腐女子」というステレオタイプがあるからこそ、その多様性に焦点が当てられるのは当然のことであって、別にフェミニズムの陰謀ではないと思いますけど(別に腐女子はフェミニストでもないし、すべてのフェミニストは腐女子に関心があるわけではないし。フェミニストで腐女子に関心があるのは一割にも満たないんじゃないでしょうか? 勝手な脳内統計ですけど。世界のフェミ化のために、腐女子論を利用してやれっ、みたいなフェミニストがいたりするんでしょうかね?)。

ミステリーの読者が多種多様であるのと同様、あるジャンルの作品を読む読者が多種多様であるのは、当たり前のことなんじゃないんでしょうか? そして実際、読みは多様であるし、読者の好みも多様なんですよ。当たり前だけど。そうじゃなかったら、メガヒットを飛ばす出版物を作るのは容易に可能になりますけど、実際にはそうじゃないでしょう?

前の『腐女子~』を読んでわたしが衝撃を受けたのは、BLの読まれかたの違いに気づかされたところです。本当に読みかたって、多様なんだなぁと。確かに、「BLはポルノ」という言い方をされることがありますが、自分は少女マンガの延長で読んでいたので、この「ポルノ」っていういいかたは、「メタファー」だと思っていたんですよ。いや本当に、上品ぶるわけではなく。ところが、本当に「ポルノ」として読むという読み方があるんだ、ということを突きつけられて、眼から鱗というか、何というか、衝撃、としかいいようがありませんでした。

そうか、ポルノだと考えれば、人前でBL読むとかいいにくいよなぁ…。なんだか妙に納得。わたしは社会学者なので、「実にジェンダー論的に面白い」というか、読んでいると、男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて、面白いなぁと思って読んでいるという自己正当化ができるからかもしれません(いや単純に面白いんですよ、作品として)。でも本当にびっくりしたんです。

考えてみれば、24年組→白泉社系で、ひとまずピリオドを打ったわたしの読書経験としては、BLに触れたのは、今度は30を過ぎてからなんですよね。この年になったら、(あの程度では?)ポルノとしては機能しないんですが、中学生とか高校生には確かに刺激が強いのかも…。そしてその頃から読んでいる読者がそういう読みを身につけていても、なんら不思議ではないですね。

あと、やおいとBLは違うんだなぁとも思いました(相対的にですけれど)。金田さんはやおい同人誌が好きで、商業誌はそれに較べるとあまり好きではないとおっしゃっていたけど(知っている後輩に「おっしゃって」とかいうのもなんか照れ臭いですが、ここでは敬意を表して敬語に)、わたしはやおい同人誌を作っているひとは楽しそうだなぁと、同人活動を羨ましく思いますけれど、作品としては同人誌はあんまり好きじゃないんだろうなぁ。商業誌にやおい同人誌的なものが出てきた(尾崎南が『マーガレット』に連載開始とか)ときに、わたしはこの手のものから離れたのは、偶然じゃないと思うんですよね(あ、やおい=同人誌、BL=商業誌って本当に乱暴なくくりですけれど、ここでは暫定的に)。

何というか、やまなしいみなしおちなし、の作品より、ヤマもイミもオチもある、ある種の選別と覚悟を経由した作品を好むのです。玉石混交の宝の山から、宝石を発掘するのを好むひともいるだろうし、できる二次作品なんかはどうでもいい、仲間と好きな作品について語り合えるコミュニケーションの過程自体が楽しいのだというひともいるでしょう。やっぱりそれは多様としかいいようがない。「恋愛物のオリジナル」が好きな理由は個人的にはいろいろと考察可能なんですが、それはここでは関係ないので省きます。

こういうことを考えて、BLの読者って多様だなぁ、萌えツボも本当に違うよなぁ、ということは、別にフェミニズムの陰謀ではないとわたしは思うのですが、どうでしょう?

連載 BLスタディーズ5

2007-12-13 11:12:40 | 本を読んだ
ちまちまと森川さんの論文の論旨を追っていくのも疲れたので、今日はもう少し問題を発展させて考えてみようと思う。

森川さんの危惧していることは、おそらく「表現の自由」の規制であると思われる。それは行政による規制にとどまらず、「不要な自己規制が唱導される事態」への危惧も含む規制への危惧である。それらの背景には、近年、商業誌のみならず、同人誌の性表現への検閲の眼差しが強まってきていること、そして豊かな二次創作を生み出してきたパロディという形式自体が規制され始めていること(小学館のドル箱で、著作権でもめている『ドラえもん』のパロディが問題化された際の報道では、「偽物を作って荒稼ぎ」という報道が多く、このようなパロディのもつ問題についてきちんと考えられたものはほとんど見受けられなかった)などが、あるのではないかと推察される。その危惧はよく理解できる。

しかしその際、差し向けられる問題の対象が、ジェンダー論であったり、カルスタであったりするというのは、どう考えてもおかしな話である。歴史的にみれば、ジェンダー・セクシュアリティ研究、カルスタは、森川さんのいう「進歩的な国(アメリカ)」で保守派の槍玉に挙げられ、これらの「下品」な研究に公的な金銭を使ってもいいのかというまさにネオリベ的な問題化が起こり、潰されてきたのだ(日本でも文部科学省の科学研究費を「反動的研究」に投入すべきではない、国公立の大学では学問が「中立」であるべきだ(特定の派閥であるジェンダーフリーなどの研究・教育は行われるべきではない)という主張が、近い将来起こっても不思議ではないと感じている)。それを恐れての自己規制が行われる可能性は大いにあるとしても、フェミニズムやカルスタそのものが、規制をうんでいると考えるのは、多分にたんなる誤解である、としかいいようがないのではないか。

わたしは個人的には、「表現の自由」という言葉は好きではないし、おそらく今後も積極的には使わないと思う。わたしが守りたいものは、抽象的な「表現」などではないからだ。何かを表現する際、ひとは思ってもいないひとを傷つけたりする。それはある特定のカテゴリーに属するひとであったり、また例えば簡単なエッセイを書いただけでも身内の誰かを傷つけるかもしれない(そこには、表現の場を与えられているひとと、そうでないひとという非対称性がある)。となれば、何かを表現しようとするひとは、できるだけ誰かを傷つけないように配慮して表現を行うと同時に、その結果起こる出来事をある程度引き受ける気概と責任感を必要とされるのである(もちろん、すべてに責任を取ることなど不可能である)。何かを表現することというのは、(行政によるもののみならず)、そのような規制があるなかで、その隘路をくぐって行われるものである。それを「表現」だから何もかも認めよ、という気持ちに、わたしはならない(ナチスに関する表現が無限に行われていいとも思わない)。むしろそのような制約があるからこそ、「自由」という言葉は光り輝くのではないか。何を「表現」したいのかを自ら問い直すことになるのではないか、とわたしは思う。

と同時に、差別語や差別表現、わいせつ(という概念自体がもう問題だと思う)表現を無差別に規制することには反対である。なぜならそのような規制は、何かを問題化すること、例えば差別表現を問題化すること、自体を封じることになる。また差別的な状況を作品のなかで作り出すことによって、自ずから差別について考えさせる優れた作品があり得ると考えるからである。差別はいけません、という決まり文句で差別語や差別表現を排除することだけによって社会が変わるのであったら、…それは楽でいいですけどね。そんなことはあり得ないと思います。

本題に戻ってまた続きます。

連載 BLスタディーズ6

2007-12-13 11:11:29 | 本を読んだ
いろいろ用事が立て込んでいて、連載といいつつ(いや、誰も楽しみにしていないですね)、休載しているBLスタディーズ。途中脱線したまま、放置してました。

しかしクリスマスイブにこんなことを考えているのもどうかと思います。続き書く意思があることだけ表明して、今日はおしまい。でも年内に1回は書こう…。

連載 BLスタディーズ7

2007-12-12 14:26:34 | 本を読んだ
A Happy New Year! すみません。年内に更新といいつつ、できませんでした…。先生も走る師走ということで、いろいろと雑事に追われていました。あとは、橋下弁護士はじめ、相変わらず怒ることには事欠かなかったので。ってわたしが怒っても、仕方ないんですけどねぇ…。

大学は税金を使うのは無駄だから、私立大学があれば充分。府立大は160億も浪費している。女性センターなどの団体は、赤字のところはいらない。廃止し、徹底した民営化をって、このひとの考えることはなんて貧困なんでしょう…。相対的に安い国公立大学は、教育機会の平等のために必要だし(私立大学の学費を払えないひともいるし、地方に国公立大学はそれなりの教育機会を提供しているのです。大阪が地方かどうかは微妙ですが、こうやって地方の国公立大学が廃止されたら、大変。皆に私立、とくに橋下さんのように早稲田などの、東京の私立に進学しろというのでしょうか?)、営利を追求しない公共的な団体は、市場の原理に乗らないからこそ、行政が運営する必要があるのになぁ。弁護士を続けていたら、収入は10倍だそうですから、続けられたほうがいいんじゃないでしょうか? 徹底して、ケチで行く(だっけ? 銭勘定でいく、みたいなことをおっしゃってました)という名の民営化促進論者の橋下さん、自分の人生にかんしても、銭勘定を貫かれたらいいのに。

などと正月早々、怒っていても仕方ないので、これを早く終わらしてしまおう、BLスタディーズ。今後はちょっと駆け足にします。

腐女子の多様性を言い募るのは、フェミニズムの陰謀、というところまで書いたんでしたっけ? 森川さんによれば、やおいやBLを、「女性のため」と枠付けようとする傾向にも、特殊な存在としての「腐女子」を後退させようとする力学が働いているようにみえる(「腐女子」は所詮「女オタク」だろうということ)そうです。あとは、「腐女子を差別する一般女性」と「差別される特殊な存在としての腐女子」という構図があるにもかかわらず無視している、それは「英米には、女性差別があり、ゲイ差別があり、それらに対してフェミニズムやカルチュラル・スタディーズが異議申し立てをしてきた蓄積がある」けれど、「英米の学界には、腐女子差別に関する議論などは、まだ、存在しない」からであるそうです。

きちんと論じ始めると、かなりのオタク論を展開しなければならないので、ここでは簡単に述べますが、わたしは男のオタクと女のオタクは、この社会で置かれている立場がやはり異なり、オタクという語で一緒にはくくれないと思います。例えば中島梓などの評論で言われつくされてきたことだと思うのですが、男は、オタクになることによって「男」から降りることができるけれども、女のオタクはオタクになったとしても「女として」評価されることからは降りられない、という古典的なオタク論はまだ死んでいないと思います。杉浦由美子さんが「腐女子」を自称されたうえで、腐女子はキモオタではない、モテモテである、ということを繰り返し述べていらっしゃったのは、その図式を無化しようと試みながらも、逆に構図を明らかにすることなくこだわることによって、逆に呪縛から逃れられなかったのではないかと、個人的には思っています。

森川さんも自覚されていますが、男のオタクが扱う事象とことなり、腐女子が扱う事象は、自分とは本来関係ないとされる男性同性愛関係ですから、やおいやBLを論じるときに「女性」が「男性同性愛」についての作品を生産・消費していると、性別に着目することは、決して不思議ではない気がしますが…。

むしろ、「腐女子を差別する一般女性」と「差別される特殊な存在としての腐女子」の区別はそれほど自明ではないと思います。というより、「一般女性」というカテゴリーは、「(一般)男性」というカテゴリーとは異なって、もっと空虚だと思っている、というのが正しいんですが(これはこれで長くなるので、ここでは割愛。また他で書きます)。そのことはさておき、もちろん、みるからに女オタク的な腐女子というのも存在するでしょうが、そうでない腐女子がなぜ、「腐女子」ではない「一般女性」のイメージをことさら「擬態」するのかについて「腐女子だと笑い者にしてもいいというメディアの態度が暴力的で隠したいから」「腐女子に強い嫌悪感と敵意を示す男性に恐怖を覚えるから(ホモフォビアがあるうえに、それを「女子」によって扱われるのですから、あり得る反応だと思います)」という理由を挙げるひとは多いのです(森川さんの周囲には、そういう女性はいらっしゃいませんか?)。

「一般の女性」のカテゴリーに入る女性がいるとして、そのひとたちが「腐女子」に強い嫌悪を示すとしたら(わたしはすごく理解できますけれど)、それは「女性」対「女性」のなかで分析されるものではなく、「男性」を含みこまざるを得ず、森川さんが嫌がられる「ジェンダー論」を経由しなければ不可能なものだと思います(誤解があるようですが、ジェンダー論はけっして、単純に「『男性』対『女性』」という対立のみを解くものではなく、ポスト構造主義の洗礼をうけているジェンダー論はもう少し繊細なカテゴリーの分析をしていますし、それを可能にしたのが「ジェンダー」という概念です。フーコー経由のジェンダー概念については、スコットの『ジェンダーと歴史学』あたりに感動しました。といっても10年以上前ですが)。

「英米の学界には、腐女子差別に関する議論などは、まだ、存在しない」からと森川さんはこれらの議論の理由を分析されるのには、違和感をもちました。わたしが面白いと思った日本の少女マンガやBLを分析した評論はたくさんあるのですが、それらは別にカルチュラル・スタディーズを直接適用したものではないし、そもそもカルスタはそんな「大きな物語」ではないということは、先に述べた通りです。

今回、ちょっと荒い議論ですが、次回は、森川さんが根拠とされている宮崎さんの論文について述べさせてもらって、終わりにします。年を持ち越すとは思わなかったです…。どれだけ森川さんが好きなんだと、驚くわたしですが、森川さんの論考、こういうことを考えさせてくれるという点で、本当に挑発的で刺激的でした。

それでは皆さん、今年もよろしく。


連載 BLスタディーズ8

2007-12-11 22:25:08 | 本を読んだ
今回で、やっと森川さんの論文を読み終わります。森川さんは、「腐女子を差別する一般女性」と「差別される特殊な存在としての腐女子」という項目を立て、腐女子が「腐女子」としての解放を要求しないのは、女性のなかでの社会化、とくに学校空間における社会化が効いており、「安定した階級構造というよりは、緊張感のある派閥構造によって学級社会がモデル化される」とおっしゃいます。その際に、拠って立つ根拠が、宮崎あゆみさんの「ジェンダー・サブカルチャーのダイナミクス」論文です。

わたしは教育社会学で修士号も取っていて、学部時代から研究会などで宮崎さんのこの論文が練り上げられているプロセスを知っているので、つい懐かしくなってしまいました(森川さん、文献の出版年が落ちていますけれど、これは1994年の論文ですよ)。「宮崎あゆみ氏の事例調査」が、女子生徒たちが、勉強グループ、オタッキーグループ、ヤンキーグループ、一般グループによって編成されていることを報告していおり、これが森川さんの女性対立論の根拠となっています。

森川さんは、「この宮崎氏による派閥モデルの普遍性を評価するには、より多くの研究の蓄積を要する」と前置きしたうえで、「仮に(宮崎氏による)この対立構造がある程度の普遍性を持ち、かつ、教室を舞台とするそのような殺伐とした派閥間構想が腐女子たちの多くを訓練する場として機能していたと仮定するなら」、とおっしゃいますが、宮崎さんはこれらの仮定に、イエスとはおっしゃらないと思いますし、わたしも受け容れることはできません。

今手元に『教育社会学研究52集』がないので、詳しく論拠はあげられませんが、宮崎さんのこの論文の秀逸な点は、フィールドワークの対象として、消滅していく家政科(?か商業科か何かだったように思います。記憶が不確かですみません)と勉強のできる学生が行く新設された普通科というふたつのコースが混在する高校という滅多にない場所を選択したということ、だからこそ、普通の教室ではみられないほどの女子生徒間のダイナミクスがみられたこと、これらの「ジェンンダー・サブカルチャーのダイナミクス」がどのような社会の構造に支えられているのかをきちんと家父長制的なシステムを視野にいれて分析されたことにあったように記憶しています。森川さんによる宮崎さんの論文の読み方とは、かなり違う印象がわたしの記憶にはあるのですが、いかがでしょうか? 今度きちんと読み返してみたいと思いますが。

学校空間は、確かにさまざまな規範を学び取る場所のひとつであり、わたしたちに重くのしかかっていることも否定しませんが、そこで学ばれた規範とはまた違う社会をもわたしたちは生きていく(何といっても高校は18歳で終わりますから)ことも忘れ去られてはいけないと思います。いつまでも学校社会を生きているわけではないし、わたしたちはつねに学習し続けているのです。

また、宮崎さんのフィールドワークから15年近くも経った今、学級のダイナミクスは別の様相を示すと思いますし、それは対象として選択される場所によって異なると思います(取り合げられた宮崎さんのイラストの懐かしいこと!)。何よりも、これらのサブカルチャーの「ダイナミクス」の分析を無視することは、宮崎さんに失礼に当たらないかなぁ。ある意味、宮崎さんの分析は、森川さんが批判されるような「ジェンダー論」であり、女性の間の対立に焦点を絞ったものではなかったように記憶していますけれど。森川さんの主張の根拠として、宮崎論文を引っ張ってくるのは、ちょっと不適切だと思います。まぁそんな論証のプロセスはどうでもいい、結果として出てきた類型だけ借用したい、というならそれでもいいですけが。女性による「腐女子嫌い」は、論考に値するテーマだとは思いますけれど、しつこいようですが、女性のあいだのグループ対立をみるだけでは、何も解明できないと思います。

そういえば、森川さんが「英米」と書いているところを、わたしが「西洋」とスライドさせている点について、千野帽子さんが言及してくださったようです(有難うございます)。「森川氏はまったくそんな話をしていないのに、森川氏が「西洋/日本」という(架空の)二項対立にはまっているなどと勝手に解釈するとは、千田氏にとってこそ、世界は「英米である西洋」と「日本」のふたつしかないのでしょうか。「英米である西洋」などというものは、英米を学的信仰の対象とする人たち以外にとっては、存在しません」とのこと。うーん…。舌足らずですみません。千野さんのおっしゃっているように、「『英米である西洋』などというものは、英米を学的信仰の対象とする人たち以外にとっては、存在しません」ということは事実ですし、英米にどこの地域を足してもいいですけれど、「欧米」や「西洋」そのものが、虚構であるということがわたしの議論の出発点です。

わたしの博士論文は、日本の社会科学における「日本近代」の構築がテーマでして、ちょっと説明をはしょりすぎたのかもしれません。「日本」を語る際に、明治以降、ずっと「西洋=近代」が参照点とされてきた、ということは間違いのない事実であると思います。それは戦前は、ドイツなどの欧州であったし、敗戦後は圧倒的にアメリカであったのですが、この二項対立図式から逃れ得た思考方式というものは残念ながら、長らく存在してこなかった。例えばフーコーなどが「紹介」された当時にすら、「近代が成立している欧米とは違って、日本は前近代であるから、近代的主体が成立しえない」というような議論が盛んにされていた記憶があります。

しかし90年代以降のグローバリゼーションの加速化と、近代国民国家の相対化の流れのなかで、いかに従来の社会科学がこのような二項対立図式に囚われていたのか、ということが、自覚化され始めます(ある意味、わたしの博論なども、そのような研究の流れに位置づくものでしょう)。西洋や欧米といったものの神話が、劇的に崩れる様は爽快でもありました。わたしがいいたいのはむしろ、森川さんが、虚構にすぎないということが明らかになった、「日本VSアメリカ(森川さんが文中で、「英米」とされているのは、アメリカにさらにカルスタの盛んなイギリスを加えられたいからでしょう。アメリカだけのときもあります )」という図式を、二項対立的に立てることによって、それらがあたかも実体であるかのように、反復的に構築しているのではないかということです。典型的な日本のほうに肩入れする、戦後講座派図式の逆転バージョンです(わたしが勝手に読み込んでいるわけではなくて、そういう論理構成になっていませんか?)。

英米の理論では日本の現象は切れない、やおいやBLをカルスタ分析・ジェンダー分析するのは、英米を有り難がっているからだというような論のたて方をされている森川さん、「『英米もいいけど、それだけじゃなくて、勉強すべきことはほかにもあるんじゃないの?』くらいの、それ自体はきわめてまともな立場からこの文を書いた(千野さん)」とは、どう好意的に解釈しても、わたしにはとても読めませんでした。すみません(そう思えるなら、わたしも長々とこんな文章を書いていないです)。「ジェンダーに焦点化すると英米崇拝」というような批判は、わたしには「きわめてまともな立場」とは、とうてい思えない。森川さんは「あなたたちは英米崇拝していて、何もわかってない」と、実質的にかなりの方たちを批判しているのですよね、やっぱり。

でもただ、森川さんが英米崇拝するカルスタを批判される気持ちは、わからなくもないですけどね。わたしもアメリカに暮らしたときに、彼らとの間にある植民地的な関係に苛立たないわけもなく、また日本において(マジョリティが)「人種」という軽さと、自分が実際に体験する「人種」経験の重さは較べようもないなぁと感じました。ただ、カルスタやジェンダー論が英米出自(少なくともジェンダー論が英米出自というのは、不正確としか思えません。千野さんのおっしゃるように、例えばフランスは? フレンチフェミニズムはどこにいったの? これはわたしではなく、「英米」といいきる森川さんのほうが、答えるべき問いだと思います)であると殊更いいたてるよりも、圧倒的な英語帝国主義の前で英米圏出自の概念ばかりが世界に流通しているけれども、日本でも当然同様な議論はなされているし、その概念の出所をすべて英米に専有させるつもりはないですよと、切り返すことのほうが必要なのではないでしょうか。

長い連載になりましたが、読んでくださったかた、有難うございました。ふー、こんなに長くなるとは思わなかったよ…。なんだか論文1本くらい書いた気分。