ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史12 啄木の発明(物語の復活)・石川啄木

2016年07月09日 | 評論
近代短歌史のなかで石川啄木はどんな役割をはたしたのでしょうか。私は次の二点だったと見ています。
 Aプライベートな題材を意識的に短歌に取り込んだこと。B一首に物語をもちこんだこと。この二点です。

 ここではBについて書きますが、まずAについて、簡単に解説しておきましょう。
 啄木は、プライベートな題材を意識的に短歌に取り込みました。古典和歌では、プライベートな題材はうたわないのが暗黙のルールでした。柿本人麻呂に自身の病気の歌はありません。和泉式部に家庭の歌はありません。西行に食事の歌はありません。

 現在でも、人前で自分のことばかりしゃべる困った人がいます。歌の世界でも自分のことを言うのは控えるべきだ。プライベートなことを歌にして人前にさし出す、そんな失礼があってはならない。
 そのために発明されたのが「題詠」というシステムでした。端的にいえば、「題詠」という装置は、プライベートな題材をうたわないための仕掛けだったのですね。

 明治二十年代後半にスタートした「短歌革新運動」は、プライベートな題材をうたってもかまわない詩として、短歌史をリスタートさせる運動でした。
 落合直文、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、正岡子規といった短歌革新運動第一世代の歌人たちは、おぼつかないながらプライベートな内容を短歌に盛り込みました。
 第二世代にあたる啄木は、思い切って彼のプライベートを短歌に持ちこみました。たとえば、家庭、貧乏、病気……。
 
 このような徹してプライベートな題材をうたう、これが近代短歌史上にはたした啄木の役割の第一でした。
 この面での啄木の影響力は大きかった。近代、現代短歌のマイナス面として、個人的な愚痴にすぎない短歌、日常雑記のような短歌がいやになるほど量産されました。その背景として、結核の時代、日本全体が貧乏だった時代、食糧難の時代、そんな時代背景もあってのことでしたが、啄木の選択は多くのエピゴーネンを生んだのでした。

 塚本邦雄『水葬物語』によって起動した前衛短歌運動が戦った昭和20年代歌壇の起点に、石川啄木のここで挙げた「A」があったのでした。そして、この「読み直し近代短歌史4」で取り上げた正岡子規「写生」論がその理論的背景として支持されたのでした。
 思い出して下さい。〈「写生」とはつまり、「われ」という「視点」を世界の中心において、世界を遠近法でとらえる方法だ〉。

 さて、啄木が近代短歌史で果たした役割の第二はゆきましょう(B)。第二は、一首に物語を持ちこんだことでした。一首にストーリーが読める。あるいは一首の場面の背景をなすストーリーが読者に想像できる、そういう歌を啄木はたくさん作っています。

宗次郎に/おかねが泣きて口説き居り/大根の花白きゆふぐれ 一握の砂 
 
 たとえばこの歌、読者はどんなストーリーを読むでしょうか。宗次郎の浮気がばれて、妻おかねが女性と別れてくれとせがんでいる場面。あるいは、恋人・宗次郎が都会に出るというのをおかねが引き留めている場面。どちらとも読めますね。いずれにしても、夕暮れの農村でおかねが宗次郎を口説くにいたるまでに、なんらかの物語があったはずです。

 こういう啄木短歌の構造に注目したのは寺山修司でした。寺山は啄木の歌にさまざまな物語を読んでみせています。

やや長きキスを交して別れ来し/深夜の街の/遠き火事かな 悲しき玩具
たはむれに母を背負いて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず 
 
 前者については、情事の後で、ああ俺の家が焼けてくれていればいいがなあ……、という歌とも読めるとし、後者については、これは,お袋を捨てたいと思っていたときの歌だけど、母を捨てに行く歌なのか、童心にかえっての歌なのか……、と読んでみせました。これらは「現代詩読本・石川啄木」に収録されている鼎談「自己内面化」での寺山修司の発言です。

 寺山修司はこうした啄木短歌の方法を自作に取り入れて、一首に物語を抱いた短歌を作りました。それだけではなく、寺山修司作詞「時には母のない子のように」の「母のない子」の出典は啄木ですし(「我と共に/栗毛の仔馬走らせし/母の無き子の盗癖かな」)、歌集『田園に死す』に出てくる「真っ赤な櫛」の出典も啄木でした。

亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
 寺山修司
夷(なだ)らかに麦の青める/丘の根の/小径(こみち)に赤き小櫛ひろへり
 石川啄木

 寺山修司だけではありません。すでに知られている例ですが、谷村新司作詞「昴」も啄木の短歌を踏まえています。啄木の短歌が抱いている物語に触発されて歌詞ができたのでしょう。 

目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ…… 谷村新司
目閉づれど/心にうかぶ何も無し。/さびしくもまた眼をあけるかな。 石川啄木
呼吸をすれば胸の中 凩は吠(な)きつづける 谷村新司
呼吸(いき)をすれば胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音! 石川啄木

 物語を抱く短歌は、啄木のオリジナルではありません。じつは古典和歌のなかには物語を抱く短歌はふんだんに見られます。
 古典和歌の世界では、短歌はしばしば物語を抱き込んでいました。『伊勢物語』や『大和物語』を見れば分かります。また、『伊勢集』『一条摂政御集』のように、歌が抱く物語によって人物の物語が浮かび上がる歌集もあります。

 物語を抱く歌の例は古くからあります。記紀歌謡と呼ばれる『古事記』『日本書紀』に収められた歌(短歌を含む長短多様な型式の歌)の中にも、物語を抱いている例が多くあります。『万葉集』にももちろん多くの例があります。中では、「真間の手児名」「周淮(すゑ)の珠名娘子(たまなをとめ)」など、伝説に取材した高橋虫麻呂の歌が特に有名です。

 ここでは、万葉集中の高橋虫麻呂の一首、浦島太郎をうたった短歌をあげておきましょう。浦島をテーマにした長歌があり、その反歌が次の一首です。

常世(とこよ)べに住むべきもを剣(つるぎ)太刀己(な)が心から鈍(おそ)やこの君 橋虫麻呂 万葉集

 乙姫さまといっしょに暮らしているとき、浦島は故郷にちょっと帰ってくると言って竜宮城を後にし、浜辺で玉手箱を開いてしまいます。この歌は、その物語を踏まえて「ずっと竜宮城にいればよかったのに、馬鹿な浦島さん!」といった意味です。
 こうした和歌史の流れが、やがて『伊勢物語』等の歌物語を生んでゆくわけですね。

 石川啄木は、こうした和歌史の伝統をうまく近代短歌史の取り込んだわけです。この取り込み方は「啄木の発明」だったと見ていいでしょう。
 もう二首、物語を抱いた啄木短歌をあげておきましょう。

酒のめば/刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき/村を逐はれき
死にたくはないかと言へば/これ見よと/咽喉(のみど)の痍(きず)を見せし女かな

 一言、言いそえておきましょう。近現代短歌では、物語を抱く歌は避けられてきました。一首が抱く時間は短い方がいい。その方が一首の切っ先が鋭くなる。そう言われてきたのです。
 その代表的歌人である佐藤佐太郎は、短歌は時間という流れの断面をうたうべし、といった意味の発言をしています。つまり一首が抱く時間は今という一瞬。それが短歌の理想型だとの意味です。物語というだらだらと続く時間を抱く短歌は駄目、というわけです。近現代短歌史のなかでは、物語を抱く啄木の短歌は異例だったのです。

 前にも少し触れましたが、啄木の発明をうまく盗んだのが、寺山修司の短歌でした。寺山のデビュー作「チエホフ祭」(『空には本』所収)には父と母の歌あるいは父や母のイメージをうたった歌が何首かあるのですが、これがみな物語を抱き込んだ短歌でした。
 短歌は物語を抱くことでフィクションを呼び込みやすくなるのです。これは万葉集の浦島太郎の歌以来のことです。

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む 空には本
アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ 同

 さらに、2008年に『月光書簡』という寺山修司の遺歌集が刊行されます。この本は寺山さんの近くにいた田中未知さんが預かっていた歌稿を、私が整理し(谷岡亜紀君に手伝って貰いました)、解説を書いて一冊にしたものです。そこにある短歌も物語を抱く歌が大部分でした。引用しましょう。

義母義兄義妹義弟があつまりて花野に穴を掘りはじめたり 『月光書簡』
履歴書に蝶という字を入れたくてまた嘘を書く失業の叔父

 最後に、もう一人、物語を抱く歌を得意としている例をあげておきます。

まだ三十三歳だって手を洗いながら鏡と鏡に話す  藤島秀憲『二丁目通信』  
首のない男女が金を受け渡すシャッター半分下ろされた店
われからの電話に父が[留守番でわかりません」と答えて切りぬ

 藤島秀憲君の歌集『二丁目通信』は2009年に刊行、「現代歌人協会賞」を受賞した歌集です。一首一首がじつにうまく物語を抱き込んでいます。一首目はちょっと分かりにくいかも知れませんが、葬儀会場のトイレでの会話でしょう。
 話を聞くと、現実の作者は二丁目ではなく、三丁目に住んでいたとのこと。歌集のタイトルもじつは物語を抱いていたのでした。


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