ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

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戦国武将の歌9 豊臣秀吉 1537年(天文6)~1598年(慶長3)

2016年12月06日 | エッセイ
 豊臣秀吉の辞世の歌として、古くから有名な歌があります。なかなかの作です。恬淡とした感触がいい。軽々とした言葉のつづきが快く、愛誦性があります。

露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢       豊臣秀吉
(露のようにこの世に生まれ落ち、露のように消えてしまうわが身よ。何事も、難波(大阪)のことでさえも、すべて夢の中の夢であったよ)

 「なにはの事」とは、井上宗雄『和歌の解釈と鑑賞事典』が言うように、「難波の事」と「さまざまの事」が掛けられていると見ていいでしょう。未練たらしいところがまったくない歌で、さらっとした味わいがなんともいえず、いい。

 秀吉は、天下を取ってから、聚楽第に公家や武将をあつめて、じつに大がかりな歌会を何回も開催しています。この歌会はうっかり休めない大変な歌会でした。きちっと出席することが秀吉への忠誠のあかしだったわけですから、万一欠席したりすれば、不忠とみなされます。すでに紹介した川田順『戦国時代和歌集』等でその記録をみることができます。休めない歌会で、相当無理をしながらも多くの公家や武将たちが参席していた実態が分かります。

 秀吉としては、成り上がり者というレッテルを払拭し、公家と対等につきあってゆくイメージ作りとして、伝統的文化としての和歌をたしなんだとされていますが、まだ羽柴姓を名乗っていた若いころから、狂歌のような歌をかなりの数、作っています。私が見るところ、もともと言葉が好きな人物だったと見るのがよさそうです。

 有名な備中高松城の水攻めの時、次の歌を作り軍勢の意気を高めたという話があります。

両川(りようせん)の一つに成つて落ちぬれば毛利(もり)高松も藻屑にぞなる
(二つの川が一緒の落ちれば、森や大きな松が水没するように、毛利軍も高松城も藻屑となりはてるだろう)

 「両川」は、秀吉の敵側についた吉川元春・小早川隆景の二人を意味しています。「毛利高松」は「毛利軍・高松城」と、「森・高い松」が掛けられています。じっさいに秀吉がこの歌の作者だったかどうかは疑問のあるところですが、『陰徳太平記』は「吉川元春、小早川隆景、高松応援として出馬せし時、秀吉、右の狂歌めきたるものを作り、諸陣にふれしめ、軍気を励ましたり」としていて、秀吉作と信じられていただろうことを想像させます。とすれば、やはり、若い時代から言葉が好きな人物だったと見てよさそうです。

 さて、天正十四年春、秀吉は参内したあと、宮中の桜を、桜の木の下に立ってしばらく花を眺めてから帰館しました。それを知った正親町天皇が、桜の枝に御製をつけて秀吉のもとに贈られました。秀吉は勅使を待たせて、その場で返歌を作って渡したといいます。こういう歌です。即吟としてはなかなかの出来です。

忍びつつ霞と共にながめしもあらはれにけり花の木のもと
(春霞に隠れるように、ひそかに宮中の桜をながめておりましたのに、お気づきでしたのですね。花の木のもとにおりました私に)

 富士山の歌もあります。小田原征伐のために関東に来た折りに、じっさいに富士山を見ての作です。これも簡潔でなかなか、いい。

都にて聞きしはことの数ならで雲ゐに高き不二の根の雪
(都で聞いていた比ではなく、遙かな高さの雪の富士の嶺よ)

 こういう歌を見ると、秀吉の歌は単なる社交の具だけではなかったように思えます。言葉好きな男の楽しみ、そういう一面もあったと思うのですが、いかが。

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