ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

戦国武将の歌12 伊達政宗 1567年(永禄10)~1636(寛永13

2016年12月26日 | エッセイ
最終回は伊達政宗です。
仙台の青葉城公園の大きな騎馬像でおなじみでしよう。巨大な三日月の前立(兜の飾り)は、一度見たら忘れられない。「伊達者」という言葉があります。派手好きな人物だったようです。

 勇猛な武将として有名な人物ですが、数年前に『武将歌人・伊達政宗』(伊達宗弘著)という本が刊行されています。「武将歌人」とタイトルにあるように、短歌をよくした人物でした。
 歌人として有名な木下長嘯子(ちようしようし)と深い交流がありました。長嘯子は秀吉の北の政所ねねの甥に当たり、武将としては失脚するのですが、歌人としては細川幽斎とともに、桃山時代・江戸時代和歌史で重要な位置を占める人物でした。その木下長嘯子と歌人同士としてつきあっていたぐらいでした。

 文禄二年(一五九三)七月、いわゆる「文禄の役」で、朝鮮出兵中に伊達政宗の部下の一人が病没します。政宗はその死を悼んで「なむあみだぶ」の六文字をそれぞれ冒頭に据えて、六首の挽歌を作っています。

なつ衣きつつなれにし身なれども別るる秋の程ぞものうき
 (これまでもつらい経験をしてきた自分だが、この秋に部下と別れるのはことさらにつらい)

むしの音(ね)は涙もよほす夕まぐれさびしき床の起伏(おきふし)もうし
 (虫の音が涙をさそう秋の夕暮れ。部下なき後の日々はつらいものだ)

あはれげに思ふにつれぬ世のならひ別れし友の別れもぞする
 (ああ、まこと思うようにはならぬ世の中であることよ。一旦別れた友と、さらに永久の別れをしようとは)

みるからになほ哀れそふ筆の跡けふより後の形見ならまし
(見るにつけていっそう哀れをさそう筆跡よ。今日からは故人の形見となるだ)

たれとても終(つひ)には行かむ道なれど先立つ人の身ぞあはれなる
 (人間は誰でもかならず行く死への旅路ではあるけれど、それでもやはり、先に行く人の運命はあわれに思われる

ふきはらふ嵐にもろき萩の花誰しも今や惜しまざらめや  
(強風にもろくも散らされる萩の花のように、はかなく散った命よ。だれが惜しまないでいられようか)

 部下の名は、原田左馬介宗時。朝鮮出兵中に発病し、帰国を命じられたが、途中、対馬で病没します。享年二十九。
 掲出歌の「別れし友の別れもぞする」は分かりにくいが、生きて別れた友と再び別れるの意。戦地で別れ(宗時は先に帰還した)、のちに訃報を聞いて二度目の別れをした、というのです。

 「なむあみだぶ」の六字を冒頭において六首を並べるような、こういう手法は平安朝時代から行われていて、特に珍しいものではありません。しかし、じっさいに作るとなるとそれなりに作歌に親しんでいないと、すぐには作れません。追悼の思いの深さと、政宗が作歌に熟達してことを思わせる例と見ていいでしょう。

 関ヶ原の戦いの時、伊達政宗は上杉景勝を牽制するためという理由で、直接に参戦することはありませんでした。戦力に自信をもつ武将としては忸怩たる思いがあったようです。こんな歌を残しています。

皆人はかへる浪なる名取川(なとりがは)われは残りて瀬々の埋木(うもれぎ)
 (他の武将たちはみな名をあげ、大幅の加増を得て領国に帰って行ったが、われ一人は何の戦功もなく、埋もれ木のように残されている)

 こういう愚痴のような歌を残した武将はほかにはいません。たとえ愚痴のようなかたちであったとしても、自身の本音を短歌のかたちで歴史に残しているのは、さすがという気がします。



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