ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

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戦国武将の歌11 蒲生氏郷 1556年(弘治2)~1595年(文禄4)

2016年12月24日 | エッセイ
 戦国武将中屈指の才能と実力を持ちつつ、四十歳の若さで不本意なうちに他界した蒲生氏郷。氏郷の辞世の歌をまず引用しましょう。 どうしようもない口惜しさのにじむ歌です。大きな志を持つ人物だったからこそ、なおさらにあわれを感じさせます。

かぎりあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山かぜ 蒲生氏郷
 (命には限りがあるのだから、風が吹かなくても間もなくしぜんに花は散るのに、運命の神は短気で、まだ春の山に風を吹かせ、花を散らせる。まだ四十歳の人間の命を奪う)

 主家・六角氏が滅ぼされたために織田信長に降った父・賢秀の人質として、岐阜の信長のもとに送られたのが、氏郷十三歳の年でした。
 人質ながら、信長は彼の才能を深く愛して娘の冬姫を妻として与えます。氏郷はその期待に応え、姉川の戦い、朝倉攻め、長篠の戦い等々、信長の天下統一のために大いに活躍しました。本能寺の変の時には信長の妻子を引き取って、自身の立場を明確にします。

 氏郷は、立場を明確にしては危険と分かっていてもやるべき時はやる、そういう人物だったらしい。
 千利休が罪せられて自刃した後、その遺児をしばらく預かって恩にむくいています。たくさんいた利休門下の大名たちはみな、秀吉をはばかって遺児を引き取る者はだれもいなかった。氏郷は敢然として火中の栗を拾ったのです。

 信長の死後、氏郷は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、九州征伐等に参戦、松坂城を築きます。さらに小田原征伐等に参戦、秀吉の東北経営の布石として会津黒川(氏郷が会津若松と改称します)に移封され、黒川城を居城としました。四十二万石(後に九十二万石)の大身です。

 小田原征伐後、秀吉から「会津に行け」と命じられた時のエピソードがあります。
 氏郷が陣屋に帰り涙ぐんでいたので、家臣が、「大国の領主になられて、なぜ悲しんでおられるのですか?」と問うたところ、「小身でも都近くにいれば天下に望みがある。いかに大身でも遠国では望みはかなうまい」と嘆いたというのです。氏郷の夢と野心の大きさを語るエピソードです。

 氏郷の会津転封は、伊達政宗を牽制する意味と、秀吉が氏郷を都から遠ざけようとしたためだと思われます。氏郷の夢と激しい野心は、秀吉の側から見れば、ひどく危険だったのです。
 会津黒川城を居城としてからわずか五年後、氏郷は京都にて病死します。

 文禄の役の時、氏郷も兵を率いて、会津を出発、京都を経て、秀吉が朝鮮出兵の本営を置いた肥前名護屋(佐賀県鎮西町)に参じました。その道中の歌があります。

世の中にわれは何をか那須の原なすわざもなく年やへぬべき
 (我は何をなすためにこの世に生まれたのか。那須を通過しつつふと思われる。不本意なままに時間だけが過ぎて行っていいものか)

思ひきや人のゆくへぞ定めなき我がふるさとをよそに見むとは
(思いもよらなかった。人間の運命は不可解なものだ。生まれ故郷を旅しながら、無縁な場所のようにただ通り過ぎてゆくだけとは)

 滋賀県を通過するときの感慨です。生まれ育った蒲生の地。信長に仕えた岐阜。思い出深い故郷を、急ぎ通過してゆく感慨です。
 これまで見てきた武将たちの歌とは一味も二味もちがうことに気づかれると思います。ただある今、此処をうたうのではない。激烈な速さで動きゆく時間の流れの中の、今そして此処をうたっています。
 あともう三年もない命を抱く作者の歌と思って読むと、なんとも切ない二首ではあります。
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