ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史10 ひびきと調べと愛誦性(声を意識する短歌) 若山牧水

2016年06月17日 | 評論
 若山牧水はいま、大人気の近代歌人です。たぶん石川啄木と人気を二分していると言っていいのではないでしょうか。
 何と言っても人々に愛誦されている歌が多い。だれもが暗誦している歌数が多い。愛誦性こそが牧水の歌の大きな特色といっていいでしょう。

幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく 海の声 
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり 路上

 歌のひびきがいいんですね。そしてリズムがいい。声に出して何度も発声してみると、なんとなく気持ちがいい。のびのびとしたそして流れるような歌の韻律がこころよい。一語一語の舌ざわりがいい。そんな気がします。
 
 牧水自身、自分の歌を声に出して気持ちよさそうに朗誦していたということです。その話を、私は画家の中川一政さんから直接、聞きました。
 むかし、雑誌「婦人の友」(だったと思います)の企画で、中川一政さんと対談したことがありました。真鶴の海をひろびろと見下ろすぜいたくなお宅にうかがっての対談でした(そのお宅は現在、「中川一政美術館」になっていると聞きました)。

 文学少年だった中川さんは、牧水が大好きで、十代の終わりころに牧水を知り、チャンスがあれば牧水の後ろについて散歩をしたとのことでした。
 そんな時、牧水は歩きながら、自分の歩調に合わせるようにして、自身の短歌を大きな声で朗誦しながら歩いたそうです。中川さんは感心して聞きながら、牧水の後ろを歩いたとのこと。そんな話をなつかしそうにしておられました。

 牧水は1885(明18)年生、中川さんは1893(明26)年生。牧水は中川一政さんより8歳年長です。中川さんが17歳だとすると牧水は25歳。
 二十代の青年が、自分の短歌を大声でとなえながら散歩している図は、現代では思いうかべにくいのですが、本当のことのようでした。
 歩行のリズムに合うように、一語一語を発声していたのだと思います。この話は他で読んだことがありません。貴重な証言とみていいと思います。
 また、これは私の想像ですが、牧水は作歌するときも、くりかえしくりかえし声にだし、発声しながら作歌したのだろうと思います。

 余談です。中川さんは長生きされ、1991(平成3)年までご健在でした。享年97。私は80代はじめに2度お目にかかりました。
 お宅に伺ったのは2回目のときでした。その折、雑誌の編集者が、色紙に二人でサインしろというので、筆でサインをすることになりました。先生は堂々とした立派な書をかかれます。まず中川先生が先にサインされました。

 ご存じの豪快な字なのですが、じつにゆっくりと書かれるのでびっくりしました。しかも小さく小さく書かれたので、これもびっくりしました。色紙の下3分の1ぐらいだったと思います。
 私は先生より大きな字では失礼になると思い緊張しました。先生のお名前は四字ですし、画数の少ない字ばかりです。こちらは五字だし画数も多い。自分の名前を書くだけなのに、あんなに困ったことはありませんでした。

 さて、話をもとにもどします。今では大人気の牧水ですが、この人気は昔からずっとつづいていたわけではありません。信じてもらえないかも知れませんが、戦後長く、不人気の時代がつづいたのです。
 なぜ不人気だったのか。今言った牧水の歌の調べのよさが原因でした。

 戦後間もなく桑原武夫の評論「第二芸術」をきっかけに短歌否定論が数多く発表されました。それらを一括して「第二芸術論」と呼んでいます。小説や現代詩は第一芸術だけれども、短歌・俳句は、第二芸術だ、という意味です。

 戦争中のような困難な状況、過酷な現実のまえで、短歌は無力だった。大日本帝国を賛美し、鬼畜米英を熱心にうたった戦争中の短歌が戦後の目で検証され、徹底的に批判されました。
 短歌型式に拠ってたつかぎり、抒情に流されて批判精神が育たない。「調べ」によって思考を追求する矛先がにぶらされる。
 時代や現実と厳しくかかわることのない二流の芸術としてしか短歌は生きえないだろう。そんな厳しい批判をあびせかけられたのでした。

 言葉をかえれば、うたいあげるような短歌、流れるような調べを重んじる短歌は、もう現代の詩としてはだめなのだ、そんな空気が、戦後間もない歌壇をおおったのです。
 そこで、うたいあげない短歌、一語一語立ち止まって考えるような、つぶやくような短歌が主流をしめる時代がはじまります。
 どんな短歌か? 具体的には、その中心は、昭和20年代から30年代に活躍した新歌人集団と呼ばれる人たちの短歌でした。名前をあげれば、近藤芳美、宮柊二らの短歌ですね。
 戦後間もなくのこの時代以後、牧水はほとんどかえりみられることがなくなったわけです。

 牧水人気復活のきざしがみえるのは、1970年代半ば、昭和50年前後からです。30年ほどのあいだ、不人気の時代がつづいたわけです。
 70年代半ば、前衛短歌の次の世代が歌壇で活躍しはじめます。名前をあげれば、私などから河野裕子さんあたりまで。昭和10年代生まれ、20年代初め生まれです。前衛短歌には欠けていた、肉体あるいは肉声など、短歌に人間の生の声や身体をもとめはじめるのです。
 そこで、短歌朗読会が何度も開かれました。私も、何度か舞台に立って、ギターの伴奏で自作短歌を朗読したりしました。

 1977年(昭52)に、岡野弘彦・島田修二・佐佐木幸綱編『現代短歌朗読集成』が大修館から刊行されます。
 これは戦前の歌人9人、当時健在だった現代歌人24人の自作朗読集です。各10首~20余首の自作を朗読して、カセットテープ4本にまとめたものです。

 残念ながら、ここで話題の牧水は入っていないのですが(近代歌人のものは、昭和13年にコロンビアが作ったレコードがもとになっています。牧水は昭和3年に他界)、これまでにこの「読み直し近代短歌史」に登場した信綱、晶子、茂吉、夕暮らの肉声が聞けます。

 また、前川佐美雄、宮柊二、近藤芳美、さらには塚本邦雄、寺山修司らの自作朗読が聞けるのも今ではこれだけになりました。
 ちなみに、塚本邦雄はピアノ、前登志夫はバイオリン、寺山修司は大正琴のBGMを使っています。私はウエスタンのギターをバックに「充実のわが馬よ」と題する16首を朗読しています。

 このように「第二芸術論」から30年ほどが経った70年代半ばになって、歌壇の空気・状況が変わってきたわけですね。そんな時期に折りよく、大岡信『今日も旅ゆく 若山牧水紀行』(昭49)、大悟法利雄編『若山牧水全歌集』(昭50)、大悟法利雄『若山牧水伝』(昭51)があいついで刊行されます。牧水が一挙に読みやすくなります。 

 大岡さんの本は、牧水の妻・喜志子に光を当てた牧水論で、親しみやすい牧水が描かれています。
 大悟法利雄さんは、晩年の牧水の助手をつとめた人で、牧水没後もずっと研究をつづけ、牧水研究に一生をささげた人でした。私は何度か会いましたが、牧水研究の第一人者でありながら全く酒が飲めない方でした。
 この大悟法さんの『若山牧水伝』で、それまで不分明だった牧水の恋人・園田小枝子のことがあきらかにされます。そしてはじめて詳細に牧水の生涯がたどられたわけです。
 やはり大悟法さんがまとめられた『若山牧水全歌集』と合わせて、一挙に牧水がよみやすくなったのです。

 それ以来、牧水研究、牧水に関する評論等は急速に多くなります。そして宮崎の伊藤一彦君の活躍が大きい。彼の精力的な牧水研究、そして普及活動で、牧水人気はたかまります。 特に中堅歌人の歌集を対象にした「若山牧水賞」の創設は、地元・宮崎市民に牧水を広く知らしめるのに大いに貢献したようです。地元の熱い支持が牧水人気の核になっていると思われます。

 最後に一言。じつは、牧水は調べのいい愛誦性のある歌ばかりを作り続けていたわけではありません。

納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝(なんじ)が意志ををまぐるなといふがごとくに  みなかみ

 のような破調の短歌を作った時期もあったのです。ここではそのことに触れる紙幅がありませんでした。

 私が推奨する牧水の作を3首引用しておきましょう。1首目は浅間での作。2首目は三浦三崎。3首目は沼津市の静浦での作です。

忘却(ばうきやく)のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる  路上
旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に  死か芸術か
海鳥の風にさからふ一ならび一羽くづれてみなくづれたり  山桜の歌


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