ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史2  「われ」の詩を(題詠の否定) 与謝野鉄幹

2016年04月02日 | 評論
近現代短歌の主要歌集を広く収録して、もっとも信頼できるテキストとされているのは『現代短歌全集』(筑摩書房刊)です。
十五巻で刊行され、後に増補されて十七巻になりました。
編集委員は大岡信、岡井隆、岡野弘彦、佐佐木幸綱、島田修二、新間進一、塚本邦雄、武川忠一、本林勝夫(いま気づきましたが、男ばかりの編集委員でした)。
 最初の巻が刊行されたのは一九八〇年。記憶は不確かですが、編集会議には全員が集まって、一日がかりで誰を選ぶか、どの歌集を選ぶか、熱心に討議したのをおぼえています。
一番若い編集委員だった私は、緊張して、たくさんの資料をかかえて編集委員会に出かけました。一回では終わらず、二回か三回、集まったはずです。

 その『現代短歌全集』の第一巻の最初に載っている歌集は、一八九六年(明治二十九)刊『東西南北』。与謝野鉄幹の歌集です。
つまり、「近代短歌史の劈頭をかざる歌集」といえば『東西南北』なのです。
 『東西南北』は、厳密に言えば、新体詩を含む詩歌集です。それでもあえて『現代短歌全集』の最初に置かれたのは、古典時代とはちがって、「われ」を前面に押し出す姿勢がはっきり見えるからです。
自序に、そして詞書を多くしてストーリーを抱き込んだ短歌の位置づけ方に、「われ」を前面に押し出す姿勢がはっきりと見えるからです。
「題詠」を否定してはっきりと「われの歌」を押し出しているからです。

 まず、「自序」の一部を引用しましょう。
「小生の詩は、短歌にせよ、新体詩にせよ、誰を崇拝するものにもあらず、誰の糟粕を嘗むるものにもあらず、言はば、小生の詩は、小生の詩に御座候ふ」 
 
 「われ」の歌は「われ」のものだというのです。今から見れば、しごく当たり前のことのようですが、明治二十年代の短歌界にあってはそうではありませんでした。
誰かを崇拝する、誰かの糟粕をなめるとは、短歌史を引き継ぐということです。鉄幹の「自序」が言っているのは、歴史とは無関係に、自分なりの価値観で作歌するということです。
 後に与謝野鉄幹は「東京新詩社」という組織を立ち上げ、雑誌「明星」を刊行しますが、そこで自分を「非専門詩人」と規定します。「専門歌人」は短歌史の伝統を引き継ぐ歌人で、自分はそうではないと言いたかったのです。

 短歌史上の与謝野鉄幹の大きな仕事は、「題詠歌」を否定して「われの歌」を実現しようとしたことでした。
当時の専門歌人は、まず「題詠歌」に熟達することが求められました。明治の新時代に対応するために「新題和歌」が考案され、多くの新題和歌集が刊行されたことはご存じの通りです。
専門歌人たちは、題詠をまもりつつ新時代に対応しようとしたのでした。

 鉄幹はちがいました。自分を非専門歌人とすることで、題詠を破却しようとしたのです。「題詠」をやめて「雑」の歌を目ざしたのです。
 もともと、「題詠」とは「われ」を離脱する装置でした。お互いが「われ」へのこだわりから自由になって、広い場で歌を楽しむために「題詠」が発明されたわけですね。
「歌合」「勅撰集」は題詠があってはじめて可能なシステムでしたし、宴席歌なども自分へのこだわりを捨てて、みなが同じ「題」で作歌することで盛り上がったわけです。同じ土俵に上がるわけですから。

 明治20年代後半。これからの短歌は、「歌合」「勅撰集」「宴席」といった場とは無関係に楽しまれてゆくでしょう。雑誌、歌集といった活字を媒体とした新しい歌壇が形成されることになるでしょう。
そこでは「題詠」はもう役割を終えてしまったことになるでしょう。与謝野鉄幹は、落合直文の「あさ香社」の歌会に参加することで、早くこのことに気づいたのです。

 『東西南北』の中の詞書がついた歌とは、たとえば、次のような例です。
 「二十八年の夏、朝鮮京城にありて、腸窒扶斯(チフス)を病み、漢城病院に横臥すること、六十余日、枕上、偶ま「韓にして如何でか死なむ」十首を作る。」
韓にして、いかでか死なむ。われ死なば、をのこの歌ぞ、また廃れなむ  (以下略)

 詞書によって、この歌は「われ」が京城の病院で、明治二十八年夏に作った歌だということが分かるようになっています。
作中の「われ」が時間的・空間的にきちっと限定されることによって、確かな位置を保証されることになります。
 古典和歌時代の、「新年柳」「夕雁」といった「われ」を拘束しない題の題詠とはちがうことに注意したいと思います。

 鉄幹は、『東西南北』編集時に、いささか乱暴なことをやります。
かつで「題詠」でつくった短歌を、あらたな詞書をつけることで「われ」の歌に移しかえるのです。
インチキと言えばインチキですが、革命をなしとげるためにはこういう荒っぽいこともやらなければならなかったのだ、と私は同情的な見方をしています。二つ例をあげておきましょう。

  「咸鏡道を旅行して、雪中に、虎の吼ゆるをきくこと、三回。」
いでおのれ、向はば向へ。逆剥ぎて、わが佩く太刀の、尻鞘にせむ。
  「明治二十七年五月、朝鮮問題のために、日清両国のこと、やや切迫せる折のうたに。」
いたづらに、何をかいはむ。事はただ、此太刀にあり、ただ此太刀に。

 前者は旅行詠、後者は時事詠であることを示す詞書がつけられていますが、もともとは二首とも題詠歌なのでした。
前者は「二六新報」(明27・3/8)に「虎の画賛に」という詞書つきで発表されています。後者は「自由新聞」(明26・7/6)に「剣」という題で発表された作の改作です。
つまり、『東西南北』を編集するにあたって、初出時は題詠歌だった二首に時間的な場、空間的な場をあたえることで、「われの歌」に変えたわけです。強引な手法でチャンネルを変えたわけですね。
『東西南北』は、こういう実践的なかたちで、「題詠」からの脱出を試みているのです。

 紙幅がないので、これ以上例をあげることはできないのが残念ですが、『東西南北』という歌集が近代短歌史において画期的歌集だったことは分かっていただけたと思います。

 『東西南北』は、与謝野鉄幹が満二十三歳の時の歌集でした。圧倒的に若い。圧倒的な若さが画期的な歌集刊行を可能にしたのだと思います。
 古典の時代は、「歌集」ではなく「家集」の時代でした。有名な家集として、みなさんは西行の『山家集』、源実朝の『金槐和歌集』などの名前をご存じでしょう。
家集とは一生に一冊まとめる歌の集でした。それが歌集の時代となった。歌集は一生に何冊出してもいい。制限はありません。何歳で刊行してもいいのです。

 しかし、急にそうなっても、なかなか刊行へ踏み切る決断はできません。たとえば、鉄幹の先生の落合直文は、生きている間に歌集を出せませんでした。直文だけではありません。正岡子規も生前に歌集が出せませんでした。
 鉄幹はある意味、若さの無謀さで、家集から歌集へ移行する時代の最初の歌集刊行に踏み切ることができたのです。

 今では、与謝野鉄幹の名は「明星」を創刊したこと、そして、「人を恋ふる歌」( 妻をめどらば才たけて……)で知られてぐらいで、短歌史ではごく小さくあつかわれています。 
しかし、見てきたように、『東西南北』は歌集史の上で大きな意味を持つ歌集だったのです。
さらに言えば、句読点入り、カッコ等記号入りの歌集としても最もは早いものでした。現代短歌には句読点、カッコ等の記号がたくさん採用されていますが、その最初は、鉄幹『東西南北』だということを知っておいていいと思います。

 与謝野鉄幹の初期の歌を引用しておきましょう。

野に生ふる、草にも物を、言はせばや、涙もあらむ、歌もあるらむ。      『東西南北』
韓山に、秋かぜ立つや、太刀なでて、われ思ふこと、無きにしもあらず。
尾上には、いたくも虎の、吼ゆるかな。夕べは風に、ならむとすらむ。
われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子     『紫』
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