ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史・歌壇の構造改革・落合直文

2016年03月29日 | 評論
 12回にわたって、現在進行形の「現代短歌史」の母体となった「近代短歌史」のアウトラインを、できるだけシンプルに、分かりやすいかたちで解説してゆきたいと考えています。
短歌史の現在を理解するには、その始発期のことを理解していないと微妙なところがよくわかりません。その微妙なところにうまく光が当てられればいい、そんなことを考えています。

 まずは、12回全体の目次をあげておきましょう。
  読み直し近代短歌史 目次
 1歌壇の構造改革(歌壇の若返りを) 落合直文
 2「われ」の詩を(題詠の否定)   与謝野鉄幹
 3「おのがじしに」(近代短歌と個性) 佐佐木信綱
 4視点・視線の意識化(写生とは)  正岡子規
 5気分をうたう(心の微動)     窪田空穂
 6身体語彙の新しさ(乳房そして肌) 与謝野晶子
 7新しい風景詠(色彩の表現)    島木赤彦
 8非日常の美(印象派に学ぶ) 前田夕暮
 9伝統詩としての短歌(古典の引用) 斎藤茂吉
 10愛誦性ある短歌を(声を意識する 若山牧水
 11カタカナ語の採用(西欧の詩から) 北原白秋
 12啄木の発明(物語の復活)    石川啄木

 早速、本論に入りましょう。
近代短歌史の起点をどこにおくか。見方は諸説ありますが、私は一八九二年(明治二五)三月、落合直文が雑誌「歌学」創刊号の巻頭に発表した評論「賛成のゆゑよしを述べて歌学発行の趣旨に代ふ」を、その起点と見たいと思います。
直文はここで、歌壇の構造改革を提唱します。具体的にいえば、歌壇の若返りを緊急の問題として提案します。

「かのやんごとなき公達のたはぶれ、かの世をそむける老人のたのしみ、おのれは、それを以て、この学のさかりなりといはざるなり。
おのれは、この高尚なる歌といふものを、すべての国人、ことに、青年有為の人々に望まんとするなり。」
 
短歌は貴族層、老人の専有物になってしまっている。なんとかしてこれを一般人に開放し、とくに青少年に作歌の楽しさを知らせるべきでる。そんな提言です。

 ちょっと先回りしますが、十年後の明治三十年代になると、「新声」「文庫」といった文芸投稿雑誌で短歌の面白さを知った日本各地の中学生たちが、おおぜい熱心に短歌を作りはじめます。
文芸好きの中学生のあいだに一種の短歌ブームがおこるわけですね。
たとえば、宮崎の若山繁(牧水)、福岡県柳川の北原隆吉(白秋)、神奈川県秦野の前田夕暮、東京浅草の土岐善麿といった近代短歌史の重要歌人たちは、みな中学時代に、投稿雑誌に短歌を投稿することで作歌をはじめます。
その火付け役が直文だったのです。

直文が歌壇の中核を「青年有為の人々」によって担ってほしいとした歌壇の構造改革の願いは、つまり、十年も経たないうちに実現されることになるのです。

 どういう経緯だったでしょうか。中学生たちが気楽に短歌が作れるようになるには、まず言葉の問題がありました。作歌するときの用語の問題です。
江戸期以来のそれまでの短歌は、基本的に雅語を用いるべし、とされてきました。

私たちがふだん使う言葉を俗語と呼び、作歌に用いる雅語とは区別していました。
たとえば「つる」「かえる」「うま」は俗語です。雅語では「たづ」「かはづ」「こま」といいました。
短歌では、「たづ」「かはづ」「こま」を使うべしとされたのです。

短歌を作るにはまず雅語をマスターしなければならなかったわけです。一般の人々、まして若者たちにはとても歯がたちません。
だから短歌作者は、貴族や老人たちばかりに限られてしまっていたのでした。

 用語の改革は一挙にはゆきません。理論だけではうまくゆきません。ゆるやかに少しずつ、厚く固かった雅語の壁がゆるめられてゆきます。
中学生でも親しめるように少しずつ雅語のなかに俗語的なものを入り込ませて行きます。
その辺りを意識しながら短歌を読むことができる人材が求められます。具体的には、投稿雑誌の選者たちです。

中学生たちが夢中になって短歌を投稿した投稿雑誌は、「新声」「文庫」等でした。
その「新声」「文庫」等の選者はだれだったのか。
尾上柴舟、金子薫園、服部躬治ら、落合直文の弟子たちが選者になりました。明治三十年代に「明星」を創刊する与謝野鉄幹もまた、落合直文の弟子だったのです。

 落合直文は「歌学」創刊号に「青年待望論」を書いた翌年、一八九三年(明治二六)に「あさ香社」という短歌の集まりを作ります。
「あさ香社」という名前は、直文の家が本郷区駒込朝嘉町(現・文京区)にあり、そこを歌会の会場としたことに由来しています。
その会には、東大生を中心に二十人から三十人ほど、後には四十人ほどが毎月集まりました。女性も十七、八人出席したといいます。
この中に与謝野鉄幹、尾上柴舟、金子薫園、服部躬治らがいたわけですね。
 
 つまり、歌壇の構造改革を提唱した直文(彼は明治三十三年に若く四十二歳で死去してしまいます)。そして直文の弟子たちが選者になった短歌投稿雑誌。
これらが、明治三十年代終わりから大正時代はじめに歌人としてのスタートを切る有力な近代歌人の少年時代に、短歌の魅力を教え、その才能を育てる役割をはたしたのです。
 落合直文のはたした役割はこれまで過小評価されてきました。そのあたりをきちっと見直すことで、近代短歌史の洗い直しをする必要があると思われるのです。
 
 最後に、落合直文自身の短歌を4首、引用しておきましょう。

緋縅(ひおどし)のよろひをつけて太刀はきて見ばやとぞおもふ山ざくら花  萩之舎歌集
をとめらが泳ぎしあとの遠浅に浮き輪のごとき月うかびいでぬ                    
うつしなば雲雀の影のうつるべし写真日和のうららけき
一坪に足らざるうらの菜畑に黄なる蝶とび白き蝶とぶ                   



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