アトムの子のスピリチュアリズム日記/東京スピリチュアリズムサークル(旧 埼玉シルバーバーチ読書会)感想

     
      この地上人生を生きる目的は、『霊界』という本来の世界へ帰るための準備期間です。

『迷える霊との対話』(5月の読書会より)

2017年06月13日 19時14分57秒 | 日記

続き…

 今回の学習で、特に大きな罪を犯している人間でなくとも、簡単に「地縛霊」なってしまうことが分かりました。地上への思いが強い人、盲信的に宗教にしがみついて生きてきた人や、物質中心に生きてきた人ほどそうなってしまいます。地上人生を真面目に一生懸命生きることは、立派なことかもしれません。真面目に生きてきたことで、亡くなってから「死の自覚」が多少なりとも早まるかもしれません。しかし、死後の世界の知識がないということは、それだけで多くの無駄な時間を霊界で費やすことになってしまいます。

 「死」は決して悲しみではありません。本来の場所に帰るだけです。寂しく感じるのは、残された(地上人)こちら側の気持ちです。私たちスピリチュアリストであっても、すべての「死」に対して素直に喜べるかと言われれば、どうしても個人差があります。ただ「霊的知識」を手にしているので、一般の人たちよりは遥かに早く立ち直れるはずです(それだけでも大きなこと)。ただ問題なのは、亡くなった大切な人が道に迷わないかということです。少しでも早く「幽界」にたどり着けるのか、それとも地上に一番近い下層界で「地縛霊」になってしまうのか…。
 どうか、、、少しでも早く「幽界」に行けるよう、死んだあとは「自分を守護してきた人」、または先に亡くなった「自分のお母さんや家族」の言葉を信じてついていって欲しいと思います。守護霊や先に亡くなった愛する人は、決してあなたを不幸にはしません。生前に正しい「死後の世界」の知識を持つことはもちろん大切ですが、(万が一)間に合わず霊界入りしたとしても、地上で作り上げたものに執着せず、また進むべき道を間違わないように、最初に出会った守護霊や愛する家族の言葉を信じてしっかり手をつないで、その先に向かって行って欲しいと思います。

 これから紹介する本『迷える霊との対話』は、1861年~1945年、米国の精神科医である「ウィックランド・カール・A」の30余年に渡る膨大な治療の記録を著したものです。異常行動で医学の手に負えなくなった精神病患者を、霊媒である自分の妻を使い、霊(スピリット)と交信しながら治療していきました。精神病を発症する原因のほとんどが、死後「地縛霊」となった低級霊による憑依だということが分かっています。死後の世界への知識がないことが、死んでなお地上人を苦しめることになろうとは誰も想像しなかったことです。

それでは、『迷える霊との対話』の一部を抜粋していきたいと思います。


★最初のスピリットは、トルコ領事を務めたこともある「ドクターピーブルズ」。彼は60年に渡ってスピリチュアリズム普及に尽くしてきた人物で、99歳で他界した。
「死ぬ時はうれしいくらいでした。霊界入りして、私は大変な栄光と幸せと美しさを見出して、本当にうれしく思いました。地上にいた時から、霊界についての一通りの理解はありましたが、実際に見た美しさはとても言葉では表現できません。霊的理解力が目覚めた人にとって、その美しさは筆舌に尽くしがたいものがあります。
 私は、地上時代はスピリチュアリズムをずっと信じていましたが、それでも、あるドグマにしがみついておりました。キリスト教から完全に脱け切っていなかったのです。
 どうか、この地上界が小学校に過ぎないことを知ってください大学ではありません。高等学校でもありません。生命についての基礎を学習するところに過ぎません。その小学校でロクに勉強しない者が、大勢いるのです」(13章 誤った再生思想に囚われているスピッリト)

輪廻転生の説で世界的に有名なマダム・ブラバツキー女史の話。彼女は霊能者で『神智学の教祖』で、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えただけでなく、その後のニューエイジ思想やオカルティズムへの影響も大きかったと言われている。その誤った考えに気づいた彼女のメッセージです。
「私は、なぜもっとこうした霊界とのつながりについて説かなかったのか、なぜもっと深く勉強しなかったかと、残念に思われてなりません。その事実については知っていたのです。さまざまな霊現象を見ていたのです。今は、何もかも打ち明けますが、私はとにかく”リーダー”になりたかったのです」13章)

地球圏には、地上を去ったあとでも地上的波動から抜け切れずにいるスピリットが、地獄さながらの悲惨な境遇の中で、無益な生活を続けております。
 朝から晩まで讃美歌を歌い、神に祈ることばかりしている集団があります。一種の自己催眠にかかった状態で、はたから声をかけることすらできないほどです。
 別の集団へ行ってみると、そこには金の亡者が集まっています。朝から晩まで金を数えることばかりをしております。彼らにとっては金こそが神なのです。この者たちにも声はかけられません。
 さらには、地上で身を破滅させた者たちが集まっているところがあります。世を恨み、心が鬼と化して、仕返しをすることばかり考えております。愛と優しさはカケラもありません。その魂は、まるでドロ水に浸したスポンジのように、汚らわしい感情に満ち、愛も情も受けつけようとしません。うっかり近づいて神だの愛だの親切心だのを説こうものなら、唾を吐きかけられ、笑い飛ばされます」13章)

※地縛霊は、地上人に憑依して永遠と悪事を働くのです。

★ウィリアム・イェイツ霊(ウィックランド博士と一緒に活躍した人)
「今夜は、こうして皆さんと対座してお話ができることを、大変うれしく思います。それに何よりも、このサークルがずっと活動を続けておられることが有り難いです。招霊会(※)が開かれる時は必ず来ております。今夜も、勉強のために、大勢のスピッリトを連れてきております。そのにぎやかな情況をお見せしたいくらいです」14章 実在に目覚めたスピリットからの助言)

※読書会や、公開ヒーリングにも当てはまります。

「暗黒街の様相は、実際に見ていただくほかありません。(略)自殺者ばかりが集まってる境涯(きょうがい)、狂信者が通う協会ばかりが立ち並ぶ境涯、スラム街、拝金主義者ばかりの街などなど、それはそれは凄絶(せいぜつ)をきわめております。しかし、その事実自体も問題ですが、もっと問題なのは、そうした境涯のスピリットの出す波動が、地上の類似した人間の波動と合致(憑依)して、生活を破綻に追いやっている現実です。(略)どんなに善人であっても、どんなにまじめな人生を送っていても、ただこれだけでは十分ではありません。死後の世界についての知識がないと、目覚めたあとしばらくは暗闇の中にいます。そのあと、いつ霊的覚醒が訪れるかは、その人が地上で培った霊性の程度(霊格)いかんによります」14章)

※憑依のことであり、特に地縛霊と波動が合ってしまう霊媒体質の人たちは、自分が特殊な体質ではないことをまず自覚する必要があります。霊媒体質は、特別な体質でも他人に自慢できることでもありません。生きずらい体質であっても、それはあくまでも「カルマ」であり、なにより霊に関心を持たないことが重要です。

★Mr.ルートの出現(ウィックランド博士の除霊治療サークルの指導霊)
「この地上に生きているうちに、地上生活のことだけでなく、死後の世界について勉強しておくべきです。聖職者になりたいとか、医者になりたいとか、弁護士になりたいと思えば、誰しもその道の勉強をしなくてはなりません。それと同じで、こうして生きている自分とは何なのかについて勉強するのが当たり前ではないでしょうか。
 死後のことは、死んでからではなく、この地上にいるうちに学んでおくことが大切です。そうすれば、肉体から離れた時に迷うことなく、あらかじめ用意されている場所に落ち着き、いつまでも地上の我が家をうろつきまわるようなことがなくて済みます。死後のことを知らないまま死んだ人の中には、すでに肉体がなくなっていることにまったく気がつかない人が意外に多いものです。そういう人は相変わらず地上の家族と一緒に暮らしているつもりでいます。そのうち家族の中の感受性の強い者に憑りついてしまいます」14章)



※参考資料;スピリチュアリズム普及会発行「ニューズレター39号」
      カール・A.ウィックランド(著)「迷える霊との対話」

※なお、これらの引用にあたっては、スピリチュアリズム普及会の許可を得ています。


5月の読書会に参加して…

2017年06月13日 19時12分39秒 | 日記

 5月とは思えないような暑い1日でした。職場(私の部署)では、魚を扱うため早朝からクーラーを入れていますが、それでも大きな魚をさばくときや売場と作業場の往復では汗が出ます。これから梅雨の時期が過ぎ暑い夏がやってきます。暑さが苦手な私にとっては新たな戦いの始まりです。本当にいつまでたっても本州の湿気と暑さに慣れずにいる私です。

 しかし、そんな暑い時でも「読書会」の日が近づくとテンションが上がり胸の高まりを感じます。新たな知識や霊界の思いを深く知ることに喜びがあるからです。もちろん「霊訓」を1人で読む時間はとても大切ですし、祈りにも繋がることだと思っています。しかし「読書会」で学ぶことは、同じ文章を読んでいるはずなのに重みが違うのです。子どもたち(私たち地上人)の幸せをどこまでも願う「大霊」の深き愛、霊界の熱い思い、高級霊の必死の働きかけが「読書会」では手に取るように伝わってくるのです。また、言葉の1つ1つが魂に染み込み、目をつむると私に関わりのある高級霊たちが常に応援してくれているのが分かります。この地上でなにがあっても愛情いっぱい自信いっぱいに生きている私です。その根拠のない自信がどこからきているかと言えば、やはり疑うことの無い「霊界」からの深い愛を心の底から感じているからなのだと思います。

 さて5月の「読書会」では、実際にあの世に旅立ったスピリットたちの「死の直後」の体験談から、それぞれの心境や背景を知ることができました。私たちは肉体が無くなった(死)からといって、直ぐにいろいろな過ちや間違った考えに気づくわけではありません。ドアを開けて隣の部屋に移動するだけで、地上時代の考えや執着が変わることはありません。当然、リアルな感情が「死の直後」の体験談から読み取ることができ、私の心に深く突き刺さりました。さらに「死後の世界」の知識がありませんから、死んだことすら分からない人もいます。今回ここで取り上げた体験談は、スピリチュアリズム普及会発行の『500に及ぶあの世からの現地報告』からの引用と、(最後の1つは)アラン・カルデックの『天国と地獄』からのものです。ここに掲載するのはほんの一例ですが、死の直後の体験談は誰ひとりとして同じではないことが分かります。一人ひとりの地上での生き方・考え方が大きく関係しているのです。


★イギリス人、テッド・バットラーは交通事故で死にました(即死)。その彼が1964年2月10日の交霊会に現れました。彼はリーズで、妻と買い物をしていました。その時……

(テッド・バットラー霊)
 私は道路を横切ろうとしていました。すると急に何かが私に当たりました。それはブレーキが効かなくて坂道を転がり落ちてきた車だと思います。私は壁に叩きつけられ気を失いました。苦しかったという記憶はありません。何かが私の方にやってきたのを覚えています。それが、すべてです。その出来事は本当に突然に起こったのです。
 グリーン女史(交霊会の司会者)は確認した。
「あなたは、どのようにしてご自分の状態に気がついたのですか?」
 分かりません。私が覚えているのは、大勢の人々が立って何かを見下ろしていたことだけです。私もその人たちと同じように覗き込みました。するとそこには、私と瓜ふたつの男性が倒れていました。最初、私はそれが自分だとは分かりませんでした。「これは全くの偶然の一致だ。彼は私にそっくりだ、まるで双子のようだ」と思いました。
 その時、私の妻が涙を流して泣いているのが見えました。彼女は私がすぐそばに立っていることに気がつかないようでした。それから死体は救急車に乗せられました。そして妻と数人の看護婦もその車に乗り込みました。私も一緒に乗り込み、妻の横に座りました。しかしそれでも彼女は、私がいることに気がつきませんでした。私は徐々に、「目の前に横たわっているのは自分の死体なのだ」ということが分かり始めました。
 私たちは病院に着きました。私の遺体は死体安置所に置かれました。私はそこが好きになれず、すぐ家に戻りました。妻はすでに家に帰っていて、隣のミッチェン婦人が彼女を一生懸命に慰めていました。それから葬式が行われました。もちろん私もその場にいました。私は、「葬式の騒ぎといい葬式の出費といい全く馬鹿げたことだ。私はちゃんとここにいるのに」と思いました。誰も私に気がつきませんでした。年老いた牧師が立って聖書を読み上げていました。
 私は、もし誰か今の私の状態を知ることができるとするなら彼以外にはないだろうと思ったので、彼のそばに立っていました。そして肘で彼の横腹をそっと押し続けましたが、彼は全く気がつきませんでした。彼は葬式をそのまま続けました。
 私は数週間、家のまわりをうろついていたに違いありません。500に及ぶあの世からの現地報告 4、死の自覚P75~P77)

★生前、バッキンガム地域に住んでいたビックスは、田舎の技能者か商人であったと思われます。そのビックス(病気で急死)が死後、地上からあの世への体験を述べています。(1966年の交霊会より)

(ビックス霊)
 そのとき私はイスに座って、届いたばかりの新聞を読んでいました。私は少し変な感じがして、メガネをはずしテーブルの上に置きました。それからしばらく静かに考えごとをしていました(実は、彼はこの直後に死んだのである)。
 
時間がたちました。そのとき不思議なことが起こりました。イスに座っている私の姿を私自身が見ているのです。私はイスのそばに立って、自分の姿を眺めていました。テーブルの上には新聞とメガネが見えました。「これは妙なことだ、変だ!」と思いました。私は何がなんだか分かりませんでした。

 それから私は、誰かがドアをノックしているのに気がつきました。私は相変わらずイスに座っている自分自身を眺めながらそこに立っていました。まるで私がドアを叩く音を聞いているようでした。私は部屋の中にいたにもかかわらず、誰がノックしているのかが見えました(※)。それは私の妹でした。名前はメイと言います。彼女は道路に沿って数軒先に住んでいました。
 私はドアを開けようとしましたが、どうしてもできませんでした。「どうしよう、ドアが開けられない!」私はひどく混乱してしまいました。ノックは続きました。私は焦りました。私は夢を見ているんだと思い、「早く目を覚まして妹にドアを開けてやらなければ……」と考えました。しかしどうしてもドアを開けることができませんでした。それから彼女が道を慌てて駆けていくのが見えました。彼女は明らかに動転していました。「いったい、これはどうなっているんだ!」と思いました。

※肉体が無いため、霊視能力が発達したと言えます。

 (略突然、暖炉と壁が私の目の前から消えました(※1)そのときの状況は、私にはこのようにしか説明できません。そして暖炉と壁があった所に美しい野原や木や川が現れました。そのうち何かが遠くの方から近づいてきました。最初、私はそれが何なのか分かりませんでしたが、やがて人間であることが分かりました。何と! それは母でした(※2)昔、部屋の壁に、母の最初の結婚のときの肖像画が掛けられていましたが、そのとき私の目の前に現れた母は、その肖像画のような若い姿をしていました。彼女は幸せそのもののように満面に笑みを浮かべて私の所へ近づいてきました。
「さあ、行きましょう」と母は言いました。
「あなたはここにとどまっていてはいけません。ここにいつまでも座っているのはよくありません。誰もあなたには気がつきませんよ。妹も気がつきません。さあ、私と一緒に行きましょう」
「私には何がなんだか分かりません」

※1)霊的視野が開けて、物質要素が消えたということです。
※2)霊格が高い母が、いろいろ教えようとしてくれているのです。

 (略)眠りから覚めたとき、私は田舎の共同墓地に立っていました。その場の状況が私の心を混乱させました。私は生前、保険に入ってお金を払い続けていました。死んだときには、そのお金でまともな墓地に葬られるとばかり思っていました。しかしそのとき、私の遺体は貧困者と同じ共同墓地に埋められようとしていました。もっといい墓に葬られるためにお金を残してきたのにと思うと、私は腹が立ってきました。私が自分の葬式に行ってみたいと思ったのは、実は自分がいい墓に葬られるのを見たかったからなのです(※3)
 墓地には妹の他に二人の人間がいました。そのうちの一人は私のよく知っている人間で、学校も一緒でした。もう一人は私の全く知らない人間でした。私の棺(ひつぎ)は墓穴に降ろされました。そのとき雨が激しく降ってきました。年老いた牧師は急いで儀式を進めました。その急ぎようといったら、列車に遅れまいとして駆け込む乗客のようでした。妹は私のためにいい墓地を買おうとしてくれなかったことが分かりました。
 そのこと自体は大したことではないかもしれませんが、私をもっといい墓地に葬ってくれるのが物の道理だと思いました。私はそうした考え方で地上人生を過ごしてきたのです。そのために、わずかばかりのお金を残してきたのです(※4)しかし彼女はそのお金を私の墓のために使いませんでした。私は腹が立ち、「この仕返しは必ずしてやる!」(※5)と思いました。

※3)お金や地位、名誉など(地上と)同じ考えを持ち続けたままでいるのです。
※4)ーーー線は、ビックスの人生観。
※5)地上の人間を必要以上に憎んだり、執着した場合(度を超えると)憑依や「たたり」と呼ばれるものになってしまいます。
 
 すると母が言いました。
「やがて彼女もここにやってきます。そのときには、あなたはすでにそんな考え方はしなくなっているでしょう。結局……
「あいつは何というお金のムダ遣いをしてるんだ!」
「あなたがどんな墓地に葬られようと大したことではありません。大切なことは、あなたが今どこにいるのかということです。あなたの残したわずかなお金は彼女の役に立っているでしょう。あなたはそんな考え方をすべきではありません」
「今、お母さんは私の考え方は間違っているとおっしゃいましたが、でも妹は、私が自分の墓地のためにお金を貯めていたということを知っていたのですよ」
「立派な墓であろうがみすぼらしい墓であろうが、それが何だというのですか? また牧師がそそくさと儀式を済ませたからといって、それがどうだというのですか?」
「じゃあ、いったい何が大切なんですか?」
「あなたは現にこちらの世界にいるのではないですかそれですべてじゃないですか」
「たしかに今、私はここにいます。そしてすべてがうまくいって何の問題もありません」
「ではこれ以上、地上のことについてあれこれ悩むのはやめにしましょう。いずれ牧師も妹もここにくれば、自分の人生を見せつけられるようになるのです(500に及ぶあの世からのい現地報告 6、地上の家族・知人への訪問P109~P129)


★サミュエル・フィリップは、生前から立派なスピリチュアリストとして奉仕と信仰と犠牲の人生を歩んできました。その人間性と生き方は、まさにスピリチュアリストの鏡というべきものでした。1862年12月、50歳で世を去りました。
 その彼が、交霊会で死後の世界について詳しく述べています。地上人生を優れたスピリチュアリストとして歩んだ霊性の優れた人間が、死後の直後、どのような体験をするのかを明らかにしてくれています。

(フィリップ霊)
 死は何の苦痛も動揺もなく、まるで眠りのように訪れました。私には、死後の世界への恐れは全くありませんでしたし、地上人生に何の未練もありませんでした。そのお蔭で私は、地上生活で抱えてきた問題に悩まされることはもうなかったのです。肉体と霊体との分離は、何の努力も必要とせず、痛みもなく、無意識のうちに行なわれました。

 私には、この眠りがどのくらい続いたのか分かりませんでしたが、それはほんのわずかな時間でした。私は、これまで味わったことのない喜びに満たされて、穏やかに目覚めました。もはや痛みを感じることもなく、喜びに満ちていました(※1)。私は起き上がって歩こうとしましたが、なぜか力が入らず、動くことができませんでした。どうして動けないのか分からないまま、心地よい状態の中で起き上がれずにいました(※2が、私が地上を離れたということは間違いのない事実でした。自分の身に起こった出来事のすべてが夢のようでした。

※1)穏やかな「死」の自覚。地上の役目を終えたという喜びが伝わってきます。
※2)死の自覚はできたが、霊体の調整ができていないために起こるようです。

 (略)自由になれたことが、本当に嬉しかったのです。私は、あたかも悪臭を放つひどい環境から抜け出した人のように、楽に呼吸をすることができました。筆舌(ひつぜつ=文章や言葉ではとても表現できないこと)に尽くしがたいほどの幸福感が私の心を占め、全身に広がっていきました。
 (略)こうしたことがあったにもかかわらず、私はまだ地上的な思いから完全に開放されたわけではありませんでした。地上で苦しんだあらゆる記憶が、ことあるごとに思い出されたからです。しかし私は自分が置かれている状況の中で、幸せをかみしめ心の底から感謝することができました。
 (略)もし人間が死後の世界の真実を理解できたなら、どれほど素晴らしいことでしょう。そうすれば逆境にあっても、死後の世界のへの確信から、強さと勇気を持つことができるのです。神が、摂理に従順であった子ども(人間)のために用意してくださった幸福を知れば、地上で生活する間はどんな苦しみでも我慢できるものです。死後の世界について何も知らなかった人も、そこでの喜びが分かれば、地上で心を動かされてきた楽しみなど、いかに価値のないものであったかを悟るようになるのです。(アラン・カルデックの霊との対話 天国と地獄Ⅱ 第1章 3、苦難の人生を終えて得た希望)



続く・・・