中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

“私の追憶、そして彼女から知った日本人は欧米人との子を産みたがる”

2019-11-02 12:35:05 | オヤジ留学
中年オヤジNY留学


私の追憶、そして彼女から知った日本人は欧米人との子を産みたがる
2016/7/9 編集

再会美保、彼女と再会したのはコロンビア大学の正面、ブロードウェーに面した当時の学生は誰でも行く中規模のスーパーマーケット、名前は忘れました、ただそこのショッピングバックはベージュ色です。
私も彼女も、2年前は同じコロンビアの英語学校の生徒でした。
その当時は彼女とはクラスも違い、いつも彼女は数人の日本人と学内を移動しているのは目に焼き付いていました。
気の強そうな顔立ちから、その当時とりわけ話をしたことはありませんでした。

それが、コロンビア大学前のスーパーで数年ぶりに会うとは思いませんでした。
入口近くで、“まだ居たんだ(日本に帰ってなかったんだ)?”と彼女の方から声をかけてきました。 私も内心ビックリ。 勿論いつも従えていた兵隊さんも無く、アメリカに来て2年以上の歳月は、彼女を“丸く”しているかのようでした
それから私たちは、一緒に遊ぶようになりました。
美保の部屋と私の部屋はB-WAYを徒歩5分でした。

夜、どちらかということもなく電話で呼び出して、コロンビア大学そばの、これまた誰もが知るギリシャ・レストランで良くお茶を飲みました。
このニューヨークで飾らないで会えて話ができる友達がそばに居る、居心地の良さは今でも憶えています。彼女は私の東京下町訛りに彼女のお父さんを重ねて懐かしがっていました。

それから、何度も行ったことのある博物館とかを改めて二人で行ったりとか、地下鉄に乗って、コニーアイランドへ行ったりとか、メグライアンとトムハンクスならぬ夜のエンパイアに登ったり、その当時のエンパイアは今、観光客であふれる場所とは違い“のんびり”していました。・・・・。




(彼女はどうしたい?)
そうこうするうちに、私は彼女が自分の彼女になれるのか試したくなり何度か、”キス“を試みましたが、スルッと彼女に首を回わされ-------- バント空振り。
またある日は、彼女の部屋へ“お出でよ”と連絡があり行きました。
別に何もすることがなく、彼女はベッドの上に身を放り出し、チョコチョコとバウンドしています。
当然、誘っているのかな?と、すり寄っていくと、又もやかわされ、ついには面倒くさくなり、どうでも良くなりました。

そう言えば,かつて付き合っていた外人の話や、欧米系の外人と日本人との間に生まれる子は可愛いと幾多のケースを聞かされたこともありました。
良く良く考えると、彼女がふと話す中に、彼女自身もハーフの子をもつ願望をほのかに持っているように思えました。

ニューヨークに居ればそれなりに淋しい。
そして、時おり私のことを“○○さんて、優しいから・・・・・・”と言うこともありました。 安心して付き合える友達が必要なのは、私も彼女もお互い様です。

しかし、このニューヨークでは普通で終わりたくない
自分を変えるにしても、年齢からして、いきなり医者になったり、ビジネスを成功させるわけにもいきません。
漠然と上を目指すことがかなわなくとも妊娠して、しかも子供がハーフなら中途半端な自分(彼女)は後ろを振り返らず、この地(NY)で生きていけるかもしれない
欧米系のハーフを産む、これは日本人女子にとって一つの”花“であり”道“かもしれません

(ニューヨークは不思議な街)
この街は不可思議な所です、いつも日本に帰る当日、家なりホテルなりから旅行ケースを道路に滑らせた瞬間、“なぜか後ろ髪を引かれる”、この街から離れることの淋しさがドット沸き上がります。
犯罪も頻繁に起こるのに。
特別、優しくされた事も無いのに、何故?(なぜ)。
日本では現在、若きも老いも年金が足りるのか?将来ホームレスになる?話題の中心。
でもNYでは万一、最低限のアルバイトを確保され、何とかやっていけるなら、いくらでも(長く)この街に留まっていたい。

美保は、何かのめぐり合わせでダウンタウンのP大学の日本語教師に滑り込んでいました。
そんな彼女も、大学の日本語クラスの授業に私を招いてくれて、彼女の講師らしさを見たり、生徒の前で私も友達デビューしました。
彼女なりに自分自身に何か問いかけていたのでしょう、努力はしてくれていたのです

一方、自分は金にならないアルバイト、永住権も無い。 仕方なくコロンビア界隈から離れること1時間余、家賃の安いクイーンズに引っ越ししました。 その後、職のアンバランスと住まいが離れたことで彼女との交際は自然消滅した感じです。

私はどういう訳か悲しい映画が好きです。
その中でも、ロバート・レッドフォードとバーバラ・ストライザントの”追憶(THE WAY WE WERE)”
男女二人が勢いで結婚したものの、時とともに二人の路の違いが、それを取り戻そうと“もがく、苦しむ。 そして離別。
美保と私の場合は、そんな大げさなものではありませんが、でも私にとって小さな“THE WAY WE WERE”です。

彼女が身軽に、仮にもハーフの子を産むカードを温存していれば、このニューヨークでは時には力になるでしょう。 それでよかった。

一時期ですが楽しかった。 本来、人が生きていくのは大変なこと。小説”グレイト・ギャッビー“のように、人は一瞬は他人の不幸に立ち止まるが、次の瞬間、我に返り激流に人は一心不乱に自分の舵をとらなければならない
甘酸っぱい思い出ですが、全てが懐かしい。
 
また、続きをかきます。