新春の朝粥の会は”今昔の吉田を語る”と題してご近所に、お住まいの稲田和彦さんによるお話。
稲田さんは、京都国立博物館名誉館員でもいらっしぃます。
京都市は明治の頃、上京区と下京区しかなかった。
二条通りを境に区分けされていた。
その当時、吉田は山城の国、愛宕(おたき)郡吉田村と言っていたようです。
吉田を語るとすれば、
吉田山
吉田神社
京都大学
吉田神社は貞観元年(859)時の中納言 藤原山陰卿が春日の神を勧請して創建された。
「徒然草で知られる吉田兼好の家系が代々神官を務めてきた。
室町時代末期におこった応仁の乱の後人々の心の不安動揺した時代に吉田兼倶が出て唯一神道を唱えた。
唯一神道とは、神道こそが唯一の信仰であると・・・・・・
吉田兼倶が興した吉田神道は、中国の思想や仏教を融合したといわれる。
その理念を形にしたのが八角形の本殿で、入り母屋造りに六角形の後房がつく珍しい建物である。
節分で知られている吉田神社。
吉田山になると三分の二は吉田神社の境内でそのことが山の変化を防いできた。
吉田山はそびえ立つのではなく、なだらかに広がった岡で一帯を神楽岡と呼び<六国史>にも神楽岡として何度もみられる。
神祭りの聖地とされた所であろうと考えられる。
と静かな語り口でつい時間の経つのも忘れるくらい。
そんな吉田に住んでいる私達でした。