吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

私だけのものではない「私だけの月」

2012-12-15 00:57:04 | 日記
愛恋の言葉断ち来て久しきに心揺らるる眉月のぼる
安永蕗子『魚愁』

「眉月」を見て「私」は心を動かされている。“「愛恋の言葉」を断ってこれまで長い間暮らしてきた、それなのに、心が揺さぶられるような眉月が空にのぼる”と言っている。“それなのに”の前の内容と後の内容には、一見はっきりしたつながりがないようにも見える。しかし、読者には“それなのに”の意味が直感的に分かる。
「眉月」を見て「心揺らるる」ことと、誰かのことを思って「心揺らるる」ことは似ているのだろう。だから「眉月」を見て心が揺れた時、その揺れ方から「愛恋」を断つ前の心をも思い出したのだ。「私」は自分の心がそのような揺れ方をすることはもうないはずだと、そういうことはもう終わらせたはずだと思っていたのに、心は勝手に揺れている。そして、この歌を読む時、そのような“心が勝手に動く感じ”を読者自身の心も思い出している。「愛恋」とも「眉月」とも関わりのないものかもしれないが、「私」の心の揺れ方と同質のそれを思い出しているのだ。
この歌の中で「私」が見ている「眉月」は、『「私」だけの月』だと言えるだろう。その『「私」だけの月』を、「私」の目を通して、読者は見ることになる。だがその時には、読者も見ている以上、その「眉月」は『「私」だけのものではない『「私」だけの月』』になっている。同様に、この歌に書かれている“揺られる心”も、読まれることによって、『「私」だけのものではない『「私」だけの心』』になる。
私たちはそれぞれ、月という同じものを見ることができるが、見ている月のその見え方は各々に違って、全く同じになることはない。(だが、その“他の人と全く同じ見え方で月を見ることができない”という点においては、誰もが同じであるとも言える。)
つまり、各々が見ている月(各々にとっての月の見え方)は、同じでありながら同じではない。歌を通して、読者は「私」と同じ見え方を共有する(ような気がする)ことができる。しかし、歌の背景にある「私」の日常の中の出来事や思いまでは知ることができない以上、「私」にとっての月の見え方を完全に知ることはできない。その代わり、「私」には知り得ない、「私」のそれと同質ではあるが同じではない、読者自身だけが知る月の見え方を思い出す。

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