吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

見入ることと見入られること

2012-01-17 00:59:37 | 日記
燃えさかる焚火の底に地を舐むる黒きほむらのあるを見てをり
栗木京子(『中庭(パティオ)』)

「地を舐むる黒きほむら」を見ているのは「私」だろう。そして、もし焚火の周りに「私」以外の人がいるとしても、その「黒きほむら」に目を向けている人は「私」だけだろう。何故なのか自分にも分からないまま、目が離せず見入っているような感じを受ける。むしろその「黒きほむら」に「私」の方が見入られているような感じもする。
その「ほむら」はどこか不気味であり、見る者を不穏な気持ちにさせるものだろう。ここで「私」は他の人があまり目を向けないものに目を向け、発見をしている訳だが、ここには「見なくてすむなら見ない方がよいものを見てしまった、しかし見てしまった以上は見なかったことにはできないからよく見なければ」というような感覚があると思う。見るということは時に恐ろしいことであり覚悟のいることであると思う。

他の人にも見えるものと「私」にしか見えないもの

2012-01-15 01:15:56 | 日記
新涼の銀河のしづく水の辺に今宵まどろむけものを濡らす
栗木京子(『中庭(パティオ)』)

「まどろむけもの」という表現が印象的だ。「まどろむ」という言葉の語感は、やわらかくのどかな感じだ。「けもの」という言葉は、とんがっていて猛々しい感じだ。これらの言葉が合わさって「まどろむけもの」となることで、相容れないように見える二つの言葉が合わさって、新しい質感が生まれていると思う。
その「まどろむけもの」が、「銀河の水の辺」にいて、しずくに濡れているという。たぶん「私」は夜空を見上げていて、銀河の中にそのような「けもの」の姿を見つけたのだろう。銀河は他の人の目にも見えるものだが、その「まどろむけもの」は「私」にしか見えないものだと思う。
また、「新涼」(秋の初めの涼気)という初句の言葉が歌を満たす空気の感じを伝えていて、二句以降に描かれる情景とその空気の感じはとても合っていると思う。この季節のこの空気の中だからこそ、「私」はこの「まどろむけもの」を見られたのだろう。


小さな時空間

2012-01-13 01:02:05 | 日記
王冠をならべて子らの遊ぶ路地日暮れて光るものみな愛し
栗木京子(『中庭(パティオ)』)
*「愛」に「いと」とルビが付く

「日暮れて光るもの」というのは、具体的には、まず王冠のことであろう。また、それで遊んでいる子どもたち自身も、「私」の目には光って見えているのではないかと思う。さらに、この歌の風景の中には、言葉で直接書かれていない「光るもの」もあるのかもしれない。それらの光は、路地という小さな世界で、日が暮れていく短い時間にだけ見られるものなのだろう。「みな愛し」という表現からは、一つ一つの「光るもの」を愛おしむというだけでなく、それらが存在するこの小さな時空間のまるごとを記憶にとどめたいというような気持ちも伝わってくる。
歌の冒頭に置かれた「王冠」という言葉はとても印象に残る。瓶の口金を王冠と呼ぶこと自体は特別なことではないのだろうが、この歌の中においては、「取るに足らないはずのものも、遊ぶ子どもにとっては、あるいは日暮れ時の路地の風景の中では、小さな宝物のように大事な美しいものになる」ということを、この呼称が象徴しているように思う。

「濡れし葉いちまい」

2012-01-11 01:17:43 | 日記
にこやかに人見送りてわが幹より濡れし葉いちまいまた失ひぬ
栗木京子(『中庭(パティオ)』)

「濡れし葉いちまい」とは何のことなのだろう。
おそらくこの歌に書かれているのは、遠方にいる親しい人が訪ねて来て、楽しい時間を過ごし、その人が帰っていくのを見送った後、しばらくその場所に立ち尽くしている「私」の姿ではないか。さっきまでの、大事な人と過ごした大事な時間は、「私」を満たしてくれたはずなのに、この歌にはそのような感情ではなく、自分の身体から何かが抜け落ちたかのような喪失感が表現されている。否、そうした大事な時間を過ごした後だからこそ、「私」は戻らない時間のかけがえの無さを強く感じて、自分はそうした時間を一つまた一つと失い続けながら生きていくのだと思ったのだろう。過ぎ去った時が豊かなものであったからこそ、そうした時が戻らないことの痛みを再認識したのだろう。今しがた見送ったその人と、もしかしたらもう二度と会えない可能性もある。また、仮にその人とこれから先に何度会うことになるとしても、「今日会ったように会う」ことは二度とないのだ。
「濡れし葉いちまい」とは、「私」という一人の人間に与えられている、かけがえの無い瑞々しい時間の断片のことだろう。そしてここには、自分にはあと何枚、失うことのできる「濡れし葉」が残されているのだろうか、という死への意識を含んだ感慨もあるのかもしれない。


手紙が届くということ

2012-01-09 00:14:03 | 日記
月光のきららを添へて投函す春の海峡越えゆく手紙を
栗木京子(『中庭(パティオ)』)
*「月光」に「つきかげ」、「手紙」に「ふみ」とルビが付く

ポストの前に来て、すぐにポンと手紙を入れたのではなく、そこに少しの間手紙を持ったまま佇んで、それからそっと差し入れたのだろう。そのしばしの間に「月光のきらら」が手紙に降りかかり、「私」はその手紙が春の海峡を越えてゆくことを思ったのだろう。
手紙の文面に「私」が書いた内容は、相手が読んでくれれば、相手に届く訳だが、この歌に書かれているような「月光のきらら」を添えて投函した「私」の思いや、手紙が春の海峡をはるばる越えてゆくことへ馳せた「私」の思いは、相手に届くだろうか。
目に見えるものではないから、それら自体は届かないだろう。そういう目に見えないものが簡単に相手に届くのならば、そもそも手紙を書いて相手に宛てて送るという行為自体が必要なくなるだろう。書いて送らなければ届かないことがあるから、それを書いて送るのだ。手紙とはそういうものだ。
しかしその手紙を、書いた「私」がポストの前まで持って来て投函し、それが誰かの手から誰かの手へとはるばる海峡を越えて運ばれて行くという過程があってはじめて、この手紙という媒体を通したコミュニケーションが成り立つということも、重要な事実である。
たぶん「私」は、そうした事実に対する敬意や謝意のようなものを持っているのだと思う。誰かから誰かに何かが届くということはそう簡単なことではないのだという思いをこの歌からは感じる。そしてそのような思いは手紙に書かれた文章の中にも、あるいはその筆跡や使われた便箋や封筒や切手などの中にも、自ずと表れるだろうから、結果としては、この歌に込められているような「私」の思いは、手紙を通して相手に届くだろう。