燃えさかる焚火の底に地を舐むる黒きほむらのあるを見てをり
栗木京子(『中庭(パティオ)』)
「地を舐むる黒きほむら」を見ているのは「私」だろう。そして、もし焚火の周りに「私」以外の人がいるとしても、その「黒きほむら」に目を向けている人は「私」だけだろう。何故なのか自分にも分からないまま、目が離せず見入っているような感じを受ける。むしろその「黒きほむら」に「私」の方が見入られているような感じもする。
その「ほむら」はどこか不気味であり、見る者を不穏な気持ちにさせるものだろう。ここで「私」は他の人があまり目を向けないものに目を向け、発見をしている訳だが、ここには「見なくてすむなら見ない方がよいものを見てしまった、しかし見てしまった以上は見なかったことにはできないからよく見なければ」というような感覚があると思う。見るということは時に恐ろしいことであり覚悟のいることであると思う。
栗木京子(『中庭(パティオ)』)
「地を舐むる黒きほむら」を見ているのは「私」だろう。そして、もし焚火の周りに「私」以外の人がいるとしても、その「黒きほむら」に目を向けている人は「私」だけだろう。何故なのか自分にも分からないまま、目が離せず見入っているような感じを受ける。むしろその「黒きほむら」に「私」の方が見入られているような感じもする。
その「ほむら」はどこか不気味であり、見る者を不穏な気持ちにさせるものだろう。ここで「私」は他の人があまり目を向けないものに目を向け、発見をしている訳だが、ここには「見なくてすむなら見ない方がよいものを見てしまった、しかし見てしまった以上は見なかったことにはできないからよく見なければ」というような感覚があると思う。見るということは時に恐ろしいことであり覚悟のいることであると思う。