吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

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ねがいの先から遠いところでねがいつづける

2016-11-13 01:53:20 | 日記
歓(よろこ)びて怒ることなき明暮(あけくれ)を吾はねがひて幾年(いくとせ)経けむ
佐藤佐太郎『帰潮』

人は何のためにねがうのだろう。ふつうに考えれば、そのねがいが叶うことがねがうという行為のゴールだということになる。だが、この歌を読むとそういう考えが揺らいでくる。
「歓びて怒ることなき明暮」は、ずっと「吾」のねがいの先にありつづけたのだが、今にいたるまでそのねがいは実現しないまま長い歳月が過ぎたのだろう。だが、それならねがうという行為には意味が無かったのかといえば、そうではないと思う。この歌において、ねがうことの意味は、叶わないことをねがいつづける過程そのものにあるように思える。この歌は、薄い絶望とともにあるささやかな希望を感じさせる。ねがいの先にある「歓びて怒ることなき明暮」よりも、それをねがいつづけながらなかなかそうはいかず、それでもなんとかしのいで過ごしてきた現実の明暮のほうが、むしろ深い輝きをもっているのかもしれない。
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終ることと終らないこと

2016-10-24 00:54:21 | 日記
苦しみて生きつつをれば枇杷(びは)の花(はな)終りて冬の後半となる
佐藤佐太郎『帰潮』

枇杷の花が終っても冬は終らない。「冬の後半となる」という時季が絶妙だと思う。冬の真ん中にこの人は立ち止まっている。やっと半分が終わった。でもあと半分ある。枇杷の花が散った後に、もう半分の冬がある。
冬という季節そのものは、必ずしも悪いものではないが、苦しんで生きているこの人の心には、おそらく春の待つ気持ちがあると思われる。春までは近いようでまだ遠いという認識がここにはあるだろう。苦しんで生きていること、枇杷の花が終わったこと、冬があと半分のこっていること。一見、ネガティブなことしか書かれていないようだが、この歌の中には春を思い春に向かう心が込められていると思う。春を思ってあと半分の冬を生きていこうとする心に、絶望とないまぜになった希望のようなものが滲んでいると思う。
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書いている自分の罪深さ

2016-10-17 00:12:04 | 日記
女一人(をんなひとり)罪にしづみてゆく経路その断片を折々聞けり
佐藤佐太郎『帰潮』

「女」は、この人の知り合いだろうか、あるいは面識のない人だろうか。この歌の淡々とした文体からは、“よく知らないとくに関心の無い人についての話が、たまたま耳に入ってきた”というような印象を受けてしまいそうだが、何度も読んでいると、そうではないように思えてくる。
距離のあるところから、時折人づてに聞いて、「女」の人生が破滅に向かっていく様子を確かめていること。そういう出来事を言葉にして歌をつくること。ここには何か屈折した感情があるように感じられる。歌の真ん中に置かれている「罪にしづみてゆく経路」という言葉の強烈さ、恐ろしさが際立っているからだろう。
「女」はこの人にとって、以前には面識があったが何かの事情で縁がきれて、今は関わりが無くなった人なのではないかと思う。そして「罪」という語には、「女」の身の上に起きていることについての“自業自得である”という認識がこめられていると思う。
だがこの歌は、「女」の「罪」についてのみ書いているものではないだろう。この歌には、「女」についての噂話を聞き続けて、こうした歌をつくっている(つくってしまう)この人自身の感情が滲んでいる。「女」に対する感情は複雑で、一言では表わせないだろうが、おそらく“ざまをみろ”というような感情も含まれているだろうし、また、そういう感情をもってしまう自分に対して感じる後ろめたさや恐ろしさなどもあるだろう。この人は、自分の中にあるそうした複雑な感情に対して自覚的であると思う。この歌は、他者の「罪」についての歌であるとともに、それを書いている自分の罪深さについての歌でもあるだろう。


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それでも“今”に留まる

2016-10-14 01:13:24 | 日記
形なきもの吾を責(せ)む過去のかげ未来の影といふわかち無く
佐藤佐太郎『帰潮』

錯乱しているかのような、怖さを感じさせる歌だ。だが、このように短歌の定型に収めて端正に表現されると、どこか落ち着きのようなものも感じられる。狂気にかたむきながらも正気を保っている「吾」の意識や姿が、この歌から見えてくる。
「形なきもの」が歌になることで、形を与えられていると思う。より厳密に言えば、「形なきもの」と「吾」との関係性が言葉によって可視化されている。「形なきもの」は「過去のかげ」でも「未来の影」でもあるような、どちらとも区別できないようなものとして、それらが幾つも重なっているようなものとして、“今”にいる「吾」を苛んでいる。だが、まさにその“今”から、この歌は生まれている。“今”を生きることの痛みと、それでも「過去」や「未来」の「かげ(影)」に呑み込まれずに、ここにある“今”に留まって、向き合おうとする意思を、この歌は思わせる。
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戻れる時間と場所

2016-05-15 11:35:38 | 日記
われひとり部屋をとざして両の手を虚(むな)しく置けり夜の机に
佐藤佐太郎『帰潮』

孤独な場面である。寂しいような感じもするが、心が落ち着いているようでもある。「虚しい」という言葉は、ここではかならずしもネガティブな意味ではなく、雑念を消して、何も考えずにそこにいる、といった心持ちをも表わしているように思える。この歌に書かれている状況自体が、他者とは共有されない固有の「われ」のありようを表わしているようでもある。
本当に自分を支えてくれるのは、こんな時間と場所かもしれないと思う。何もないし誰もいないが、自分だけが戻れる時間と場所が、ここには描かれているのではないか。「夜の机」という何の変哲もないものが、この人だけのためにある懐かしい港のように見える。今が夜ではなくても、ここにその机がなくても、思い出すだけでひとりの静かな自分に立ち戻ることができる。
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