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争論 中核派・荒川スパイ事件

 中核派の荒川碩哉氏が権力のスパイであると『前進』で公表された。しかし「声明」の中身はあまりにも空しい。

新指導路線の諸側面 中野同志の役割

2013年08月04日 | 6 (今の)中核派とは何者か?

「動労千葉への特化」

という短絡的・無思想の路線。深みも広がりもなく、自律的な発想も許さない路線。こういうレベルの中央と指導体系‥‥。若者たちはせっかく発見して結集した運動に絶望して去っていく。けして人が集まらないのではない。事実上、追い出していくのだ。

その失敗の直接の責任者が「学対」の木崎dsや高木dsか。陽の当たる場所に着いたのが不幸の始まりか、それとも中核派にとっての不幸か?

 新指導路線の一側面

いろいろ言う前にやはり一言。

地区委員会の再編が進んだ。

地区のキャップは古参の労働者メンバーになり、従来キャップだった若手の常任は「事務局長・書記長」に職責の名を換えた。「労働者の党」の面目の一新だ。これは中野改革と言うべきか天田改革というべきか?

天田書記長は、すでに90年頃には出身母体の神奈川建党を上記のように改革している。それからずいぶん経って全党に及んだというべきか。

問題は実質だ。

長きにわたった上位下達の体質と、相も変わらぬ「(単一)路線の一致」(認識の一致)‥‥。

事が起これば労働者(出身)メンバーのキャップは「お上」の理解を得ようと必死に上申する。そして罵倒される。

たまに天田dが現場に現れても、「すべての成果は指導の正しさの結果」などとすっとんきょうな報告をして、「違うでしょ」と反論されても「ナンセンス」と恫喝するだけでさっさと席を立ってしまう。

06年の関西(兵庫・京都問題)での清水議長の態度そのものでもある。

天田dも余りに長く雲の上で霞を食いすぎたのか?

それとも、「革命党の最高指導部」には器が足りなかったのか?

組合の書記や地区のキャップが本来「身の丈」にあっていたのか?

天田dの実績は大きい。

20年余の「書記長」としての務めは果たした。

対カクマル戦争で「常任の党」に切り替えるとき、「常任」に二の足を踏んだ諸先輩を2段・3段飛び越えて、天田dは神奈川のキャップに躍り出た。その潔さと戦争指導の「実績」は否定すべきものではない。

けれども「前衛党の中央指導部」には実質を伴う「カリスマ性」が無条件に求められている。

残念だけれど、カリスマ性とは多少の決意や努力で身に付くものではない。「生来の…」と「時代や社会の空気」の中で生れるものだ。「街のカリスマ」だってまあ同じだ。

「指導部らしさ」も不可欠だが、中身のない「らしさ」は道徳教育や全柔連でしかない。

ならばまた「労働者の党」に復帰した今、もう一度、(かつての中立労連の中井さんのように)「一平卒に戻る」という決断はないのだろうか?

お疲れ様でした。

 中野さん(副議長)の功罪(限界?)

やはり今の中核派は「中野さんの遺言路線」を(忠実にか不忠にか)ひたすら走る以外にないのだろうか?

 動労千葉としての中野dの偉業は切りが無い。

公表はされなかったけれど「副議長就任」は多くの労働者メンバーに光をもたらした。

90年代の「血債主義」と「労働運動路線」にひとまずの決着をつけて登場した中野体制(中野・天田体制)は、けれども(本社や関西の)分厚い官僚体制の前に機能不全に陥った。

 これを解決しようとしたのが、「党の指導体制」と「交流センターの直轄指導」という二元指導だった。

 06年の関西の3・14に直面して関西から逃げ出した天田dを迎えて、これを受け入れることを決断し清水dに迫ったその「英断」は、中核派の岐路を決めた。

 結果、清水dの自己批判と失脚‥‥。

中野・天田ラインは「党の革命」とたたえながら、返す刀で後の関西派(塩川派)を切り捨てた。振り返れば、中央にとっての「党の革命」とは、与田関西(蜂起派)を切り捨て、「労働者階級一元論」に転化する一種のクーデタだったといえる。(その功罪は別に、どこかで)

 けれども「2元指導」の一本化の道は険しかった。

中野さんの学習会などで育成された若手学生らによる本社での古参常任の吊るしあげ(紅衛兵運動)にも拘らず、結局、党は変わりえなかった。

 やはり中野さんは「動労千葉の中野さん」の域を出なかった。理論でも、組織でも、中野さんには中核派副議長としての力は無かったのだ。

 中野d亡き後の動労千葉路線

やはり1代限りか?

「外注化阻止」を動労千葉や国鉄(JR)だけでなく、全党・全労働者階級の決戦と位置付けた13年新年号論文。

その惨憺たる結果に呆然とする。

 内外の労働者にとっても4大産別の中核的方針に掲げられると、「何が今更の外注化阻止か」という素朴な疑問もある。

「体制内労働運動」が外注化阻止を闘った時、これに背を向けてきた過去はどうなる?「一周遅れのトップランナー」というヤユ。

 労働運動に敗北は付き物だ。あいまいな妥協も常だ。

こんな時、中野dなら、組合員を鼓舞し、粛々と撤退することもできた。

残念ながら、田中委員長にそんな力を求めるのは無理だ。

「送りこみ・2世の限界」としか言えない。

 中野dの時代、「労運研」と「政研」という2大派閥の抗争とコミットして、そして関川委員長の存在に助けられて、「関川・中野体制」は基礎を築いた。

 三里塚二期決戦では、多数の懲戒解雇を受けながら闘った。その時の各支部長さんたちや活動家、そして「ほんとに普通の組合員」たち。

そんな人々と「時代」に支えられて動労千葉は生きてきた。

中核派あっての動労千葉

 「動労千葉あっての中核派」とならんで、「中核派あっての動労千葉」であったことも改めて認識したい。

75年の「スト権スト」と上尾暴動によるゼネストの崩壊。

 動労千葉がストを打つ時、中核派は総武線の各駅に集団で登場し、「スト反対のテロ・暴行」から乗務員を守った。

ジェット闘争も然り。

 ストを止め、粛々と撤収する動労千葉に(?)解放派が「ジェット燃料輸送阻止」のゲリラを仕掛けた時、これを粉砕して動労千葉を守り抜いたのも中核派と戸村さん・他だった。

 被解雇者の生活を支える物販では、中核派の「全力」をあげた。

国労などが処分に比して小額な資金しか集められ来現状の中で、中核派の存在は大きい。

 ただだとすれば、「第2、第3の動労千葉を」というスローガンは空しい。あらかじめの力なしにこれ以上の被解雇者を支える労働組合の決戦を構えることなど空論だったことを忘れられない。「動労千葉は一つだけ、象徴的にあればいい」という現実にどう向かいあうべきか?

 まずは、動労千葉の数々の「妥協」としっかり向き合うことではないのか?

 



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