Ⅰ.偲ぶ会の記事
6月22日、荒木淳d(本名廣海晶)が亡くなった。
7月22日には交流Cによる「お別れ会」がもたれた。
『前進』8月5日号に、教労委員会の追悼文と、お別れ会の記事。
『労働運動・8月号』で公表された田中氏(労組交流センター共同代表)と教労部会の二本柳氏の追悼の辞は、心に響くものがある。荒木dの人となりを伝え、在りし日の彼の姿を彷彿とさせる。
Ⅱ.不満と不信
①死因は「不慮の事故」だ。
それ以外何も語らない。『前進』の追悼文には時折、死因を明らかにせず、この言葉が使われる。
㋑党が何らかの意味でその死にざまを「恥」と認定し、隠ぺいしようとする時の常套句でもある。
「何が恥なのか?恥でも何でもない」といいう声は無視される。今回の「不慮の死」とは何か?
㋺以下は漏れ伝わる「真相」だ。
この日深夜か未明、台東区元浅草の路上に人が倒れていて通報された。
パトカーと救急車が到着した時、ほぼ絶命していたらしい。
状況から転落死と考えられ、、目の前のビル(五宝堂・伊藤ビル)に聞きこみがあった。
その結果ようやく、センターの関係者だと分かった。
大量の酒気を帯び、深夜に5階から転落したと推定された。
「事故死」と認定され、それ以上の捜査はなかった。
中核派のメンバーではあるが、「交流C」の関係者でもあり、「労働組合枠」として公安も処理した、ということか?
荒木dは、普段はあまり酒を飲まない、飲んでも少なめだったという話もある。
㋩経過を書いたが、この間あまりに時間がたちすぎている。『前進』の遅れは、交流Cに配慮したものとしても…。
㊁「酒がらみの死」か、泥酔するほど飲まざるを得ないの事情が重なっていたのか?
②経歴の削除
・本来あるべき経歴がほとんどない。ま、これは「浮上組」の定めかもしれない。
その結果、本来書くべきものまでも書けずに終わった。(ごまかし方は有るはずなのに‥‥)
・大衆団体の役員が最期までペンネーム(組織名)を使っていたこと。あまりに、最期まで…。
・役職の問題。実は交流Cの役員の構成が常に公式に発表されてないという不自然。
荒木氏dもいつの間にか事務局次長→副代表→次長になっている。「公然と非公然」がごちゃごちゃだ。
「党ろ○○運動の一体化」の実態。
Ⅲ.荒川氏との関係は?
①交流C機関紙は、荒川問題を避けて通っている。
(もし)事務局員がスパイだったと分かったら、センターとして告発し、謝罪するのが筋のはず。
ここから逃げ回る労働運動とは何か?
②自治労の荒川、教労の荒木。両氏は事務局員として同じ釜の飯を食ってきた関係だ。
一緒に食事をし、酒も酌み交わしたことは数知れなさそうだ。
荒川氏が〈シロであれクロであれ〉、荒木dにとって深い傷と苦悶の日々があったに違いない。
少なくとも「生きるか死ぬかの大事件」だったことは明らかだ。
けれど追悼文には、荒川スパイ事件への彼の態度表明はスルーされた。
「血債主義派」との闘いでの荒木dの闘いは言葉としては強調されているのにだ。
(九州に派遣された彼の任務と役割は、後に平田派となる地方委員会への牽制などがあったらしい)
(関西・西日本系列に、交流C政治・組織を通して介入を試みた、ということか?)
③転落死事件の直後から、ささやかれてきたのはこのことだ。
あるいは、〈シロ説〉を唱えたのか?事実の全貌を求めたのか?
荒川氏に連座させられていたのか、それとも疑いをかけられ、追及されたのか。
沈黙を強いられたのか?
少なくとも「スパイ事件の全容」を解明する闘いの中に、彼のNCとしての居場所は無かったことは確かに思える。
「死」によって、多くの核たる人々の心に残りながら、実像から遠く離れ、「英霊」に祀り上げられた‥‥?
交流C
- 東京都台東区元浅草2-4-10 五宝堂・伊藤ビル5F
- http://www.k-center.org/blog2/kc/
外観
グーグルマップで交流cの住所から検索すると、見える。