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争論 中核派・荒川スパイ事件

 中核派の荒川碩哉氏が権力のスパイであると『前進』で公表された。しかし「声明」の中身はあまりにも空しい。

交流C・荒木d、の逝去

2013年09月01日 | 4 〈クロ説〉からのリークなど

Ⅰ.偲ぶ会の記事

  6月22日、荒木淳d(本名廣海晶)が亡くなった。

  7月22日には交流Cによる「お別れ会」がもたれた。

  『前進』8月5日号に、教労委員会の追悼文と、お別れ会の記事。

  『労働運動・8月号』で公表された田中氏(労組交流センター共同代表)と教労部会の二本柳氏の追悼の辞は、心に響くものがある。荒木dの人となりを伝え、在りし日の彼の姿を彷彿とさせる。

Ⅱ.不満と不信

 ①死因は「不慮の事故」だ。

     それ以外何も語らない。『前進』の追悼文には時折、死因を明らかにせず、この言葉が使われる。

   ㋑党が何らかの意味でその死にざまを「恥」と認定し、隠ぺいしようとする時の常套句でもある。

   「何が恥なのか?恥でも何でもない」といいう声は無視される。今回の「不慮の死」とは何か?

   ㋺以下は漏れ伝わる「真相」だ。

   この日深夜か未明、台東区元浅草の路上に人が倒れていて通報された。

   パトカーと救急車が到着した時、ほぼ絶命していたらしい。

   状況から転落死と考えられ、、目の前のビル(五宝堂・伊藤ビル)に聞きこみがあった。

   その結果ようやく、センターの関係者だと分かった。

   大量の酒気を帯び、深夜に5階から転落したと推定された。

   「事故死」と認定され、それ以上の捜査はなかった。

   中核派のメンバーではあるが、「交流C」の関係者でもあり、「労働組合枠」として公安も処理した、ということか?

   荒木dは、普段はあまり酒を飲まない、飲んでも少なめだったという話もある。

   ㋩経過を書いたが、この間あまりに時間がたちすぎている。『前進』の遅れは、交流Cに配慮したものとしても…。

   ㊁「酒がらみの死」か、泥酔するほど飲まざるを得ないの事情が重なっていたのか?

 ②経歴の削除

  ・本来あるべき経歴がほとんどない。ま、これは「浮上組」の定めかもしれない。

   その結果、本来書くべきものまでも書けずに終わった。(ごまかし方は有るはずなのに‥‥)

  ・大衆団体の役員が最期までペンネーム(組織名)を使っていたこと。あまりに、最期まで…。

  ・役職の問題。実は交流Cの役員の構成が常に公式に発表されてないという不自然。

   荒木氏dもいつの間にか事務局次長→副代表→次長になっている。「公然と非公然」がごちゃごちゃだ。

   「党ろ○○運動の一体化」の実態。

Ⅲ.荒川氏との関係は?

  ①交流C機関紙は、荒川問題を避けて通っている。

   (もし)事務局員がスパイだったと分かったら、センターとして告発し、謝罪するのが筋のはず。

   ここから逃げ回る労働運動とは何か?

  ②自治労の荒川、教労の荒木。両氏は事務局員として同じ釜の飯を食ってきた関係だ。

   一緒に食事をし、酒も酌み交わしたことは数知れなさそうだ。

   荒川氏が〈シロであれクロであれ〉、荒木dにとって深い傷と苦悶の日々があったに違いない。

   少なくとも「生きるか死ぬかの大事件」だったことは明らかだ。

   けれど追悼文には、荒川スパイ事件への彼の態度表明はスルーされた。

   「血債主義派」との闘いでの荒木dの闘いは言葉としては強調されているのにだ。

   (九州に派遣された彼の任務と役割は、後に平田派となる地方委員会への牽制などがあったらしい)

   (関西・西日本系列に、交流C政治・組織を通して介入を試みた、ということか?)

  ③転落死事件の直後から、ささやかれてきたのはこのことだ。

   あるいは、〈シロ説〉を唱えたのか?事実の全貌を求めたのか?

   荒川氏に連座させられていたのか、それとも疑いをかけられ、追及されたのか。

   沈黙を強いられたのか?

   少なくとも「スパイ事件の全容」を解明する闘いの中に、彼のNCとしての居場所は無かったことは確かに思える。

   「死」によって、多くの核たる人々の心に残りながら、実像から遠く離れ、「英霊」に祀り上げられた‥‥?

   交流C

外観

   グーグルマップで交流cの住所から検索すると、見える。



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