秦の始皇帝に言い付かり、和国へ(秦国人は蓬莱島と書いた)不老不死の薬草を求めてやってきた徐福は、事前に古代出雲王朝に許可を求めに部下を使わした。
出雲王朝第八代の主王(役職名は大名持ち)八千矛(記紀では大国主と書かれた)と副王(役職名は少彦すくなひこ)の八重波都身(やえなみつみ記紀では事代主ことしろぬし と書かれた)のもとに、徐福は忠実な部下の「穂日(ほひ)」を遣わし、多数の貢物と共に上陸と住居の許可を得たという。
ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社宮司の家系だそうである。
徐福は先進技術を携えた 多数の工人(技術者)と若者(海童と呼ばれた)を伴い
BC219年に河北省秦皇島を出航し、石見の国の五十猛海岸に上陸しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
現在の五十猛海岸は海岸線に多数の風車が回る美しい砂浜だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このビーチの前の交差点の名前は「五十猛(いそたけ)」だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この海岸の近くの小学校は「五十猛小学校」だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
JR山陰本線の五十猛駅。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
駅は無人駅で、出入り自由だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出番が終わったラッセル車の横で、満開を過ぎた山桜の花びらがしきりに舞い散っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この海岸に「和田珍味本店」の建物がある。広い駐車場があり、徐福上陸地の「神島」のビューポイントがある。また館内にも無料休憩スペースがあり、「神島」の眺められるコーナーもあり、誰でも休憩して、神島を眺められる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神島ビュースポットに立っている「神島説明看板」には、「記紀」に寄れば 徐福が息子をつれて二人で新羅からやってきたと書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しかし徐福の息子五十猛は その時まだここには いなかったのである。
上陸した徐福は「火明かり」と名乗り、出雲王朝の高照姫(第七代大名持ちの天の冬衣と宗像三姉妹の田心姫との間に生まれた姫君)を奥方に向かえ、高照姫が生まれた息子が「五十猛いそたけ」なのである。
おそらく五十猛の地名はあとから出来たと思われる。理由は徐福の父親は「徐猛じょもう」と言うので、その一字「猛」を息子につけたと言われている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここは「トルパ」ポイントでもあるらしい。(トルパとは写真を撮るパーキングの意味なのか)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このポイントから見た神島。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神島をよく見ると、ここに上陸してもそのあと どうしようもないと思える。普通に考えたら砂浜に上陸しそうなものだが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「和田珍味本店」内部の無料休憩所にはお茶のサーバーもあり、神島がここからでも良く見える。
無料休憩所とはいっても、石見特産珍味の販売店の中である。一旦店内に入れば海の幸の良い香りが充満していて、珍味を買わずにはおれない。商売上手である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
休憩コーナーに置かれた「神島案内看板」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元前219年に 秦の始皇帝からたくさんの資金と工人たち、およびたくさんの若者(海童)を
もらい受けて 徐福は 河北省秦皇島を出航して この石見の国五十猛海岸に上陸した。
この徐福上陸により、日本の歴史は激動するのである。
徐福の部下の穂日とその息子夷鳥(ひなどり)たちは、連れてきた海童たちと共に出雲王朝の大名持ち
(主王ー当時は八千矛)と少彦(副王ー当時は八重波都身)を相次いで 誘い出して幽閉し殺害する。
しかし徐福は結局和国の王ー出雲王国の国王になれなかった。
五十猛を高照姫に託して一時帰国した徐福は、秦の始皇帝に更なる資金と海童たちをもらい BC
210年に今度は 浙江省寧波(にんぽー)から 二度目に和国に船出して、佐賀の浮杯に上陸。饒速日(にぎはやひ)と名乗る。
そして宗像三姉妹の「市杵島姫」を奥方にもらい、次男「穂穂出見 ほほでみ」をもうける。穂穂出見は九州物部王家を起こすのです。
長男の五十猛は成長後丹波へ移住し、更に大和(奈良県葛城市)へ移住し、その息子「天の村雲」が初代
大和大王となる。
一方次男の穂穂出見が起こした物部王家は その子孫が2度にわたる東征を行い、長男の打ち立てた磯城王朝を倒して 大和に物部朝廷を樹立し、名実共に和国の王となるのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出雲国と石見の地図
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
五十猛海岸は、徐福(素戔嗚)の上陸により、以後の日本の歴史が大きく動くモニュメントなのである。
日本の歴史にとり、大きな意味を持つ海岸だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※斎木雲州著 大元出版 「出雲と大和のあけぼの」、「古事記の編集室」、「御伽噺とそのモデル」、「出雲と蘇我王国」、その他を参考にしました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
全体のトップページへはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー