風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

アカシアの花が咲く頃

2024年05月12日 | 「2024 風のファミリー」

 

アカシアの雨にうたれて~♪
満開のニセアカシアの花の下に立つと、そんな古い歌が聞こえてきそうだ。高い樹の上で白い花をたわわにつけていて、かなり強くて甘い香りをふりまいてくる。歌にうたわれているアカシアも、このニセアカシアらしい。いつ頃から何故、ニセなどという名称が付けられてしまったのか。花にもニセモノやホンモノがあるのだろうか。

手持ちの樹木ポケット図鑑をみたら、ハリエンジュという別名も出ていた。小さなポケット図鑑だから、詳しい説明はない。エンジュというのが日本名だとしたら、炎樹とでも表記するのだろうか。空に燃え上がるように咲いている姿は、まさに炎の樹という名前がふさわしい。その派手でおおらかな咲きようは、日本古来の樹というよりは外来樹ではないかとも思われる。

須賀敦子の本を読んでいたら、イタリアの風景の中にもニセアカシアの名前が出てきた。この樹はむしろ、地中海の風と太陽にマッチしているかもしれない。
須賀敦子はイタリア人と結婚し、日本文学の翻訳などをしながら、長くミラノで暮らしたようだ。小さな家と小さな庭、狭い生活の空間を家族が取り合ったり譲り合ったりして暮らしている。そんなイタリアの鉄道員やその家族の下層の生活が、愛情のこもった美しい文章で書かれている。

読んでいるうちに、失われた日本の古い生活なども思い出されて懐かしい。雨のなかを濡れて走る男たちの話は、傘も買えないほど貧しいので、雨が降ると濡れるしかない、といった話。アカシアの雨にうたれて~♪ などと歌っている場合ではない。
だが貧しさの中に、ちょっぴり恥じらいや思いやりがあったりする。それは須賀敦子という作家がもっている、イタリア人への熱い親近感と愛情だろう。彼女の控えめに抑えた文章をたどるうちに、自然にその世界に引き込まれて共感してしまう。

イタリアでも、いま頃はニセアカシアの花が咲いているのだろうか。須賀敦子によって書かれた生活や風景も、現代のイタリアにはもうないのかもしれない。
豊かさの時代を経験したわれわれが、いま貧しさを懐かしく思うのは何故だろうか。人々が今よりもずっと近いところで、身を寄せ合って生きていたからだろうか。それとも、貧しくて叶えられないことが沢山あったからだろうか。叶えられないということは、それだけ夢があったということで、たぶん夢ばかりが沢山あったのだ。
アカシアの雨にうたれて~♪ その先が思い出せない。

     (参考:須賀敦子著『トリエステの坂道』『時のかけらたち』など)




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