落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第20主日(特定22)説教 使命を持って生きる ルカ17:5~10

2013-09-30 11:27:34 | 説教
みなさま、
9月も今日で終わり、明日からは今年の下半期ということになります。例年ですと、そろそろ、12月の初めから始まる新しい年(教会暦による)の準備を始める時期です。でも、今年は少しゆっくりしています。と言いますのは、私事になりますが、体力的にも、頭の働きの方も、聖餐式を執行する限界を感じております。幸い、今年の夏頃からは説教に関しては椅子に座ってさせていただくことになり、何とか続けておりますが、これ以上ご迷惑をおかけすることはできないので、今年12月で礼拝奉仕の方はご辞退させていただきたく主教さまにもお願いいたしました。
来年1月からのことにつきましては、いろいろ「しなければならないこと」がまだ残っておりますし、また聖書の学びも続けたいとは思っています。体力の許す範囲で、ボチボチとやって行きたいと思っています。

S13CT22(S) 2013.10.6
聖霊降臨後第20主日(特定22)説教 使命を持って生きる ルカ17:5~10

1. 本日のテキストの概略
本日は10節の「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」という言葉を中心に考えたい。それで本日のテキスト(5~10)については、10節を理解するために必要な概略だけを最初に明らかにしておく。この箇所は冒頭に「使徒たち」という言葉が出て来るので明らかなようにイエスがご在世当時弟子たちに語られた出来事というよりも、ルカの時代の教会の指導者たちが、聖職者であることについての根拠を問うという出来事であろうと思われる。彼らは聖職団第1世が当然のこととして持っていたイエスの弟子であったという根拠がなく、一般信徒たちとの差がはっきりしない。結局、聖職者には「特別な信仰」、強くて大きな信仰があるということ意外にはない。その思いが「わたしどもの信仰を増してください」という祈りと願いになる。今日の箇所はそれに対するイエスの答えである。答えは二つある。一つは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。これはとてつもない異能を持っているようではあるが、実は「からし種一粒ほどの小さな信仰」さえあれば、可能なのだという意味である。つまり使徒たちの巨大で強力な信仰を求めるという姿勢に対して全くそれとは逆の極小で吹けば飛ぶような信仰さえあればいい。つまりイエスの答えは信仰を増してくださいと言うが、それはピント外れの要求で、信仰に大小はない。聖職者の信仰も一般信徒の信仰も同じなのだ。聖職者が聖職者である根拠を何か特別なことができる信仰に求めること自体が間違っている。これが第1の答えである。

2. 聖職者であることの根拠
イエスは続いて使徒たちに次の話をされた。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」(7-9)。
ここに描かれている主人は腹が立つ程横暴である。下僕に対する同情とか気遣いが全く感じられない。一日中、外でかなりの重労働をして帰ってきた下僕にねぎらいの言葉一つもなく、すぐに夕食の準備をせよと命じ、給仕をさせ、その後で食事をせよと言う。おまけに感謝の言葉もない。語り手は「なかろうか」とか「だろうか」という反語を付けて、これが当たり前の主従関係だということを強調している。が、それは事実なのかどうか分からない。ちょっと大げさすぎるのかもしれない。
つまり、ここで語られていることは聖職者とはこの物語でいう下僕で、この横暴な主人こそ教会だという。この主人を「神」だという読み方もあるが、よく読むとやはり教会であろう。神によって召され、神に仕え、神のために働いているのは聖職者だけではなく信徒も同様である。むしろここで問題になっているのは信徒と区別された聖職者の具体的なあり方が主題である。その意味では聖職者が仕えているのは教会とか教区という組織であり、聖職者は教会の命令に絶対服従する者である。それは軍人が上官の命令に絶対服従するのと似ている。つまりここでは上官とは軍という組織そのものを意味している。この服従の徹底度が聖職者と一般信徒との相違点である。もし聖職者に一般の信徒以上の「信仰」が要求されるとしたら、それは何か大きなことをする能力とか奇跡を起こす超能力ではなく、どこまで徹底的に下僕であるのかという度合いの問題である。もし聖職者に一般信徒にない「権威」があるとしたら、それはその人の下僕としての自覚の徹底度による。

3. 「しなければならないことをしただけです」
さてイエスはこの話を持ち出した上で、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(10)と語られた。つまりイエスはこれが聖職者の当然の姿勢であるという。実際、イエスがこういう話をされたかどうかは、他に資料がないのではっきりしたことは言えないが、なかなか興味深い。ルカがこれを書いている以上、これが当時の教会において聖職者たちに期待された姿勢なのであろう。しかしこの言葉をじっくり読んでみると、これは聖職者と教会という枠組みには収まらない響きを感じる。つまり、この言葉は聖職者と教会との関係だけではなく、神の前に立つすべてのキリスト者と神との関係を語っているのではなかろうか。
この文章においては「命じられたこと」と「しなければならないこと」とは同じ内容を示している。聖職者にとって「命じられたこと」とは教会によって命じられたことであり、それは聖職者として「しなければならないこと」である。その内容は明白で、教会の使命の達成である。それは同時に神の意志でもある。聖職者はそれを自己自身の使命として選択し決断したのであり、神の意志と教会の命令と私の願いとが完全に一致している。 聖職者が教会という組織に絶対服従するというのは、その教会の背後に神がおられるからであり、それは「私の願い」でもある。この3点が1本の直線の上に乗っている。従ってこの3点にひずみが生じたとき、人事面で問題が発生する。
しかしその点で一般信徒の場合は、教会の命令という媒介項がなく、「(私が)しなければならないこと」と考えていることが神の意志に違いないという「信仰」に支えられている。
いずれにせよ、聖職者も信徒も、それぞれ「しなければならないこと」、言い換えると「神から命じられていること」を持って生きている。それが「私の使命」である。
そのことは聖職者だとか信徒だけではなく、すべての人にも当てはまると私たちは考えている。すべての人は神から何らかの使命を与えられて生きている。その内容は一人一人異なるであろう。しかし同時にその使命に忠実に生きている人もおれば、その使命に納得していない人もおれば、それをさぼっている人もいるであろう。信仰者と非信仰者以外の人との違いは、その使命が神から与えられたものであると信じているか否かが異なるだけである。

4. 使命を持って生きる
さてここからは今日のテキストから離れるが、もう一つ重要なことを話しておく。それは、神は人間にそれぞれに見合う使命を与えるとともに、そのための能力をも与えてくださる、ということである。
神が人間を創造された時、人間をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた(創世記2:15)。これが人類に与えられた最初の使命である。「最初の」というより、この「耕すこと」と「守ること」の中に全人類が担うべき「人間としての営み」、つまり根源的な使命が込められている。
非常に面白いことはここで神は何か特別な能力を与えたという記述がないにも関わらず、人間は何の躊躇もなくその使命を果たしている。神は「野のあらゆる獣、空の鳥を土で形作り、人がそれを見てどうするか見ておられたと言う。するとアダムは何の躊躇もなくそれぞれを声を出した「呼んだ」という。目の前に出て来る物や事に名前を付けるということは大変の能力を要する。ところが人間は何の躊躇もなく、極自然に、本能的にそのもの名前を呼び、それがそのものの名前となったと言う。これが人間が行った最初の仕事である。神は人間の中に物の名前を付けるという能力を与えておられたのである。これが一つの実例、というより人間の使命と能力の根源的な関係を示している。
だから、人間がその使命を果たした時に言うべき言葉は、ただ一つ「私はしなければならないことをしただけです」と言う。


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