久しぶりでございます。
この12月、何かと忙しなく過ごしてきましたが、今年も残すところ、あと2日となりました。
戯曲執筆において何となく苦しみ、打開策として何となく始めた地元を歩く旅、そこから発展していった旧街道を繋ぐ旅…
特に旧街道では、ひとつの目標であった県境越えを果たす事が出来、ある意味達成感をもって1年を終える事が出来ます。
今回は、まだ触れていなかった県境越えについて書かせて頂きます。
県境とは滋賀県と岐阜県、そう中山道でございます。
8月に米原の柏原宿まで辿り着いたのでありましたが、その先へ向かう事が出来たのは11月9日。
柏原駅を降り立ったのが午前11時過ぎ。そこから関ヶ原を目指して東へと向かい、県境まで着た時には正午となっておりました。
この辺りは「寝物語の里」と呼ばれ、興味深い史跡も残っておりましたが、やはり旧街道を歩いて県境を越える感動は何とも言えません。
たった1本の細い溝で区切られておりました。
そして、その感動と勢いのまま関ヶ原の今須宿へと。
そこでも多くの発見をし、やがて今須峠へと。
かつては難所と言われた今須峠も、今では鉄道が通り、整備もされ、難なく越える事が出来ます。
ただ、国道21号線では味わえない昔情緒はかなりございます。
今須峠を越えて集落に入ったところで更なる発見。
こちらには、“源義経”の母である“常盤御前“の墓がありました。
何という事か“源義経”は、僕が歴史に興味を持つ切っ掛けとなった人物でございます。
感慨深いものがございました。
そして関ヶ原へ。
関ヶ原と言えば天下分け目の関ヶ原でございますが、今年の春に”もう1つの天下分け目”と言われる「壬申の乱」を巡る旅をしておりました。
その時に、中々見つける事が出来なかった「自害峰の三本杉」。
旧街道を歩けば容易く辿り着けた事を知った事も、改めて歩く事の楽しさを感じる事が出来たわけでございます。
不破の関を過ぎ、関ヶ原宿を通って関ヶ原駅に着いた時には、午後2時半となっておりました。
これにて本年における中山道は終了。
武佐宿から関ヶ原宿まで繋げる事が出来ました。
来年は関ヶ原から脇往還を北へ向かいたいと思います。
更に来年の目標としては、武佐宿から東海道への合流。そして塩津街道から敦賀へと向かえれば。
という事で、今宵はここまでにしとうございます。
この12月、何かと忙しなく過ごしてきましたが、今年も残すところ、あと2日となりました。
戯曲執筆において何となく苦しみ、打開策として何となく始めた地元を歩く旅、そこから発展していった旧街道を繋ぐ旅…
特に旧街道では、ひとつの目標であった県境越えを果たす事が出来、ある意味達成感をもって1年を終える事が出来ます。
今回は、まだ触れていなかった県境越えについて書かせて頂きます。
県境とは滋賀県と岐阜県、そう中山道でございます。
8月に米原の柏原宿まで辿り着いたのでありましたが、その先へ向かう事が出来たのは11月9日。
柏原駅を降り立ったのが午前11時過ぎ。そこから関ヶ原を目指して東へと向かい、県境まで着た時には正午となっておりました。
この辺りは「寝物語の里」と呼ばれ、興味深い史跡も残っておりましたが、やはり旧街道を歩いて県境を越える感動は何とも言えません。
たった1本の細い溝で区切られておりました。
そして、その感動と勢いのまま関ヶ原の今須宿へと。
そこでも多くの発見をし、やがて今須峠へと。
かつては難所と言われた今須峠も、今では鉄道が通り、整備もされ、難なく越える事が出来ます。
ただ、国道21号線では味わえない昔情緒はかなりございます。
今須峠を越えて集落に入ったところで更なる発見。
こちらには、“源義経”の母である“常盤御前“の墓がありました。
何という事か“源義経”は、僕が歴史に興味を持つ切っ掛けとなった人物でございます。
感慨深いものがございました。
そして関ヶ原へ。
関ヶ原と言えば天下分け目の関ヶ原でございますが、今年の春に”もう1つの天下分け目”と言われる「壬申の乱」を巡る旅をしておりました。
その時に、中々見つける事が出来なかった「自害峰の三本杉」。
旧街道を歩けば容易く辿り着けた事を知った事も、改めて歩く事の楽しさを感じる事が出来たわけでございます。
不破の関を過ぎ、関ヶ原宿を通って関ヶ原駅に着いた時には、午後2時半となっておりました。
これにて本年における中山道は終了。
武佐宿から関ヶ原宿まで繋げる事が出来ました。
来年は関ヶ原から脇往還を北へ向かいたいと思います。
更に来年の目標としては、武佐宿から東海道への合流。そして塩津街道から敦賀へと向かえれば。
という事で、今宵はここまでにしとうございます。