柳原キャンパス

美術と音楽について

柳原キャンパス第32回

2011-08-10 11:51:25 | 日記

ドビュッシー作曲 「海」~3つの交響的素描
 

 作家立原正秋は、ある随筆集の中で「夏はドビュッシーがよく似合う」と書いている(因みに、春はバッハ、秋はモーツァルト、冬はベルリオーズ)。これは書き手が立原だから納得するわけで、私のような凡人が言えば、「なんだ?『ロ短調ミサ』のどこが春だ、『夏の夜』がどうして冬なんだ」などと叩かれるに決まっている。でもまあ、ここはその是非を論じる場ではないので素通りして進もう。ドッビュッシーの「海」は夏でOK。真夏日連鎖の今月はこの曲でいく。
 最近、中山七里著「さよならドビュッシー」という探偵小説を読んだ。ある友人が、私がドビュッシー好きと知って薦めてくれたのだが、探偵ものとしてはB級だった。その一方で、演奏描写には少なからず感心させられた。我々音楽愛好家は、聴いて「いいな」と思ったり、演奏の違いを一応嗅ぎ分けたりは出来るのだが、それを書き表すのが苦手だ。中山氏は流石専門家、そのあたりは実に巧みだ。私が共感したのはラヴェルとの違いの表現だった。
 「ドビュッシーの音楽は、鍵盤を叩いていると、思い切り身体が開放されるような快感に襲われる。同じく映像との関係を重視したラヴェルは、弾いてみると奇妙に窮屈で、まるで身体を細い糸で締め付けられる感覚がある」・・・「快感」VS「窮屈」。私もかねがね、「ドビュッシーの音鎖は流動する。ラヴェルは静止する」と感じてきた。中山氏も同じ感覚だろうと思う。

 「海」は3つの楽章からなり、それぞれに標題がついている。第1楽章「海上の夜明けから正午まで」、第2楽章「波の戯れ」、第3楽章「風と海との対話」。大タイトルの副題は「3つの交響的素描」である。素描はデッサンの意味だから、海を音で描くということだ。ドビュッシーはこう言っている「私は数えきれない海の記憶を持っている。そのほうが現実よりも私の感覚にはいいのです」。ドビュッシーの「海」は、彼の心の蓄積から引き出された海だった。
 では、「交響的」をどう解釈するか? ドビュッシーは「音楽は、その本質上、厳格で伝統的な形式の中に入りこんで流れてゆけるような何ものか、ではない。音楽は、色と、リズムをもった時間とで、できている」と言う。ここに彼の音楽論の核心があるが、「形式」からの完全な逸脱を意味してはいない。「厳格で伝統的な形式に無理に封じ込めるべきではない」と言っているに過ぎない。形式そのものを壊さざるを得なくなった後年の音楽とは明らかに一線を画しているのだ。そこで「交響的」symphoniquesである。“交響曲のような”である。彼は“交響曲的な形式で”書いたのである。
 完成は1905年。マーラーはこの年までに7つの交響曲を完成させている。アルマ・マーラーが書いた「グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想」に、ドビュッシーに関する興味深い件がある。「ドビュッシーは、1910年4月、パリで行われたマーラーの交響曲第2番『復活』の演奏会を聴きにきたが、第2楽章の途中で席を立ってしまった」と。ドビュッシーにとってマーラーの音楽はあまりに異質で受け入れ難かったのだ。ドイツ的なるものとフランス的なもの、これらは感覚だから、しょうがない。ドビュッシーは、マーラーはもとよりシューベルトの交響曲にも拒否反応を示したという。“ドイツ的≒スラヴ的”だとして。だがこれは、ドイツ的重厚長大なテイストが合わなかったからで、形式そのものではない。「海」の第1-3楽章の基本リズムが、4/4-6/8-4/4という構成であるのも、古典的な交響曲、例えばモーツァツトの第38番「プラハ」に符合すると見るのは私だけだろうか。
 ドビュッシーは、伝統的交響曲の器の中に独自の感性を盛ったのである。所詮音楽は緩急の交互表現なのだから。

 ジュリーニ指揮:フィルハーモニア管弦楽団が群を抜いて素晴らしい。冒頭から音楽が活き活きと躍動する。モヤモヤ始まるべき冒頭が、活き活きしていてどうする? と問われるかもしれないが、モヤモヤ音に生命が宿っていて何が悪いか。音の一粒一粒に生命が吹き込まれている。細部にまで神経が行き届いているのに、音楽のうねりは悠揚として自由だ。繰り出される全てのモチーフがクッキリと際立ちながら音鎖として融合している。色彩感も十分でサウンドそのものもフランス的である。時折現れる東洋的ヨナ抜き主題も明快に提示される。第1楽章第84小節目、16台のチェロでと指示された“波のうねり”部分もその流動感で他を圧している。楽章全体、楽章ごとのパースペクティヴも実に明確だ。緩急強弱の対比が際立っていながらバランスは絶妙だ。音の一つ一つが生きているから、そこに潤いがあり詩がある。聴き手はドビュッシーが描いた映像と同じものを見ている、そんな気にさせられる。まさにこれはドビュッシーそのもの。録音も新しいものに比べて何ら遜色ない。稀有な名盤である。
 因みに、同じジュリーニ指揮のロイヤル・コンセルトヘボウ管94は気の抜けたビール。胸に迫るものは何もない。ところが、我が国の評論家諸氏は、こちらは取り上げてもフィルハーモニア管の方は無視だ。一体、彼らはなにを聴いているのかしら? それとも、レコード会社が自社の遺産の素晴らしさに気づいていないのか?
 ともあれ、この時期のEMIは桁外れに凄い。これは即ち、名プロデューサー、ウォルター・レッグの力量に負うところ大なのだが、そこにはレコード黎明期を形作ったフレッド・ガイスバーグの影を感じずにはいられない。伝統の底力である。 (清教寺 茜)

[究極のベスト]

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮:フィルハーモニア管弦楽団63

[ノミネート一覧]

ミュンシュ:ボストン響56
アンセルメ:スイス・ロマンド管57
マルケヴィッチ:ラムルー管59
ジュリーニ:フィルハーモニア管63
マルティノン:フランス国立放送管73
ツェンダー:ザール放送響73
カラヤン:パリ管77
デュトワ:モントリオール響89
ブーレーズ:クリーヴランド管91
マゼール:ウィーン・フィルハーモニー99