浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

毛沢東②

2012-01-01 21:23:18 | 資料

ユン・チアンという作家がいる。

1991年に「ワイルド・スワン」という自伝的著書を発表し25ヶ国で翻訳され、日本でも1993年1月に講談社から日本語訳が出版され、欧米で長くベストセラー(1200万部)となった中国人女性である。。その後2005年に毛沢東の伝記「マオ 誰も知らなかった毛沢東」のノンフィクション作品を発表した。

毛沢東の出生から死に至るまで当時の社会情勢と共に描いたノンフィクションである。毛について「青年時代に国民党に入党し、共産党に入ってからは卑劣な手を使って党を乗っ取り、アヘンを密売し、長征では軍を壊滅状態に追いやり、抗日戦争にはほとんど参加しようとせず、中国を征服すると7000万人を死に追いやった、自己中心的な良心のない人間だった」と記している。また、随所に従来の通説と異なる主張(「孫文の妻、宋慶齢は共産党のスパイだった」「張作霖爆殺事件はソ連の謀略によるものだった」など)を展開している。

また蒋介石の息子蒋経国はモスクワで人質になっていたため、蒋介石は故意に共産党軍を追詰めて毛たちを捕えようとはしなかった。

江西、延安のような第二次国共合作と国共内戦の間共産主義者に支配された地域は、恐怖による支配であり、アヘンによる収入に依存していた。彼らの主張によれば、毛は日本軍との戦いに率先して臨むことをせず、単に張国のような党内の対抗勢力を除くためだけに軍隊数千人を平気で犠牲にした。

農家に生まれた毛沢東は1949年に権力の座に就いたが、農民たちの福祉にほとんど関心を示さなかった。農業の余剰分を産業支援と反対派への脅しに使うとした毛の決定は、大躍進政策の結果としての大量殺人的な飢饉をもたらした。飢饉は中国国内の穀物不足が明らかになった時にすら穀物輸出が継続されたため、より過酷なものとなった。

毛にまつわる革命の神話に反し多くが作られた英雄話であり、瀘定橋の戦いなどは実際には存在せず、「英雄的な」横断の話は単なるプロパガンダだったと主張している。

そして橋が燃えていなかったことや戦いが激しかったという共産党の主張にもかかわらず先鋒全員が戦いで生き残ったと語っている。チアンは共産党が到着する前に橋の守備隊が退去したことを示す中国国民党の戦闘計画とコミュニケも引用している。

元米国の国家安全保障問題担当大統領補佐官ズビグネフ・ブレジンスキーはスタンフォード大における演説で、自身が小平と会話した時のエピソードに言及した。ブレジンスキーによれば、は「ええ、それは我々のプロパガンダに用いられた方法です。我々は我々の軍隊の闘争心を表現することが必要でした。実際、それは非常に簡単な作戦でした」と述べたという。

毛沢東の私生活 李 志綏 著

『毛沢東の私生活』は、毛沢東付きの専任医師であった李志綏が、1980年代にアメリカ移住後に書いた回想録。1994年に世界各国で同時出版された。この本は中国大陸本土では出版が認められていない。

 

李医師はこの著作で、毛沢東の権力絶頂期から死に至るまでの二十数年に渡る私生活を日常的に目撃観察している。毛の堕落した私生活(とりわけ性生活)、文化大革命期を中心とした中国共産党内部の権力闘争、プロパガンダのすさまじい運用(大躍進政策など)、1972年のニクソン大統領訪中前後の毛の興奮などが詳細に述べられている。
また李は、文化大革命が自身の家族に及ぼした影響、医師として診た毛自身の独特な生活態度(風呂には一切入らないなど)も具体的に述べている。

「無法無天」の形容句に恥じないセックスライフについて巷間のウワサは絶えなかったが、今回は侍医の証言だから信憑性がきわめて高い。固有名詞として登場するのは、謝静宜(文革期に北京市委員会副書記)、張玉鳳(生活秘書)、孟錦雲(生活秘書)の三人だが、性関係をもった「教養の低い」女性は「非常に大勢」であった。

「普通の人間ならあれほどの年齢になれば性欲もなくなるのだが、毛の場合は性欲を自分の生命力を測る尺度にしていた。性欲がなくなれば生命力がなくなったも同じ」 と考えてセックスに励んだというから、好色爺そのものだ。

性器の包皮が異常にかたくてめくれず入浴はしないから感染症の心配があり左側の睾丸は通常より小さく右側の睾丸にいたっては腹腔内のまま!陰嚢まで下降していなかったという。

李志綏は「毛が本当に悲しみ、涙を流す姿」を見たことがないという。 陳毅元帥の葬儀で涙を流したという有名な話を李志綏は否定する。 「あの時私は毛のそばにいたからわかるが、泣いてなどいなかった」。

「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言語を残し、著者は本書が発売された3カ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見された。また北京政府は「事実無根の書」として、事実上発禁扱いにした。

上巻p156

歳月を経るにしたがい、こうしたダンスパーティー、そしてパーティーに参加した女性の役割は私にしてからが思わず目をおおいたくなるほど露骨なものになっていった。

1961年に毛沢東の専用の特製ベッドのひとつがダンス開場に隣接する一室に移され、主席がダンスの途中で「ひと休み」できるように配慮されたのであった。私はいくども、主席が若い女の手をとり、その部屋につれこんで後ろ手にドアをしめる光景を目撃している。

 上巻p167

張は、主席の歯なみに固着した歯苔の分厚い膜や、歯の隙間にたまった食べかすを取り除くことで口中の掃除をした。

「主席、毎日ブラシで歯をおみがきになる必要があります。苔がたまりすぎです。」

「いやだ」毛は、反発した。

「私はお茶で口の中をすすぐ。みがいたことなんかないぞ。虎はけして牙をみがかない。それなのに虎の牙は、なぜするどいのか」

毛沢東の理屈は、しばしばこんな調子で飛躍する。こちらは返すべき言葉もなかった。

上巻 p191

毛沢東は、自分が発動した文革運動が、中央から地方まで多くの党政高級幹部の大きな恨みを買ったことを知った。毛沢東は、人に恨まれないならともかく、一度恨まれたらいっそのこととことん恨まれよう、という人物だった    

上巻 p429

私は、まだ毛沢東の過剰な性欲に気がついていなかったし、毛沢東が自分を捨てるのではないか、と心配する江青に対し、そんなことはないと 安心させたという主席の話を思い出しただけであった。また、その時点で、かかる問題についていえば、江青の方が私よりもずっとはっきり「現実を見抜いている」ことを 私はまだ気づいていなかった。

毛沢東の性欲は けたはずれであり、セックスと愛情は、彼にとって別ものだった。

上巻 p481

上海会議のあいだ、毛沢東は、専用列車のなかですごした。豪華なハードーン旧邸は居心地が悪かったのと、列車付きの若い看護婦とまだ関係が続いていたからだった。

相変わらず大胆に夜ごと看護婦を「錦江倶楽部」に同行した。

公安当局者は、地元のもっと有名な女優や女歌手との接見を手配したが、毛沢東は、当局の選択に少しも関心を示さなかった。女たちは、年をとりすぎているうえ口が達者で世間ずれしすぎていた。

もっと年若く、世間知らずの娘が毛沢東好みであった。そのほうが 御しやすかったのである。

 

 無知で狂人毛沢東の最大の罪は黄河や揚子江の源流を知らなかった事である。つまり黄河や揚子江はチベット高原をとりまく山脈から発している。

そのチベットに毛沢東は突然侵入を開始、その結果百万人以上のチベッ
ト人が殺され、六千以上あった寺院をことごとく破壊し、焼き払い、仏教僧を血祭りにあげていった。

そして愚かにもチベット原生林の60%以上がすでに丸裸にされてしまった。チベットにおける広い領域での森林伐採、地肌の露出によって黄河や揚子江の氾濫と破壊を引き起こし、沈殿の流出を悪化させている。

それだけではなく中国は核廃棄物をチベットに投棄、その地域でのチベット人の激しい発熱、嘔吐など不可解な死が頻発している。

それは現代においてチベットだけでなく、中国全土に工場廃棄物やゴミ、過剰な違法農薬のもたらす土地の汚染や、飲料水および地下水の致命的な汚染状態となって13億人民を蝕むことへ繋がっているのである。

実際問題において地方政府や国営企業などは、人民の健康や悪影響には全く興味を示さず、ひたすら自己の利益だけを追求し、中央政府も自己中心的な報告を鵜呑みにして国民の反発をひたすら武力で押さえつける。

 中国の未来を経済や農民の暴動で論じるより、環境破壊の見地から見るほうがより適確かもしれないが、毛沢東が国の英雄であるかぎり遅かれ早かれ中国が自滅に向かって進んで行くことに変わりがない。

日本国民は日本のメディアの隠蔽で、本当の中国の姿を知らずに来て、御用学者やジャーナリストがつく嘘を真実と思い込んできた。

毛沢東以前に消失した歴史に関する書物や文献は、文化大革命において紅衛兵などの手により決定的なものとなった。

しかも博物館などの化石まで8割が偽物という。

 スターリン 没後、国際共産主義運動の主導権をフルシチョフ と 争った毛沢東は、ソ連修正主義批判を続け、ソ連を本気で怒らせてしまう。文革がとめどない混乱を招き、内乱状態になったため、その収束のため中ソ国境の珍宝島で「小競り合い」を演出した (第一次珍宝島事件) つもりが、ソ連の復讐戦 (第二次珍宝島事件) を招き、やがてはソ連に核先制攻撃を考えさせるほどの危機を招く。

革命輸出外交で孤立していた「毛沢東中国」は、窮余の一策「敵の敵と結べ」を実行してニクソンを招請という「ウルトラ C」を演出するが、米中折衝の実務を取り仕切って国際的な脚光を浴びたのは周恩来であった。「上御一人」の影を薄くした周恩来を、「天上天下、唯我独尊」を以て自任する毛沢東は絶対許せず、以後、徹底的に周恩来をいびり抜くのである。男の嫉妬ほど怖いものはない!

 

 

 


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