らくだやはおきらくだ

箕面の駄菓子屋「樂駄屋」日記

樂駄屋、改装中

2007-05-30 00:25:29 | 駄菓子屋


 先週から懸案のリニューアルに取りかかっています。

 前にこのブログで書いたとおり、家賃を払っての駄菓子屋経営というのはかなり無理があり、毎月の赤字をどう解消するかが課題でした。駄菓子屋は趣味と割り切って多少の出費は我慢すればいいようなものですが、毎日3、4時間は店番で時間を拘束されるので、本業に費やす時間を削って、さらに出費がかさむというのは、そうでなくても寒い私のサイフが凍り付いてしまいかねない危機なのであります。ははは、いまさら何言うとんねん…ですが。

ジャーン! そこで、本業のグラフィックデザインのスタジオと駄菓子屋の合体ということを考えてみたのです。置き場所を工夫して中身はそのまま、駄菓子の陳列スペースだけを縮小して、なんとか今のコンテナにスタジオを持ってこられないか。それなら仕事しながら店番もできるし、前からやりたかった樂駄屋でのアート系教室も環境が整いそうです。畳屋さんや硝子屋さん、クリーニング屋さんなど、さまざまな職種の人たちが往来から見える場所で仕事をしていた時代のように、日常の風景として子どもたちにデザインという仕事を見てもらうこともできそうです。

 地域に開かれたデザインスタジオというのもずっとやりたかったこと。地域で活動している人たちや商売している人たちの相談に乗ったり、ミニコミ誌を発行したり…。敷居の低い駄菓子屋スタジオなら誰もが気軽に遊びに来れるやろから、これめっちゃいいかも。今をときめく南船場や堀江界隈より、子どもが叫んで駆けずり回る芝樂界隈。うっほっほ。あれ? 赤字解消のための合体策ではなかったのか…???




 そんなわけで(どんなわけか、よーわかりませんが)、先週からこつこつ改装作業をしています。お金のないところはアイデアとパワーでカバーして(パワーの方はかなり怪しい…なんせ歳が歳ですよって)、日に日に樂駄屋がかっこよくなってきてます。ほんまですって。




 先週はデッキで露天販売したりしたりしてましたが、明日の30日から駄菓子は店内で販売します。スタジオ部分の引っ越しが済むまで、しばらくどたばたしそうですが、ぜひ一度リニューアルした樂駄屋に遊びに来てくださいね。



一雨ごとに…

2007-05-15 17:35:07 | 駄菓子屋
 

「修学旅行のお菓子買いに来たで~!!」と数人の6年生がやってきました。「300円以内やから、消費税のいらん樂駄屋で買ったら、ちょっとでも多く持っていけるねん」とうれしそうです。

 「スナック菓子は粉がこぼれて乗り物を汚すから禁止やて。チョコは溶けるから禁止。ガムも噛んだんをそのままほかすヤツがおるから禁止。あれ~、あまのっち、ほんだら何買うたらええねん?」

 「スルメかな。一番くさいスルメにし~や。新幹線の中で、みんながスルメくちゃくちゃしてたらええやん。くっさいで~。車内販売で缶ビールも買えるしな」

 「なんでやねん!」

と、漫才ノリの話をしながら気づいたのは「樂駄屋を始めたとき、この子たちは4年生だったんやわ」ということ。特にこの時期の男の子たちは成長期に入っているのか、雨後の竹の子のように見るたび身長が伸びてるような気がします。あのころ確か見下ろして話をしていたのに、いまでは同じ目線。チビの私ですから、この子たちを見上げて話すようになるのは時間の問題。

一人の子に「なんか背~伸びたな」というと、他の子も「おれは?」「おれの方が高いやろ」と背比べが始まります。巧妙に背伸びする、昔ながらのセコいヤツもおります(笑)。


 「背比べ」で思い出したけど 樋口一葉が生計を立てるために駄菓子屋をやり、その時期の生活をヒントに「たけくらべ」を書いたということを最近知りました。東京は台東区、下町とはいえ2Kの住まいを兼ねた賃貸の店舗付き住宅。僅かばかりの原稿料と駄菓子屋の収入で母と妹を養っていたというのです。もともと文房具や雑貨を商っていたところが、あまりにも実入りが少なく食べていけなくなったので、友人のすすめで駄菓子を置いてみたところ、そこそこの売りあげがあり、なんとか生活していける程度にはなったとか。

 駄菓子屋稼業で(しかも家賃払って!)大人3人が食べていけるとはねえ。時代も場所も違うけど、あまりにも今の現実とかけ離れた話で驚きましたなあ。

 とはいえ、子どもたちとの毎日の生活が創作活動に役立ったというのは、なんとなくわかります。たくさんの子どもたちが毎日出入りしているのですから、感性豊かな人なら書くことに事欠かないはず。私も萱野版「たけくらべ」に挑戦してみようかな…と思ったけど、たまにしか更新しないブログでさえ、書くことに困ってるようじゃね~。うっほっほ。


 その一葉のエピソードが載っていた本で、ちょっと興味深い記述を見つけました。1893(明治26)年に大阪府豊能郡豊中村で生まれた高田光明という人が「駄菓子屋はなかったです。そらそうでっしゃろ。ここ(桜塚)がまあ50戸くらいです。豊中全部で100戸足らずです。1戸の家に5人おったってしれたもんですわ」と語っていること。一葉の駄菓子屋が繁昌していたのが1895年頃だから、だいたい同じ時期。一葉の駄菓子屋は、人口の密集した都会の下町だったから成功したわけですね。

 今では市庁舎のある桜塚も、明治の中期にはまだまだ田舎だったわけで、そういうことでは箕面のまちも負けず劣らず田舎だったんでしょうね。いつごろから箕面に駄菓子屋ができたのか…最盛期はいつごろなのか…箕面の街の「駄菓子屋の歴史」を掘り起こしてみるのもおもしろそうです。

 昔、子どもだった皆さん(子どもでなかった人っておるか?)! かつての箕面の駄菓子屋事情を教えてください。書き込みしてくれはったらうれしいです。「聞きに来い」とおっしゃるならお邪魔します!

 あっ、それから「連休中にリニューアルをするつもり」とお知らせしまたが、やっぱり段取り悪くてできませんでした。うーん、次のチャンスはいつでしょーか、




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