缶コーヒーを飲んでいる僕に、中国人がそうたずねる。
古いかばんを(いつもは持ち歩かない)をもっていくと、
それ、いくらで買ったの。
散髪して、すっきり。そんな僕を見て、それ、いくら。
目新しい靴や、洋服にいたればこれはほぼまちがいなし。
はたまた今しがた知り合ったばかりの中国人は聞く、あなた日本に帰るこれいくら。
今の時期なら、さしずめ故郷に帰るチケット代だろうか。
僕はここに、中国人と日本人の大きな違いを感じる。
日本人なら第一に、
それをいくらで買ったのかと尋ねるというのは失礼にあたるだろうし、
そもそもそういう発想自体少ないのではないだろうか。
缶コーヒーを飲んでいる友人或は同僚をみて、
あ、そのメーカーか、とか、うまいかまずいかとか思いつくかもしれないけれど、
それをいくらで買ったのか、とは思い及ばないのではということだ。
少し乱暴な言い方かもしれないが、中国人の会話の半分ぐらいは、
この、”いくらで買ったのか話”が占めていると僕は思う。
そしてそれは彼女(彼ら)の元気の源と思えてならない。
まず、AがBにそれいくらで買ったの、と口火を切る。
Bの答えにAは持ちうる知識を総動員して独自の値踏みを披露し話を展開させる。
あらゆる可能性を検証しつつも、しかしおだやかにそのやりとりは続く。
突如そこに、それだったら先週どこそこで、それの3分の2の値段で売ってたよ、
とCが加わる。
ちなみにCはまったく関係のない、たまたまバスの隣に座っているおばちゃん
(とはいえ実は35ぐらい、声が大きい、湖南省、黒い服を着ている)だったりする。
別の視点を持つCの加入により新たな段階を迎える。
Aはそれなら知っている、しかし、ここの縫い目が完全に違うなどと応酬する。
「×××××15块 钱 (円)?×××××-1块 5毛 钱××13块 5 毛钱×××
15块 钱×××××?」
「×××××××××××××××、××××××××××××、××
14块5毛 钱!!!!!?!?」
と、こんな感じで延々と”それ、いくら”会話が続く。
声は、大きい。
”マイドンシードーパミン”が宙を舞う。
缶コーヒー、4元(51日本円 2011.1.24)