KOBE Diary

神戸から、愛する人たちへ。

神戸開港140周年に寄せて―神戸が誇る「特質」とは何か <1>

2007-04-08 | Weblog
明年、神戸は開港140周年を迎える。だが、開港150周年を明年に控え隆盛のさなかにある横浜と比べ、神戸は何と沈滞していることか。それは経済だけではない。文化も、人々の心もまた沈滞しているのだ。
だが開港以来の歴史を振り返るとき、神戸には、他の港湾都市にはない誇るべき特質があることがわかる。
これからしばらくの間、神戸開港以来の歴史をひも解きながら、その「特質」を明らかにし、歴史に学ぶことで、私たちに必要なこととはいったい何なのかを明らかにしていきたいと思う。 ※写真は、神戸開港を伝える英字新聞の口絵

<1> 民衆の支持による神戸開港
1868年1月1日(旧暦・慶応3年12月7日)、神戸は開港した。これは1858年(安政5年)に締結された「日米修好通商条約」に従ってのことだが、横浜、長崎、函館が翌59年に開港されたのに比べて、神戸は約10年も遅れたことになる。
その理由は、兵庫の開港場が定まらなかったこと、朝廷の認可がなかなか下りなかったことなどがあげられる。

しかし逆に、開港が遅れることで、先に開港した横浜や長崎での問題を解決する理想的な条件が整えられたということも事実だ。

開港は、当初すぐ隣の、従来から繁栄していた兵庫津が考えられていた。
それが神戸になった理由は、兵庫津が当時2万人を擁する人口密集地で、新たな居留地建設の場所がなかったこと、神戸浜には廃校となっていた海軍操練所とそれに伴う港が一応存在していたこと、そして何よりも、神戸村など地元の商人たち「民衆」の積極的な賛成があったためと思われる。

民衆の支持という点でいえば、次のような事実が挙げられるだろう。

工事がはじまったばかりで、建物といえばガラス張りの運上所(ビロードの家と呼ばれていた)と倉庫3棟ばかりだった開港式典の当日、外国からはフランス、イギリス、アメリカ、プロシア、オランダの公使など国を代表するメンバーが参列したのに対し、日本側からは、徳川幕府の命を受けて一人神戸開港に奔走した柴田剛中(しばた・たけなか)と与力の、たった2人だけだった。
その柴田も、開港後わずか2日後の、朝廷による「王政復古」の宣言によって徳川幕府が終焉したことで、約1ヵ月後には船で江戸に逃れることになったという。

だが式典が終わり各国の兵士などが上陸すると、すぐに地元の神戸、二ツ茶屋、走人各村から繰り出した大勢の民衆が、仮装行列をしたり、工事用の荷車を押したり、当時流行していた「ええじゃないか」を踊ったりして、にぎやかに出迎えた。
 
神戸開港は、国家権力によるものという以上に、神戸民衆の支持と自発的な歓迎をもって迎えられた。開港直後も、居留地近隣の前述三村の商人たちは、積極的に貿易商品の売り込み・買い受けに関する願書を役所に提出し、外国との文化交流の端緒を開いていったのだ。
ここに神戸開港の特筆すべき原点がある。

神戸開港と同時に建設が進められた居留地は、約500m四方(約25万7000㎡)で、横浜に定められた居留地の約7分の1という狭さであった。
現在の神戸市でいえば、東西は、東遊園地や神戸市役所の裏から大丸百貨店まで、南北は、これも東遊園地の南にある海岸通(当時、この道は海岸に面していた)から大丸百貨店北側までの地域に過ぎない。

しかし当時は湿地と田畑だけだったこの地域に建設された居留地は、以降、横浜とともに、西洋文化の摂取、東西文化融合の拠点になっていったのである。

西洋文化の摂取という面から見れば、開港直後の1869年(明治2年)には、現在の元町に、初の西洋料理店・牛鍋専門店が誕生している。
1882年(明治15年)に出版された『豪商神兵湊の魁』というガイドブックには、「牛肉缶詰製造所」や「印度産加琲(コーヒー)」「西洋イステイブル家具製造所」「洋服仕立所」「洋紙売買商」「ヨーロピアングッズ」「西洋薬種」「散髪店」「靴製造所」などの看板がずらりと並んでいる。また、外国に日本文化を輸出するための、「宇治製銘茶」「加賀九谷焼捌売所」なども見られる。
 <以下、次号>

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