KOBE Diary

神戸から、愛する人たちへ。

「大野えり」というMuse

2007-03-26 | Weblog
横浜の「BAR BAR BAR」で、久しぶりに大野えりのジャズを聴いた。
数年ぶりだったろうか。
彼女は昨年、ニューアルバム「Seet Love」を発表。それこそ久しぶりのアルバムだったが、そのCDを聴いた夜、ぼくはあまりの興奮に眠ることができなくなった。
タイトルの「Seet Love」にはじまるそれは、「In Time of The Silver Rain(春の雨)」、「Bird's Song(歌えよ鳥)」、「Walkers With The Dawn(光の中へ)」、「La,La,La, You Are Mine(愛の歌)」と、その大半を大野えり自身が作詞作曲したものだった。
しかもニューヨークでの録音、トランペットでも参加している大野俊三がプロデュースするなど、超一級のジャズメンがサポートしたアルバムである。
もちろんぼくが興奮したのは、そうした演奏だけではなく、はるかに空へと突き抜ける大野えり自身の歌に対してであった。
彼女はそのすべての録音を、テイクワンでクリアしてしまったという。

何よりもその歌を、生で聴きたかった。

ちいさなステージにもかかわらず全身全霊を傾けて歌うその姿は、聴く者を圧倒した。本当にいい音楽の前では雑念なんぞ、チリとなって吹き飛んでしまう。
少し熱が出ているといいながら、「声は大丈夫でしょ」と自信ありげに微笑む彼女。
その笑顔も腕も腰も超一級のパフォーマーそのものであったし、少し緊張気味の若い日本のジャズメンたちの情熱を引き出しながら、それらを歌のパワーのもとに統御し、まとめ上げていく。
それは「才能」なんてありふれた言葉じゃ語れない。もっと強靭な、才能さえ超えた、精神の力だ。

ジャズっていうのは、こんなにも「人間の歌」「魂の歌」だった。まるでBJMのように、食事の前菜を楽しむように聴こうとする者には、本物のジャズはいらない。二流のジャズを聴いていればいい。

「ありがとう」と、ぼくは大野に何度も言った。それ以上は語れなかった。ぼくたちは抱き合って別れた。本物の歌の後に、それ以外の何ができるだろう。

ぼくは思った。
年齢を重ねることは、こんなにもステキなことなんだ、と。
苦しみや絶望を超える力を歌は持っているし、そんな歌こそが聴くものに力を与えるのだ、と。
すべての困難を、哀しみを、あまりにも人間的に乗り越えていきながら、大野えりは、ますますミューズそのものとして光り輝いていくのだろう。

ジャズを語りたいのなら、まず大野えりの歌を聴くことだ。
そうしてはじめて、やっと出逢った愛しい人を抱くように、ジャズを抱きしめることができるのだ。


<大野えりライブ>
5.3(thu)横浜・関内 BAR BAR BAR / 5.10(thu)東京・青山 BODY&SOUL / 5.23(wed)東京・六本木 ALFIE / 5.26(sat)東京・吉祥寺 SOMETIME / 他
<info> http://www.e-kia.net/


タイの色・日本の色

2007-03-17 | Weblog
なぜこうも色彩が異なるのか?
3月7日までの約10日間をタイのバンコクで過ごし、ぼくはその色に酔うほどだった。
原色というのではない。赤ではなく「やや赤っぽいピンク」、青ではなく「やや淡い青」、黄ではなく「ややレモン系の黄」。すこしパステルっぽい色彩が、バンコクのつねに煙っているような空の下で、それぞれの存在をはっきりと主張していた。

けれども、帰国し降り立った朝の関西空港で、ベイシャトルで神戸空港に向かい、さらにポートライナーの中から見た神戸の風景は、青い空の下で見事なまでに白っぽいグレーに染め上げられていた。
極論をいえば、色彩はまるで「ポイントマーカー」のように使用されているだけだ。

タイと日本。その色彩感覚の差。それを感じるのは、おそらくぼく一人ではないだろう。
タイだけではない。東南アジアは概して原色に近い色にあふれている。
南だから? 光が強いから? 自然の中にもともと原色があふれているから?
それらは、もっともらしい理由のようでいて、実は少し違うのではないか。

いわゆる近代における西洋文明化の中で、とりわけ第2次大戦以前は、日本もタイも、おそらく同じような色彩があふれていたはずだ。その圧倒的多数は土の色・木々の緑色、そして人工物としての石の色だったのではないか。
建築物は、タイも日本も、王宮や寺院など特別な建物には金や赤を採用している。だが一般の建物はそうであったはずがない。
モノにペイントするのは、現代社会に入ってからのことだ。

おそらく…、とぼくは思う。
西洋文明化とは、ようするに欲望を解放する文化を摂取することだった。
その過程で、タイの文化は「パステルっぽい原色」を選び、日本の文化は「無個性な色」を選んだ。

タイ国民の60%は女性だという。そして女性の社会進出率は日本とは桁違いに多い。現実に、ぼくが出会った役職を持つオフィスワーカーの半分以上は女性だった。
そして「かわいい」という感覚が、実に日本とよく似ているような気がする。
それが、つまり「パステルっぽい原色」が街に氾濫している理由ではないか。

では日本はどうか。女性が社会に進出しているとはいえ、それはまだ過渡的な様相だ。街の色彩が女性の好む色を当然とするには、まだ時間が必要だろう。
それに何より、日本の民衆はまだ「精神的な自立」を十分果たしているとはいい難い。社会人となって、個性や差異を主張することには、まだ勇気が必要だ。

これらはまだ「感想」の域を出ないが、そうした違いが色彩感覚に現れているといえるのではないかとも思う。

尼崎におけるJR西日本の事故は、まさにそうした「精神的自立」を果たしていない日本人を象徴する出来事だった。
「人間生命の尊厳」よりも「経済効率」を優先し、心ではどこか「これではいけない」と思いつつも、企業の方針に従い続ける労働者側の精神構造。それは労使双方の問題だ、とぼくは今も思っている。
そうした精神風土に風穴を開けなければ、関西にも神戸にもルネサンスはない。
違うだろうか。

愛する神戸より

2007-03-16 | Weblog
ずいぶん長い間、東京にいた。帰ってきた神戸は、けれども何と寒空の広がる風景だったことだろうか。そこには18年間のブランクがあった。震災は東京の自宅で知った。すぐに駆けつけた神戸の街は、まるで空襲の跡のようだった。
神戸は復興したという。だが、いったい神戸の何が復興したのか。長田には真新しい住宅が展示場のように立ち並び、そして人影はない。三宮は東京ブランドが押し寄せ、ファッション都市の面影は消えた。異人館の坂を上る人々はまばらになり、ビルたちは白い肌を冬空に煙らせるばかりだ。
だがそれでも人々は生きている。ぼくもここで生きる決心をした。
神戸を愛している。だから。

崎山昌廣氏は『神戸学』のエピローグで語る。
「グローバル化、情報化とともに成熟社会化が進む21世紀における大都市間競争は文化的土壌が厚いか薄いかで決まるという。それはバブル期などに流行した大文化ホールなどのハコ物づくりではない。ハードよりソフト。文化を大事にし、文化の香りと温もりに包まれたいわゆる〝知域社会〟として大都市にしていくことだ。知的、文化的魅力に満ち溢れた雰囲気が人々を惹きつけ、賑わいを生み出す内外に幾多の成功例がある。風格と活力を併せ持つ国際文化・港湾都市を、神戸は目指していく必要に迫られている」

氏の語るとおりだと、ぼくも思う。

危機感は、現実化している。神戸は知らぬ間に没落への坂を歩みはじめている。
けれども、本当に危機意識を持って戦っているリーダーたちが、いったいどれほどいるというのだろうか。
文化力は低下し、かつては文人たちの憧れだった「進取の気風」は、どこかに消え果てたように見える。
アートも音楽も、活躍する人々には申し訳ないが、その力がない。
「神戸のホスピタリティが低下している」という、神戸以外の人々からのメッセージを知っている人は少ない。
デザイン業界が神戸では生きられない現実は、そのまま美的アイデンティティの喪失を映し出している。
在神戸外国人の数は確実に減少し、国際都市の風貌は揺らめく蜃気楼の向こうに消えはじめている。

神戸を愛するという人よ、どうかもっと血眼に愛してくれ、とぼくはいいたい。
世界を知り、神戸の現在に地位と位置を知り、何が必要で、何をしなければならないかを考えてほしい。
ぼくも、そうする。
同じ想いの人々が、きっとこの神戸にいるはずだ。
この手紙は、だから、神戸を愛するすべての人々に届けたいと思う。