Red Pianoと子どもたち

生きづらさを生きることとか

JOEと僕の少し特別な人生

2017-01-28 17:15:14 | Weblog

ここに書きたかったことはまだたくさんあったはずでした。

でももうよします。

理由は世界と自分のことを憎しむようになったからです。

精神的なテロリストはなにかを書いて発信する権利というものを放棄しなければなりません。

若い頃から私は正義の本質は時流と権力を属性とする都合のことであろうと考えて参りました。

だからいつも私は自分が正しいと思ったことの味方をしかして参りませんでした。

それはとても痛快なことではありました。

時として過重なストレスを伴うものでもありました。

これまではそれを己の性分と受け止めて参りました。

ところが驚くべきスピードで世界はどんどんばか者になって参りました。

私は品と作法の壊れた世界で今さら従順なる羊にも二枚舌の蝙蝠男にもなれずに行き場を失ってしまいました。

世界を憎しむ自分の心をいつしか深く嫌悪するようになってきたのです。







昨年の8月15日東京で55歳の男性が地下鉄のプラットホームから転落して亡くなりました。

男性は白杖をついて会社に出勤しようとしていたところだったそうです。

私の作法はこうです。

白杖をついた方の姿をエスカレーター・階段・電車の行き交うプラットホームで見かけた瞬間から,その方が安全にことを成し遂げるまで見守りをする。非常時には駆けつけて救助のお手伝いを差し上げる。そして,それが実行出来るように50歳を過ぎても俊敏性と筋力を維持する肉体の鍛錬を欠かさない。

昨年の事故当時プラットホームに人々の往来はなかったことでしょう。

男性の妻は私のとても敬愛する友人の一人であります。








昨年の6月4日私の兄が55歳で亡くなりました。

量子物理学の研究者であった兄は欧米を中心に世界各地の研究所を巡り歩き自由奔放な青年期を過ごしていたようです。

初老期を迎える頃私と同じように脳疾患を患い晩年は曇りがちな日々を過ごしていたと理解していました。

死因はひとり私だけが受け止めることとしておきます。

私たちは決して仲の良い兄弟ではありませんでした。しかし,2014年の夏を境に私たちは和解をしました。生を受けて50年という節目が二人をそのように突き動かしたのであろうといまは考えています。

半世紀をかけて私たちはとても仲の良い兄弟となりました。

長い間ずっと呼びたかった「お兄ちゃん」という呼びかけのできることを心からうれしく感じることのできた2年間でありました。

遺品整理をしながら兄のさまざまな思い出に接した私は彼の晩年が決して曇りがちな日々ではなかったことを知りました。そして,不遇な弟を想い,そのことをひた隠しにし両親にも口止めを依頼していたのです。

米プリンストン大学で博士号をとったこと,帰国してから小柴昌俊氏の招待を受けてカミオカンデの見学に行ったこと,同氏が東大や京大での教授職をなんども電話で斡旋してくれていたこと,そしてなによりたくさんの女性に愛されていたことなどです。

兄は女性達からとJOEと呼ばれていました。

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兄が亡くなる一週間前に私たちは電話で長話をしました。

話題は世界の終わりについてでした。

国益を最大の正義とする幼い思想から卒業できないばかりではなく徒に科学を進歩させながら国境線を溶かしてしまう消しゴムひとつ発明できないでいる人類など滅亡してしまったほうが鳥や虫や獣や草木や花たちは喜ぶのではないかと弟は言いました。

兄は大いに共感してあるウイルスの急速な変異による地球上からの人類のみの滅亡の可能性について言及してくれました。








私には忘れられない言葉があります。

それは15歳の頃に心を震わせながら聞いたあるドラマの少し長いセリフです。

生きる悩みを抱えながら自宅を訪ねてきてくれた車椅子の青年に主人公が静かに語ります。

助詞や単語に若干の記憶違いがあるかも知れませんがこんな感じです。

『君たちは特別な人生を生きる特別な人間だ。普通に歩ける人間たちに合わせて作られた世の中にものを言っていいんだ。もちろん,人としての節度や礼儀は必要だ。わがままを言っていいと云うことではない。だが,最低限の迷惑はかけていいんじゃないかと私は思う。それを迷惑だと撥ね付ける世の中なら,そんな世の中の方がおかしいんだ。』

53歳になった私の瞳には障害をもった方とそうではない方々で作られている世の中とのあいだの距離は驚くほど狭まっていないように映ります。

どちらの側が何を優先させてしまった結果なのでしょう。











ああ。

私は。

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