山葵の別荘

京のお山の斜面の小屋で、ときどき描いたりつくったり。
与太を飛ばすのが仕事です。

時間

2016年05月26日 20時28分02秒 | Weblog

自分の中で感じる「時間」
って、色んな種類があるのだなあと思った。

今日気づいたのは

・今このときに流れている時間
・過去の自分の記憶の中の時間
・過去に「こうであったろう」という「時代」という時間


未来の、と思ったけどそれは今の自分が考える事か。
とすると過去もそこに入るのかな。
となると、過去の時間も自分が思い返している副産物?

あ、いけない
感触から遠ざかってしまう

美しいギャラリーオーナーさんと出逢った

2016年05月22日 22時18分46秒 | Weblog
今日行ったギャラリーの美人オーナーさんの話を少し。
70代入ったぐらいかな。とても強く美しい女性だった。

野菜は、どう食べるかよね、と。
ほんとうに野菜は大事よと。

肉は、生協が週に一度やって来るからそのときに買い込む。

それでも塞がっちゃうから気晴らしに自分で運転して街中に出る。
人とたくさん話をする。

このど田舎に現代美術のギャラリーをうつしたのは6年前だそう。
それまで大阪でギャラリーオーナーをバリバリやっていたらしい。
とんでもない決断だったと思う。
旦那さんの希望で田舎暮らしを決めたそうだ。


私より二つほど上の娘さんの話、お孫さんの話、
そして配偶者がいたほうが年を経た時に自由度が高いから、それを伝えたいという事


きっとものすごくまっすぐに生きて来たのが
それは顔に出るのだなと思えた。
美しくまっすぐな顔をしている人に出逢った。


「説教にはなりたくないんだけれど」
というその話は、話す人によってはそう取られるのかもしれないのだが
あまりにまっすぐでひたすらまぶしく感じた。
話す事が嬉しかった。

しょっぱな「貴女は絵を描いているの?」
と聞かれて口ごもってしまったのがすごく残念で恥ずかしかった。
「描かなきゃダメよ。辞めたらダメ」

人に出逢って、うちのめされてなんぼ。
打たれ弱いのですぐへこむけど、
痛い痛いいいながら、人と逢い話す事はそれだけの値打ちが存分にあると思った。

五月のある日。

2016年05月22日 22時07分05秒 | Weblog
今日は、後輩の個展にいってきた。
http://galleryden-mym.com/

車かバイクでないと行けない場所で半ば諦めていたのだが
運良くピックアップしてもらえて(二度寝で遅刻したのにもかかわらず…)
車に乗っけてもらいたくさんカーブを揺られ
とても遠くのギャラリーへ。

古民家を改装したギャラリーで、
白熱灯のもと、繊細でじっくり力強い絵を観て
強くて美しい老婦人のオーナーさんに人生のお話を賜り
裏で取れたという破竹をいただき
緑と水を堪能してかえってきた。

ダムをみたり、川にも入った。

よいものにしかふれなかった。

しあわせである。
ひとと逢う事を最近避けていたけれど
やはりこれは必要だ、絶対に。

引きずり出してくれたことに本当に感謝。

いまのところ

2016年05月20日 22時28分32秒 | Weblog
絵を、
そう日常的にガンガン描いている訳ではないのだけれど

なんかちょっといろいろあって
いつもベースに有った、せめてもの「描かなくちゃ、描こう」
という気が本当になくなってしまって

さらにこころを惹かれるものもなんにもなくなって、

いまとても空っぽで悲しいんだけれど
それはそれで、今の私だと認めようとしている。

そうした中
「ならばもう、いっそそういう事から撤退しましょう」と
本気で思った時に、
思い知らない力で自分から抵抗されて吃驚した。
咆哮してぎりぎりと痛んだ。
おどろいてしまった。

そうか。それは、ほんとうに、いやなのね。私。

相変わらずまだ描く気は起きないけれど
でもどうも、本心らしい。

よくわからないけれど
自分の歩調でいこう。

誰も望んでいないし期待もしていない
義務でもない。

でも自分はそうしたいのかな、いまのところと思った。

屠る

2016年05月18日 21時03分06秒 | Weblog
母からの荷物で肉を贈られたので、
冷凍庫の扉が凍結して開かずの間になっているわたしは
いま一所懸命その消費にいそしんでいる。

スペアリブを脂落としに弱火にかけていたのだが
家中もの凄く肉臭くなってしまった。

焼き肉屋とかで肉の匂いが着くわー、いやーんというのは
皆さんがそういうので、そうかこれはエチケットなのかと思っていたけれど
実はあんまり意に介していなかった。

のですが。


肉の匂いの破壊力に今日気づいた。
大丈夫かわたし。


表と裏を開けて、換気扇を回して、ようやく気にならなくなって来たけど
思えば肉を焼くってさ

動物の屍体を切り刻んで焼いているわけだ。

お食事中の皆様ごめんね。

でもそうよね。
絶対臭いだろそれ。


肉を焼くと、くさい。

そりゃそうだ。

些細な思い入れの品

2016年05月04日 21時36分44秒 | Weblog
ふと何の脈絡もなく思い出す景色というものがある。


小学校三年生ぐらいの頃だったろうか
祖母と母と、生駒の山上からの夜景を愛でるツアーに連れて行かれたことがある。

あいにくの天気で眼下の景色はもやにかすみ、
そのツアーの参加者の間には
「ざんねんだー」
という空気がただよっていたように思う。

そんななか、お土産物やさんの店先で
ツゲの木を削った素朴で綺麗なブローチがあった。

私はそれにとてもこころを奪われて
夜景なんかどうでもよかった。

あまり、親にモノをねだる子供ではなかった私。
それなのに、ああ、これもいい、コレも好きっていってたら

「いいやん、全部こうたる」
ってツゲのブローチを3つ買ってもらった。

そのあと私はそれらを身につける事は無かったんだけれども

オルゴール(たからものはオルゴールにしまうことになっている)
にずっとしまわれて、ときおり出してみては
「ああ、これ生駒で買ったもらったんだ」と思っていた。


今も、多分実家にあるんだろうし
もし今、私が死んだとしてもそれは、
来歴もわからずしばらくはこの世に存在しつづけるんだろうなと思うと奇妙な気がした。

「みること」が

2016年05月01日 21時55分41秒 | Weblog
自然物には
もうすべてがそこにあって
それが恐ろしくて私は直視できないと今日散歩をしていて気づいた


ずいぶん長い間私は「みる」ことを恐れている
たぶんうまれてこのかた


雑貨の仕事をしていた時は他の人のつくる商品がみられなかったし
制作となると、他の人の作品を見る事がとてつもなくこわい

反射的に顔を背けている。

これを今気づいたことは大きな事だとは思うが
すごく根本的にだめで
人生一番の問題点だと思う。



情と勘

2016年05月01日 21時34分24秒 | Weblog
情に振り回されがちな自分を反芻する

他者の鋭利な反応に怯えもし、足元が揺らぐ事も多々有るが
「それ、ほんま?」
という感覚がフラットなときにも、
どうしてもぬぐえないとき、
その「違うんじゃないの」という感覚は信用に値するんじゃないかと
そんなことを思う。

わたしにとってのほんまもんは
「理由も、言い訳も必要ない」
ものだと。あらためて。

今生、どうあがいても自分の感覚を基準に行きて行くしか無い以上
(それは、もちろん異なるものを受け入れるということも含め)
自分の感覚に責任を負っていくんだなあと当たり前の事を思う。