楽しく遍路

四国遍路のアルバム

卯之町から 永長 笠薬師 三瓶神社 笠置峠

2016-08-18 | 四国遍路

 
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松葉城址の岩崖
あいにくの天気です。予報は曇のち雨。実際、その通りになりました。
松葉城址に登ることはあきらめ、卯之町から下松葉へ、旧道を北方向に歩きます。


松葉城址から宇和盆地
晴れていれば、こんな景色を見ることが出来ました。以前撮った写真です。
写真奥の山並みの、おそらく右端の辺りに、今日歩く笠置峠があります。


徳右衛門道標
旧道を行くと、満慶寺前に徳右衛門道標がありました。
   これより すがう山 二十・・・
下部が埋もれていて読めませんが、「二十里」でしょう。「すがう山」は、44番札所 菅生山 大寶寺です。


春日神社
満慶寺の少し先に春日神社があります。(前回記しましたが)、中世、南予一帯を支配した西園寺氏の氏神です。
春日の神は、中臣鎌足に始まる藤原氏の氏神です。従って、藤原北家の流れと伝わる西園寺氏も、春日の神を氏神としています。
大樹はタブノキだそうです。コケが付いている側が、(子供の頃教わったとおり)おおむね北でした。


下松葉交差点
旧道は神社の辺から向きを西に転じ、すぐ国道56号線と交差。旧道はここで一度、国道に吸収されます。従って44番へ行く遍路は、交差点を右折し、国道を北上することになります。
旧道はこの後、国道と並行したり、また吸収されたりしながら北上し、鳥坂峠に向かって行きます。

下松葉交差点
国道へ右折することなく、道なりに直進すると、その道は県道30号線となります。宇和-三瓶(みかめ)線です。西進して山にぶつかり、昭和63(1988)に開通した「新三瓶トンネル」を抜けて、三瓶町津布理(つぶり)に出ます。
「新トンネル」が開通する前は、大正6(1917)に開通した「三瓶隧道」を抜けました。隧道は現存し、国の登録有形文化財に指定されています。アーチ断面の煉瓦積トンネルです。


下松葉交差点の道標
「三瓶隧道」以前の道路事情を示す道標が、この交差点にあります。明治40(1907)建立の道標です。
  左面に、・・・ 左 八幡浜旧道、津布理道・・・とあります。
「津布理道」は、現・県道30号宇和-三瓶線のベースとなった道ですが、明治40年には、新トンネルはむろん、三瓶隧道も通っていませんから、この「津布理道」は、峠を越える道でした。隧道の上を越えたのではないでしょうか。
「八幡浜旧道」は、永長(ながおさ)-小原を経て、岩木から笠置峠を越え釜倉(釜の倉)に下りる道です。釜倉から八幡浜に出るので「八幡浜道」でしたが、道標建立の数年前、別の八幡浜道(新道)ができたので、「八幡浜旧道」になりました。


道標の建立年
交差点道標のの右面には、
  (手差し) へんろ道 八幡浜新道・・・とあります。
「へんろ道」は、前述した、鳥坂峠へ北上する道です。国道を右折します。
「八幡浜新道」は、へんろ道を4キロほど歩いて、大江という所から西に入る道です。
茂兵衛道標が建っていて、八幡浜新道への道を示しています。伊延から鳥越峠を越えて若山に下り、ここからは旧道と同じ道で八幡浜に出ます。


大江の茂兵衛道標
別の機会に撮った大江の茂兵衛道標です。「菅生山」(大宝寺)へは直進するように、「八幡浜」へは左折するように指示しています。建立年の明治31年11月は、八幡浜新道の開通年と、ほとんど同時です。
新道の峠(鳥坂峠)は、旧道の峠(笠置峠)よりも100㍍ほども低く、平成13(2001)、笠置バイパスができるまでは幹線道路でした。


JR予讃線
昭和20(1945)6月、八幡浜道の旧道に大きな変化が起きました。終戦二ヶ月前という微妙な時節でしたが、宇和島-卯之町-八幡浜間の鉄道が開通。これにより予讃線全線が開通したからです。
郷土史家の菊池住幸さんは「やわたはま峠物語」という聞き書き集(ネット閲覧可能)に、八幡浜旧道の終焉を書きとめています。・・・昭和二十年、笠置トンネルが抜け宇和島-八幡浜間に鉄道開通をみると、次第に峠を越すものはなくなった。(それでもしばらくは)、経済的理由から(乗車賃が払えず)峠を利用する者が多かった(けれど、やがて「特需景気」などもあり)、峠を越える人は「1人も」いなくなります。


宇和川
今度は宇和川を渡ります。宇和川は、肱川の上流です。大洲に出る「幹線」だったとも言えましょうか。
川を渡ると永長(ながおさ)という、宇和盆地の古くからの集落です。 


大草鞋
集落入り口の橋に面白いものがありました。大草鞋が祀られています。道祖神です。道路の悪霊を防いで行人を守護する神(広辞苑)ですが、邪霊の侵入を防ぐ塞の神(広辞苑)でもあります。
道祖神の形態は多様ですが、ここでは、大草鞋です。こんな大きな草鞋が履ける、例えばダイダラボッチ(大太郎法師)のような大人様(おおひと様)が、集落を護っているわけです。なぜ草鞋が片方だけなのか、ダイダラボッチが片目片足だから、とも言いますが、今では諸説混淆、とても分かるものではありません。


大草鞋
大草鞋は、毎年小正月に取り替えるそうです。去年のものを外し、新しい草鞋を橋に取り付けます。
去年の草鞋はどんと焼きで燃やしますが、・・・畑仕事のおばあさんによると、・・・それはワラで作っていた頃の話、だそうです。それ以上は気の毒で聞けませんでしたが、最近は合繊で作っているようで、どんと焼きには適しません。

懇祈のお札
新草鞋は、新旧の区長さん、(若い初めて役につく)年行事さんの8人くらいで作り、いったん寺に納めます。「物」としての草鞋に「神性」を込めるためです。地域住民参集の中、念仏が唱えられ、大数珠が回されるそうです。数珠は長さ15メートルといいます。
懇祈(こんき)のお札が、どの段階で授与されるのか、聞き忘れましたが、草鞋とともに、役員さんたちによって橋に取り付けられます。神も仏も俗信もが奔放に混淆した、楽しいけれど真面目な、土地の信仰です。


永長
永長は、弥生以来の古い集落ですが、道に曲がりが見えません。ほとんど一直線です。明治中期、土地改良のための耕地整理が行われた、その結果だとのことです。
「愛媛の記憶」に、次のようにあります。・・・宇和盆地における耕地整理の進展が早かった理由としては永長耕地整理組合が県内に先がけて、明治38(1905)に、・・・。
明治期、永長は先駆的に耕地整理を実施し、宇和盆地を牽引したようです。そして宇和盆地は周辺他地区に影響を及ぼしました。


永長
さらに「愛媛の記憶」は、・・・「土地改良のための耕地整理」とは、永長耕地整理組合設立の目的によると、「用排水路ノ組織ヲ改良シ湿田ヲシテ乾田ナラシメ、田越シ灌漑ヲ廃シ、交通運搬ヲ便利ナラシメル」ことである、・・・と記しています。
湿田とは、広辞苑によれば、「排水不良のため一年中水湿の多い田」を言います。収穫期でも湿田ですから、農作業はしにくく、収穫量も、乾田ほどは期待できません。
これに対し乾田は、「排水良好で、灌漑を止めると田面が乾燥し、畑にしうる田」です。田が乾燥しますから、作業がし易く、加えて収穫量も、湿田より増量が見込まれます。


田圃
「田越し灌漑」とは、上の田で使った水を隣接する下の田に落とす灌漑法で、田の面が排水路代わりになっています。水の節約にはなりますが、乾田での農法には不向きです。乾田では、灌漑を必要に応じて始め、また止めねばならないからです。
乾田稲作では、用排水路の整備が欠かせません。そのため、個々が所有する(分散した)土地を短冊形に一つにまとめ、短冊辺に沿って、用排水路と農道を建設することになります。水路と農道は、産米運搬にも役立ちます。こうして一直線の道が出来ました。
訂正:天恢さんからのコメントで気づきました。宇和盆地の整然たる田圃は、基本的には古代条里制によります。


笠置峠の方向
往古、宇和盆地は湖だったと言います。いつの頃か、肱川という排水路を見つけて、水は減りましたが、そこには大沼沢地が現出していました。
弥生時代、永長や(これから行く予定の)岩木などに住んだ人たちは、沼沢地・湿地を利用し稲作を始めましたが、それは、あくなき「水との格闘」の始まりでもありました。


弥生時代の水路
写真は弥生時代の、岩木原田遺跡の流路跡です。自然流路に手を加えて、なんとか水を制御し、利用しようとした様子がうかがわれます。
西予市教育委員会が建てた説明看板から頂きました。「水との格闘」も、看板で使われている用語です。


若宮神社
(前号で記しましたが)宇和盆地は江戸期には、「宇和3万石」と呼ばれるほどの大稲作地帯となっています。しかし湿地と格闘するという、農法の基本様態は、弥生の頃と変わっていませんでした。明治期、人々はようよう、根本からの「土地改良」に挑んだのでした。
写真は若宮神社。永長の鎮守です。少彦名命を祭神として祀っているそうですが、この神は、国づくり、開拓の神です。


JR予讃線
永長から北方向に歩いて、予讃線を渡り返します。ここからは西進します。
左方向(奥)が上りで、八幡浜方向です。笠置トンネルを抜け、盆地の外に出ます。右(手前)は下りで、卯之町から法華津トンネルを抜け、宇和島へ向かいます。
悔やんでいることがあります。雲行きが気になり、この道を、「脇目もふらず」歩いてしまったことです。


ため池
大きなため池がありました。瀧和田池だそうです。
灌漑の制御に、ため池は欠かせません。そのため、宇和盆地の周縁には、多くのため池が建設されています。たまたまのことですが、今号だけでも、四枚の写真に、ため池が写っていました。下松葉交差点の写真、この写真、笠薬師の写真、安養寺での写真です。


岩木地区
岩木に入りました。これよりは南進します。


三瓶神社
三瓶神社が見えてきました。笠置峠への入り口ですが、ここは一度素通りし、さらに南に進みます。岩木地区の南のはずれにある、笠薬師に参るためです。


案内
三枚の案内がありました。「笠置峠古墳」「笠置峠古墳 車で6分」「笠薬師」です。どうやら「峠道」への案内は、「古墳」への案内に含みこまれているようです。
これは、ちょっと残念でした。「峠道」には「峠道」の、「古墳」とは別の文化価値があると思います。


笠置バイパス
平成13(2001)に開通した笠置バイパスのトンネルです。八幡浜新道に取って代わった、現在の幹線道路です。このトンネルの上を、「八幡浜旧道」の笠置峠が通っています。


予讃線
バイパスに並行するように、予讃線が走っています。列車は、笠置トンネルから出てきた下り列車です。


笠薬師
ため池の堤防が見えます。たまたま写り込んだ、三つ目のため池です。奥が笠薬師堂です。


笠薬師
たくさんの笠(かさ)が奉納されています。
・・・薬師瑠璃光如来さま、どうか私の「瘡」(かさ)を取ってください。・・・
そう願って納めた「笠」です。皮膚に病変が顕れた人たちの、切なる願いが込められています。


笠薬師
広辞苑によれば「瘡」とは、皮膚病の総称、梅毒の俗称、です。
皮膚に病をもつと、人は病自体の痛みに加え、往々にして、差別される苦痛をも味わうこととなります。ハンセン病患者への差別は、ご存知の通りです。すでに治癒し、「患者」ではないにもかかわらず、患者として隔離され、差別を受け続けました。追い込まれ、自らが自らを隔離した人もいます。そんな中に、行き所なく、終りのない遍路に出た人がいた事実は、宮本常一さんが書き残しています。


三瓶神社
三瓶神社に戻ってきました。石段を上り、参拝の後、神社裏から笠置峠道に入ります。
三瓶神社の祭神は、阿蘇津彦命(あそつ彦命)、阿蘇津姫命(あそつ姫命)の夫婦神と、その子神、速甕玉命(はやみかたま命)です。九州は熊本、阿蘇の開拓神で、この地に移ってきた菊池氏が奉じ、この地に祀ったと思われます。


キクチ姓
菊池氏は、熊本の現・菊池市を本拠とした一族で、本家は戦国期、大友宗麟によって滅ぼされましたが、その同族は、全国に広がっています。東日本では陸奥、常陸、下野などに分布が多く、西日本では宮崎県、そして愛媛県に多いようです。
私の友人の「菊池さん」は青森県人ですが、彼は初対面の人には必ず「キクチです。チはさんずいです」と断ります。ルーツ意識が強く、「菊地さん」に対する優越感を、隠しようもなく出してしまう、面白い人です。優越の根拠はない、のですが。


三瓶神社
菊池氏は臼杵あるいは別府などから船で発ち、佐田岬を風浪の防壁としながら八幡浜に上陸、笠置峠を越えて岩木に下りてきました。
その頃このルートは、九州と四国内陸とをむすぶ、・・・今で言えば「国道九四フェリー」のような・・・幹線道だったと思われます。
岩木に降り立ち、宇和盆地を望み、新たなる開拓の決意もて、阿蘇の神々を祀ったのではないでしょうか。


三瓶神社
菊池氏の移住について、前述の「やわたはま峠物語」に、次のような記述があります。
・・・(岩木の勝光寺過去帳によると)、今から、二百年程前(18C後半)、この地方を襲った未曾有の大飢饉の為、岩木地方の里人は大方死に絶え、新しく九州地方より菊池姓を名乗る一族が移り住んだ。
飢饉の結果、大方の住人が死に絶え、そこへ菊池氏が移ってきた、この地に住む人が「総入れ替え」になったという、悲惨な事実が記されています。世に言う「享保の大飢饉」です。西日本、とりわけ瀬戸内海沿岸の被害は甚大だったと言います。


三瓶神社から宇和盆地
三瓶神社は、元々は、飢饉で亡くなった人たちが祀っていた神社ではなかったか、私はそんな推測をしています。
新来の菊池氏は、不幸にして亡くなった先住の人たちの信仰を、蔑ろにすることなく、篤く遇して受け継ぎました。社名も、菊地関連の社名に変えず、「三瓶」神社を、そのまま継ぎました。侵入者ではない姿勢を示したのかもしれません。


三瓶神社
「三瓶」については、現・三瓶町に「三瓶町名由来の地」碑があり、要旨、次のような伝承が記されているそうです。
・・・(話の内容から察して800余年前)まだ「三瓶」という地名を持たない頃の三瓶の浜に、三つの瓶と剣、鼓が流れ着きました。ホウジョウ(蜷)たちが寄り集まり、これらを陸に押し上げるので、浜人たちは、これを神器と判じ、小祠を建て、祀りました。ここに三瓶神社が創まり、この地は神社名にあやかって、「三瓶」と呼ばれるようになった、ということです。

奥殿
こうして三瓶神社が建ち、三瓶という地名が生まれたのですが、話には続きがあります。
・・・それからというもの、三瓶沖を行く舟に、遭難が度重なるようになりました。もしや三つの瓶には平氏の怨みがこもっているのではないか、そう判じた浜人たちは、小祠を、海が見えない内陸の地に遷すことにしました。というのも、遭難した舟のいずれもが、白帆をたてていたからです。白帆を源氏の旗印とみて、壇ノ浦で敗れた平氏が、海に呼び込んでいる、浜人たちはそう心配したのです。


宇和盆地 四つ目のため池
幸い遷御後は、遭難は起きなくなったそうですが、それはさておき、三瓶神社の遷御先が此処・岩木でした。剣と鼓の行方は不明だそうですが、三つの瓶は岩木に遷され、岩木・三瓶神社に祀られました。
私見では、その後、飢饉が起こり里人は絶えますが、三瓶神社は菊池氏に引き継がれ、今日に至りました。「やわたはま峠物語」によれば、三つの瓶は、4年に一度、閏年の歳、(新しい岩木の住民によって)、瓶を包む袋が新調され、50年に一度の大祭には、神輿に乗せられ山を越え三瓶に帰る、とのことです。(「やわたはま峠物語」は、昭和58(1983)頃、地元新聞に連載されたもののようです。次の大祭は昭和61だと記しています)。


霊岩山安養寺
脇から入ってしまいました。正面から入り石段を上れば、古墳の石棺石が見られとのこと。残念です。
「やわたはま峠物語」によると、安養寺の石段石は、すべて緑泥片岩で、これらは安養寺裏山の古墳石室に使われていた、とのことです。


安養寺
また「やわたはま峠物語」は、この緑泥片岩は宇和地方の産ではなく、八幡浜、西宇和地方から運ばれたものだ、と記しています。
すなわち、・・・八幡浜、宇和を結ぶ笠置峠は太古、石棺の石材を運ぶ事より拓かれた事になる、というわけです。これに従うと、笠置峠道の始まりは古墳時代の4世紀初期ということになります。


安養寺大師堂
安養寺は臨済宗のお寺ですが、大師堂があり、堂内には多数の納め札が貼られていたといいます。
それらの多くは、順打ちで出石寺参拝を目指す遍路たちが納めた札だったでしょう。当寺に札を納め、笠置峠を越え、八幡浜から名坂峠越えで、出石寺に登ったのではないでしょうか。下山は大洲(平野など)だったでしょう。


安養寺本堂
八幡浜から順打ちを始める遍路は、当寺には寄らず、出石寺方向に向かいました。しかし、一巡後、帰途には、当寺に立ち寄り、札を納めたに違いありません。これまでの無事に感謝し、残る旅路の安全を祈ったのです。



林道と交差しています。峠道は直進です。道に迷う心配はありません。


清水
この水場は、旅人、牛馬のオアシス的な所だった、とのことです。常時水温15度前後。
説明板が「笠置文化保存会」の名前で建っています。また「笠置峠古道を守る会」という名の看板もみかけました。ネット情報では「笠置峠に学ぼう会」(仮称)も、近頃発足したようです。


清水地蔵
水場の側の清水地蔵です。寛政8(1796)の寄進だそうです。



シダは刈られ、実に歩きやすく保守されています。有り難いことです。


石畳
緑泥片岩が見られます。緑泥片岩は、峠のこちら側では採れない石だとのこと。古墳建設との拘わりを、「やわたはま峠物語」は指摘していました。


古墳の窓
晴れていれば、ここから古墳が見えるそうですが、ちょっと残念。今回は古墳見学はあきらめます。
出土器の種類、発掘場所などから、権力継承の儀式が、埋葬後、墳墓上で行われたと考えられています。それは飲食をともなう儀式だったと言います。


遍路墓
権力者の大墳墓もあれば、こんな小さな墓もあります。肥後、肥前、松山、金沢などの生国がうかがえます。
これらの人たちは、万一の行き倒れに備え、埋葬用の金子を携帯していた可能性があります。土地の人に迷惑をかけないためでもあります。


遍路墓
しかし誰にでも出来ることではありません。自然石を立てただけの墓もありました。石は土地の人たちの「気持」でしょう。もう、どこの誰か、まったくわかりません。


遍路墓
もはや墓なのかどうか、それさえも分からなくなった「石」が、たくさん転がっています。大半の行き倒れ遍路は、墓の痕跡すら残していないのでしょう。


峠の小屋
「やわたはま峠物語」は、峠の茶屋について記しています。
・・・最後まで峠に茶屋を営んでいた人は、岩木の立花嶋吉、イシの老夫婦であった。・・・夫婦は、一人の往来もなくなった峠に見切りをつけ、岩木に下り雑貨屋を開いた。
夫婦は何日も、今日は来るか、明日はどうかと、旅人を待ったにちがいありません。そして、とうとう、本当にもう一人も来ないと知り、峠を去ったのでしょう。



イシさんは「私の体の半分下は笠置で半分上は釜倉じゃ」と、生前、何度もつぶやいていたと言います。
「やわたはま峠物語」は、次のようにイシさんを追悼しています。
・・・笠置峠の茶屋に嫁いで六十年、峠に生き、峠を守り、峠をこよなく愛したイシさんは、また峠と共に死んだといえるであろう。めぐり来る峠の四季、移り行く時代と共に、登りては去り去りてはまた登り来て、茶屋に休んだ多くの人々の群像を追い、イシさんの魂は今も笠置の峠に眠る。


峠の地蔵
説明板によれば、この峠にも昔、お化けが棲んでいたそうです。その抑えとして、地蔵さまが据えられました。よくあるケダノタワ譚です。
昭和初期までは、地蔵さまの前で「おこもり」や相撲大会が行われたといいます。「おこもり」は、この場合、村民一堂に会して楽しく飲食することをいいますが、元は、相撲という神事を前にした「清め」だったでしょう。
側の古株は、笠置松並木の残骸で、かつては峠のシンボルだった、とのこと。


峠の地蔵
地蔵は、寛政6(1794)、釜倉の和気吉蔵という人が願主となり、建立したものだそうです。台座は道しるべを兼ねています。
高見の地蔵さんは、顔面が切り取られています。また台座の脇、左右の地蔵さんは、頭部が欠けています。「瘡」治癒を祈願してのものです。


峠の地蔵
左右に、頭部の欠けた地蔵さんが座っておられます。
台座の文字は、私には読みにくかったのですが、
    是より北 いつし江五り     (いつし=出石寺)  
    やわたはま江 二り
    これより南 あけいし江二り十丁 (あけいし=明石寺  とあるそうです。


峠の地蔵
「瘡」(かさ)を治してくださいと切に願って、像の一部を頂戴したと思われます。お地蔵さんが持つ「力」を我がものとし、治癒を願ったのではないでしょうか。
地蔵像の一部を欠き取ったり、削り取ったりは、今日的基準では許されないのでしょうが、当時の倫理感覚では、ぎりぎり是認されていたのではないか、私はそんな風に感じています。治りたいという強い気持ちから起きたことで、他にどうする術もなかったのですから。


顔面
都内で撮った写真を数枚、ご紹介します。
この地蔵さんは、顔面が切り取られ、さらに鑿のようなもので引っ掻かれているようです。倒れたときの損壊とは、形状から、考えにくいと思います。


胸部腹部
胸部から腹部にかけて、引っ掻いて欠片を採ったように見えます。


蓮華座の窪み穴
一念岩をも通す、のでしょうか。盃状の穴がうがたれています。地蔵の前に跪き、穴に石棒や木の棒を差し込んで、祈りを唱えつつ、拍子をとりながら、何回も何回も、穴を突いたのかもしれません。その結果、得られた石粉末は、貴重だったでしょう。


牛神さま
峠にお別れし、下りにかかります。
石が組み合わさって、祠が出来ています。覗いてみると、・・・


牛神さま
右は大日如来像だそうです。左は馬頭観音像です。大日如来が牛を守護する話は、前回、仏木寺の所で出てきました。仏木寺は「牛の大日さま」でした。馬頭観音は、もちろん馬を護ります。
重い荷物を背に振り分けられ、荒い息を吐く牛馬を、ここから見守っておられたのでしょうか。この峠には、他にも牛神さまが祀られているそうですが、見落としました。


下り
快適な道です。峠のこちら側に出ると、雨は止みました。


下り
どんどん下ります。


集落
釜倉(釜の倉)です。笠置峠への登り口であり、降り口です。


道標
ふり返ると道標が建っています。
  右 山田やくし 宇之(町)
山田薬師(善福寺)は、冒頭に記した津布理道から入った山裾にあります。ですから、卯之町にも通じているわけです。
かつての山田薬師参りの人の列を、「蟻の熊野詣で」に例えた人がいます。釜倉に「出店」という字があるほどですから、そんなこともあったろうと思います。


石仏
お地蔵さんが二体と、遍路墓だったでしょうか?行人を見守っています。

道標
  右 三瓶町 三島村 二木生村(にきぶ村) 
  左 山田村 笠置村 宇和町
こんな広範囲から人が集まり、この道を通り、また広範囲に散って行ったわけです。


JR予讃線
またまた予讃線との出会いです。私は最初の駅、双岩駅で(計画ではもう少し歩くはずだったのですが)列車に乗りました。
下車駅は西大洲です。出石寺への登り口付近を散策しました。そのことはまた次回に。



ご覧いただきまして、ありがとうございました。私がこの道を歩いたのは、枯雑草さんの笠置峠遍路行記、「四国遍路の旅記録 平成26年春 その2」に触発されたからでした。よいきっかけを与えていただいたことに、感謝です。旅人の足音、吐息が聞こえてくるような、すばらしい旅記録です。ぜひ(未だでしたら)、ご覧になってください。
書きながら、「やわたはま峠物語」を残している菊池住幸さんに、感謝し続けていました。どうやら私と同年らしいのですが、菊池さんが「やわたはま・・」を記された年齢の自分を思うと、ちょっと恥ずかしい思いではあります。
次回更新は、9月15日の予定です。この頃、いくらか涼しくなっていればいいのですが。皆さま、熱中症など、お気をつけてください。

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4 コメント

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笠置峠 (枯雑草)
2016-08-20 16:38:44
楽しく遍路さん。こんにちは。
私の遍路日記の紹介」までしていただいてありがとうございます。
歴史や古くからの風習に関する知識、周到な調査に裏打ちされた記録には説得力があります。
私の彷徨し、ただ眺めただけの紀行とは大違いです。
でも・・伺った峠の佇まいも、顔なし地蔵のぬ姿も変わらず、それは懐かしく思い出せていただきました。
最後の写真。峠の小屋に楽しく遍路さんの笠が置かれている・・私はこんな写真が好きです。
ありがとうございました。
Unknown (楽しく遍路)
2016-08-21 11:39:29
枯雑草さん。 ありがとうございます。
笠の写真、(たまたま笠を置いてあっただけなのですが)、あの時、あの場が思い出される写真として捨てがたく、巻末に押し込んだという次第でした。そんな一枚だっただけに、目にとめていただいたこと、とてもうれしいです。
枯雑草さんがブログに添付されている遍路(旧道)地図、笠置峠ではもちろん使わせていただきましたが、とても役立ちます。今後も行く先々で使わせていただき、貴足跡をたどりつつ、私もまた、できるなら「彷徨」したいと思います。これからもよろしくお願いします。
🎵ちんからホイ ちんからホイ  ちんから峠の おウマはホイ! (天恢)
2016-08-21 22:26:39
 旧盆が過ぎて、「風立ちぬ」の季節がやってきました。 涼しくなるのは有難いのですが、何となく秋は物悲しさを感じます。 今回も「卯之町から~笠置峠」まで楽しく読ませていただきました。

 さて、今回の舞台は卯之町から笠置峠を越えて双岩までの距離的にはチョットですが、この道筋には人間がどうしても逃れられない四苦八苦の苦しみも凝縮されていて、短くとも読み応えがある内容でした。 

 先ずは、三間盆地もでしたが、宇和盆地を航空写真で見るとそれ以上に整然と碁盤目状に区画された田畑を見ることができます。 明治期に先駆的に耕地整理を実施し、周辺地区にも影響を及ぼしたとのこと。 事業に携わった先人の方たちのご苦労が偲ばれるのですが、山頭火は「まっずぐの道でさみしい」と詠っていますし、宮本常一さんは「これは確かに進歩であるが、昔の人が苦労して、造り上げてきたものを完全に抹消してしまった」と、嘆かれるかも?
 次に、200年以上も昔にこの地を襲った大飢饉で先住者が死に絶えて、その後九州熊本地方から移住してきたという信じられない奇なる実話。 その大飢饉の原因は、この地の溜池の多さから大干ばつと勝手に解釈したら、事実は多雨による洪水とウンカやイナゴによる虫害とのこと。 異常な自然現象による過酷な大被害と人智を超えた人の運命を思い知らされます。
 そして、「笠薬師」や「峠の地蔵」や「永長の大草鞋」にも民衆の切なる願いや素朴な信仰が見えてきます。 『どうか私の「瘡」(かさ)を取ってください』、そう願って奉納された「笠薬師」のおびただしい「笠」。 顔面が切り取られ、頭部が削り取られた「峠の地蔵」さま達は、皮膚病に苦しむ人たちが何とか「瘡」(かさ)を治したい一心で、他にどうする術もなく像の一部を頂戴したとのこと。 あれもこれも、「生老病死」からどうしても逃れない人間の哀しい定めや所業を痛感する次第です。

 さてさて、タイトルの「🎵ちんからホイ ちんからホイ ちんから峠の おウマはホイ!・・・」ですが、今回のブログで紹介された「笠置峠で、最後まで茶屋を営まれた老夫婦の物語」を思い浮かべてのことです。 八幡浜から卯之町を最短で結んだ笠置峠は、藩政時代から人馬の往来も盛んな本街道で、峠の茶屋も2軒もあったそうで、往時の賑やかさが偲ばれます。 この「ちんから峠」で歌われたようなお馬さんも元気に峠を行き交ったことでしょう。 
 それが、トンネル開通後は往来者も途絶えて、やむなく茶屋を閉めるくだりですが、「楽しく遍路さん」は『夫婦は何日も、今日は来るか、明日はどうかと、旅人を待ったにちがいありません。そして、とうとう、本当にもう一人も来ないと知り、峠を去ったのでしょう』と描写されています。 時代の波に翻弄された老夫婦の哀しい結末は身につまされます。
 でも、この老夫婦にとっては、笠置峠の茶屋の仕事=旅人との交流が本当に好きで、生き甲斐だった、人生の全てだったと思います。 この茶屋で旅人たちとの間で繰り広げられた、しばしの「出会いと別れ」がどんなに温かく、素晴らしかったか。 そんな思いの結実として表現されているのが、「それほどに、人の心に思いを残す峠道とは・・」と、枯雑草さんの言葉です。
♪お猿のかご屋だホイサッサ (楽しく遍路)
2016-08-23 14:16:04
天恢さん、ありがとうございます。
コメント拝読し、気づかされたことを補足、訂正させていただきます。
まず訂正です。宇和盆地の整然たる田圃は、明治期の耕地整理に依ること大ですが、その前に、古代、条里制が施行されていたことを、記し忘れました。山頭火さんが「まっすぐ」をさみしいと感じるのは、そこに権力の無表情を見てとるからでしょうか?

次に追加です。「やわたはま峠物語」に出てくる飢饉は、(お気づきのように)世に言う「享保の大飢饉」でした。このことを言及し忘れていました。
享保の大飢饉は、江戸期の数ある飢饉の中でも、最悪だといわれています。春の多雨から始まり→長梅雨→冷夏→今度は一転して、猛烈な残暑→日照りが続いた、といいます。結果、稲虫が大発生し、西日本とりわけ瀬戸内海沿岸は、大凶作にみまわれました。西日本の凶作は関東、東北をも巻き込んで「打ち壊し」なども惹起。餓死、飢餓は全国に及んだといいます。
前にコメント欄で交わし合ったことがあるサネモリサン(斎藤実盛)の虫送りは、実にこの時、各地に広がり、根づいたともいわれています。それほどに虫害は猖獗を極めたのでしょう。ある研究に依れば、損毛率8割に及ぶ地域もあった、といいます。農民たちは連日連夜、松明を燃やし、鉦をたたき、太鼓を打ち、サーネモリを連呼したにちがいありません。

懐かしい唄をタイトルに選んでいただきました。
ある小さな場面を思い出しました。小学校の何年生でしたか、歌が上手な近所の友達が「ちんから峠」を学芸会で独唱。その美しいボーイソプラノが絶賛されました。その時、私を含むその他大勢の男子たちは「お猿の駕籠屋」を合唱。もちろん拍手はもらいましたが、絶賛はされませんでした。
よく言えば子供心が傷ついたからでしょうか、有り体に言えば器が小さいからでしょう、こんなしょうもないことを、まだ覚えていました。残念ながら、ボーイソプラノの彼、今はもう惚けて、なにもわからなくなっているのですが。
風立ちぬ・・・。

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