ヒーリングデザイン@メモ

スッと抜けていくそよ風、電気を消して気づく明るい月あかり、ぬくぬく日だまりの縁側。安心して暮らせるヒーリング空間つくり

都市の森林1

2006-07-21 | スローライフ
<文明の崩壊>ジャレド.ダイヤモン 著 の中で徳川幕府の解決策 の記述の中になぜ日本の江戸時代社会が崩壊しなかったかについて分析している。ドイツの新しい森林管理手法(1800年頃) によって増えてきた森林面積以上に科学的手法を用いて完全なトップダウン方式によって森林管理をしてきた事実については多くのヨーロッパ人が気づいていないといっている。
 考えてみると以前読んだ本の中で以下のような内容が紹介されていたことを思い出した。徳川家康が何故江戸に幕府を築こうとしたのかそのわけと文明の崩壊の共通する内容があるように思います。

 以下概要 奈良時代 奈良盆地の平城京には10~15万人の人口があって、今とは違ってエネルギーは他から持ってこれないから付近の立木を使わなくてなならなかった。立木の消費率は一人当たり一年間に最低10本といわれているので、年に100~150万本の木が必要でそれが1600年の関ヶ原の戦いの頃には京都に40万人大阪に40万人の人口がいたすると年間800万本からの木が必要でこれは関西圏だけからすると木の自然再生能力を超えてしまっていた。その状況は頼朝の時代には始まっていて、木がなくなれば山が荒れ、保水の能力のない川は氾濫は常に起き、渇水も常に起き、都市には疫病、飢饉など都市の病が蔓延する状況が定常化していたと推測できる。
これでは新しい都を関西地区につくることはできないと考えた家康は当時は湿地帯であった処女地江戸の目を付けた、利根川の流れを家光まで3世代に渡って江戸湾から太平洋に流れ出る大工事を行ってやっと湿地帯から抜け出した江戸は世界一の人口を養える都市にまで発展した、当時の人口200万人一人当たりのエネルギー消費量 立木20~30本という膨大な量がまかなえ400年モノ長きにわたり続くことができたのは自然管理(立木一本首一つといわれた)の徹底と都市は自然と一体だという事が理解されていたのだからだと考えられる。

このことは現在よりも当時は遥かに環境論を理解していたのだと思うのです。
従ってそのことを確かめたかったののですがやむを得ません。次回にきっと念願達成と固く心に誓って帰ってきたのです。