ヒーリングデザイン@メモ

スッと抜けていくそよ風、電気を消して気づく明るい月あかり、ぬくぬく日だまりの縁側。安心して暮らせるヒーリング空間つくり

三軒茶屋大道芸

2005-10-24 | スローライフ
今日,昨日は三件茶屋の大道芸大会があった。久しぶりの秋の快晴の中で、クラシック演奏、ジャズ演奏、などの音楽演奏系。一輪車、火を噴く男、空中ブランコなど曲芸系、マイムなどの演劇系 様々な芸人の芸と周りに展開されている、様々な店舗など久しぶりに三茶の町が多くの人いる楽しい意表を見せていた。町に活気があふれることはこんなにも心に豊かさと充実感があるものだなと改めて感じた。
子供の頃は神社のお祭りや空き地にやってきたサーカス団など何となくまちに非日常を提供してくれる何かがあって、それを子供心にわくわくしながら、見に行ったりしたものだったが、いつの間にか、お祭りもどこに行っても同じような店があったり、まちもどのまちも変わらない表情を見せてきてた。そこへ嘗て横浜に行ったとき偶然野毛の大道芸大会に出会ってしまった、そこでは昔わくわくしたような様々な出し物やお店が町中に散らばって,輝いていた(そこで手づくりのオカリナを買ったのを覚えてる)その大道芸大会も直港未来の超高層ビルの中にないってしまって、芸人も元気なく、見る人も仮面ライダーショウの変わり種的にとらえているだけで全く活気のない形になってしまった。
やはり、大道芸は道と一緒でなければなー、町の中の風景でなければ大道芸でも何でもない、ただのショウになってしまうのだ
その後インドでは常にどこでも大道芸があり、常に人々がたかっていたり、していてびっくりの連続、ドイツでも日曜日などは世界各地からやってきた芸人たちがなんとか大会ではなく、全く日常の風景としてあちらこちらで芸を披露して(こちらは音楽芸が多かった)いて、昔の映画などでは江戸の町に結構たくさんの芸人たちが出てくるような場面があったりしていて、日本はやっぱり、娯楽が町からきえてしまったのだなーと考えていた。
三茶の大道芸は確かに自然発生的なものではないが、嘗てのわくわく感を与えてくれる大きな要素だったなーということを思い出させてくれた 収穫の一日だった。
写真は子供たちが(不思議なことに)<カベヌリ>といって人気のあったストリートパホーマー(ガンジス、インダス,ドーダス)のパフォーマンス。笛吹きおじさんのように子供たちをそのまま連れ去っていくような不思議な雰囲気をもった芸。

久々 京都

2005-10-11 | スローライフ
京都行ってきました。デザイナーズウイーク東寺会場の設営を終えてすぐ帰ってきました。
なぜ日本の都は奈良→京都→鎌倉→江戸 と変遷してきたのか <土地の文明>竹村公太郎 著を読んで以来、興味があって調べていたので、京都はとても行きたかったのですが、そんな暇もなく、直行直帰の典型でとても残念でした。氏の記述では<
奈良時代 奈良盆地の平城京には10~15万人の人口があって、今とは違ってエネルギーは他から持ってこれないから付近の立木を使わなくてなならなかった。立木の消費率は一人当たり一年間に最低10本といわれているので、年に100~150万本の木が必要でそれが1600年の関ヶ原の戦いの頃には京都に40万人大阪に40万人の人口がいたすると年間800万本からの木が必要でこれは関西圏だけからすると木の自然再生能力を超えてしまっていた。その状況は頼朝の時代には始まっていて、木がなくなれば山が荒れ、保水の能力のない川は氾濫は常に起き、渇水も常に起き、都市には疫病、飢饉など都市の病が蔓延する状況が定常化していたと推測できる。
これでは新しい都を関西地区につくることはできないと考えた家康は当時は湿地帯であった処女地江戸の目を付けた、利根川の流れを家光まで3世代に渡って江戸湾から太平洋に流れ出る大工事を行ってやっと湿地帯から抜け出した江戸は世界一の人口を養える都市にまで発展した、当時の人口200万人一人当たりのエネルギー消費量 立木20~30本という膨大な量がまかなえ400年モノ長きにわたり続くことができた>という指摘がとても新しい考えと思ったのです。
それというのも<森の学校>で奈良井に行って木曽美林のなかに入っていろいろな木を守ろ為の方策を教えてもらった事とつながってきたからです。自然管理(立木一本首一つといわれた)の徹底の考えは 今で言う都市と森は一体だという事が当時の施政者は歴史の中から学んで理解されていたのだからだと考えられるからです。
このことは現在よりも遥かに環境論を理解していたのだと思うのです。なぜ今より情報が少ない時代にそれができたのか、そして徹底できたのか?そこの始めの出発点に京都、奈良があったのですが今回はとても無理でした。
次回にきっと念願達成と固く心に誓って帰ってきました。