生長の家創始者 谷 口 雅 春 大聖師
維摩はすばらしいですね。
例えば“国家を救おう!”という気持は、それはある意味から言うと煩悩である。 しかしそれは“私”の願いではない。 それは“自分”が動いているのではない。 宇宙に満ちているところの真理が動き出す。 また一人一人の内に在るところの仏性が動き出す。
仏性が動き出して、そして “人類を救わずにおれない” “国家を救わずにおれない” という動きがそこに現われて来て、自らそこに 生長の家学生会全国総連合 〈生学連〉 というのが現われ、全国学生自治体連絡協議会というのが現われ、そして今、全学連が暴れているようなこの険しい世界の中においてですね、それらの暴れる有様を自ら静かなる真理を導いていくというようにするのが、これが維摩の説いているところの本当の 「煩悩を断ぜずして煩悩自ら浄まる」 ということになるわけなんです。
それで、維摩は次のように言っている。 テキストの 『維摩経解釋』 の108頁の終りから4行目です。
『寂然のみなるが座禅ではない』
寂然 ・・・ 寂というのは静寂の寂です。 茶道の極意の 「和敬静寂」 の寂。 それで 「寂然のみなるが坐禅ではない」 というのは、静寂に、すなわち寂としてこう坐っているだけが坐禅ではないのである、と言われたのであります。
『 ・・・ 坐禅というと静かに坐して、林の中か山の中に籠って実相を観じている。 それだけが坐禅かと思ったらそれだけではないのである。 ・・・ 「或は縄をもって相手を縛し」 ・・・ 』 とテキストには書かれていますが、 このような不動明王の姿、働きも出てこなければならないと言うのであります。
本当の坐禅のところからは、 「或は縄をもって相手を縛し」 という不動明王の姿も出てこなければならないが、 「或は剣を出して相手に擬し、而も尚不動寂然なるが坐禅である」 といった姿も出て来なければならない。 ―― 素晴しいじゃないですか、今こそこういう坐禅が日本を救うために必要であると思うわけなんであります。
「或は剣を出して相手に擬し、而も尚不動寂然なるが坐禅である」 ・・・ 不動明王というから、名前が不動だからちっとも動けないかと思ったらそうじゃないのであって、一方の手には剣をもち、一方には三ぞう半の縄をもって自由自在である。 縛るべきものは縛り、殺すべきものは必ず殺し、断ち切るべきものは断じて断ち切る。 これが不動明王の自由自在の姿である。 是が本当の坐禅の姿である、というのであります。
これを、ときどき間違う人がある。 丁度、舎利弗が “ただ坐っておるのが坐禅か” と思っておったら、そうしたら維摩に遣り込められたように、生長の家の信者の中にも、
「生長の家は一切大調和であるから、大調和であるなら、殴られても何もしないでお辞儀をしているのがそれが生長の家ではないか」 と、とり違える人がある。
生長の家が生政連 〈生長の家政治連合〉 という政治結社を拵えたのも、宗教はただ道場で道を説いたり坐禅をしたりしているだけが宗教ではないと考えるからであります。 人間を救うためには、政治が動かなければならない。 法律が一つ変わると、三百万人の胎児が毎年殺されて 〈堕胎されて〉 いるのが、その中の3分の2位 〈2百万人位〉 は助かる。 それが分っていながら、「宗教は汚ない汚ない政治界に進出すべきものではないのである」 と言ってじっと坐禅だけをしているようなのでは、これは本当の宗教ではないのであります。
吾々の代表を議会に送って、優生保護法で 「いつでも堕胎してもいいのである」 などというような現行の法律を無くしてしまって、多くの幼い生命を助けてやろう! と動き出すのも、坐禅であるというわけであります。
『 ・・・ 相手を自由に不動明王の縄をもって捕縛する。 斬るべきものは斬り、捨つべきものは捨てて、取るべきものは取る、相手に従って自由自在である。 これが本当の大調和である。 大調和といったら何でもお辞儀をして、無抵抗でいるのが大調和かと思ったら必ずしもそうではない。 大調和というのは、その時その場の主人公になることである。 ・・・ 』
禅宗の言葉に 「随所作主」 という言葉がありますね。 大調和こそ 「随所作主」 即ち所に随って、どこへ往っても自由自在に自分が主人公となるのであります。 自分が主人公にならなければ駄目なのです。 奴隷となってはいかん。 環境の奴隷になったり、制度の奴隷になたり、あるいは、正しいようだけれども、道徳の奴隷になってもいかん。
どんなものにも縛られないで、自分の内から出てくる仏性 〈仏の本性〉 の動きのままに自由自在に動き出すのが、これが本当の坐禅であり、大調和である。
環境に支配されたり、相手に打ち負かされたりしてお辞儀しているのが大調和ではないのである。 相手の隙を見てその隙が分って、相手を叩き伏せることによって、相手を正しく導くのが坐禅であるというわけなのであります。
『維摩経』を現代に生かす 第9回 より
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