VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

『如意寶珠觀』 講義  〔2〕

2015-06-24 07:13:32 | 生長の家

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師

 
 『龍宮觀』 或は 『如意寶珠觀』 と言われる神想観であります。

 「今、此処が龍宮城である」と観ずるのでありますが、「龍宮城」と言うと、一体何処であるかと言うと、海の底であると、こう考えられているのでありますが、「うみの底」と云うのは凡てのものを生み出す根底の世界、即ち現象界のありとあらゆるものが生れて来るところの元の世界でありまして、所謂 「実相世界」 のことであります。 それを 「龍宮城」 と、こう言うのであります。 「龍宮海」 とも言う。

 この世界は「極楽浄土」と言われる世界であって、住み吉き所のゴクラクでありますから、神道の方では「住吉の世界」と言われているのであります。 

 極楽世界の御本尊は阿弥陀仏でありますが、それを住吉の世界と称える場合には、住吉の大神、或は海の底の神でありますから龍宮の大神、或は綿津見の大神、又は塩椎の大神とも言われているのであります。

 「わだつみ」と云うのは、「わだ」と云うのは海であります。 「つ」は「の」であって「み」というのは身体でありまして、海の御本体の神様であると云う訳であります。 住吉の神と言うと、その御働きの方である‘すみよき’ところの御働きを人格化してあらわしているので住吉の大神と申し上げるのであります。

 塩椎の神と言う場合には「し」というのは「水」であります。 タオルを絞るとしづくがシタシタと下に‘し’たたる、すると下が‘し’めると云う具合に皆「し」がつきますが、「し」と云うのは水の言霊でありまして、その「し」と云う言葉そのものに水の韻きがあるのであります。 「ほ」と云うのは火であります。 火は赤く燃え上がるもの、火事を「ぼや」と言う。 或は‘ほのほ’と云う、或は船の帆、麦の穂と云う。 そこで「し」は水であり陰である。 「ほ」は火であり陽である。 「つ」は‘つながり’。 陰陽のつながり結び合って一切のものを生み出すところの本源の神と云う意味で塩椎の神と、こう言われているのであります。

 そこで塩椎の神も、綿津見の神も、住吉の神も同じ神であるわけであります。 それが仏教では阿弥陀仏と申し、極楽浄土の主人公であって、無量寿国にいらっしゃる。 無量寿国とは無限の‘いのち’の国であると云うわけであります。

 ところがその龍宮城に浦島太郎が行きましたとき、龍宮海に居ったときは浦島太郎は年が寄らなかった。 即ち無限の生命の国に居った訳でありますから、何時までたっても年が寄らない。 それは時間・空間を超えている世界であります。 

 無限と言っても、一つ、二つ、三つと数える無限じゃなくってその数を超えた無限であります。 その数を超えた彼方の世界という意味で十万億土の彼方と言って、極楽浄土はその十万億土を超越したと、こう形容した訳で矢張り同じことであります。

 極楽浄土は年の寄らない無量寿の国である、そこの御主人公は阿弥陀仏であり、龍宮城と云う場合は住吉の大神、或は塩椎の大神であり、塩釜神社としても祭られているのであります。 塩釜の神様はお産の神様であるとされているのは、「しほがま」というのは「しは交む」で、陰陽が交み合わされ、結合して一切のものを産み出す神様であるからであります。 そこで生長の家を信ずる人は無痛分娩であると云う事が事実にあらわれているのであります。


 さて、今此処が龍宮城であり、極楽浄土でそしてそれが十万億土の彼方にあると云うのは決して距離の問題ではないのであって、今ここにあるけれども波長が合わなかったら十万億土の彼方である。 それで、 「吾れ今五官の世界を去って実相の世界にいる」  と云うのは、五官の世界、肉眼の世界を去って、今ここが龍宮城であると斯く観ずるのであります。

 龍宮の世界、極楽浄土の世界、キリスト教で言えば、「天国」はすがた形が無いかと云うと、肉眼では見えないけれども、実際はすがた形がある世界であります。 この肉眼で見えるような艶消しの世界ではなくて、光明燦然と輝いている所の素晴しい世界が今ここにあるのであります。

 けれども、そのうちの一部分だけを吾々の五官を通して、感じているのです。 それは丁度色彩が豊富なこの世界を白黒の写真に写して見ているような世界が現象世界であって、実物はもっと素晴しいんだけれども肉眼で見る世界はその実物の素晴しさを大部抜きにして、、影だけを見ている丁度白黒の、厚みの無い写真を見ているような世界が現象世界で、本当の世界、実相の世界はもっと素晴しいものが充満している、その有様をじっと観ずるのが  『如意寶珠觀』  であります。

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