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VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

宗教と自動車

2015-07-08 22:30:27 | 生長の家
 
                         中 林  政 吉


 宗教というものを何か堅苦しいもの、面倒くさい儀礼、窮屈なもの、しかつめらしいものであるかの如く思っている人があるかも知れないけれども、これは大変な間違いであるのである。 宗教というものは楽しむべきものであり、又楽しみ得るものなのである。 

 宗教とは生命の歓喜を教えるものであるから、宗教を生活に真に生きることができたならば、生活がたのしくなり、宗教が楽しくなるのである。 

 もし何か宗教を信じていてそこへ深い喜びが湧いて来ないとしたならば、その宗教がまちがっているか、その宗教の信じ方がまちがっているかどちらかなのである。


 宗教を自動車にたとえた人がある。 その人はいうのである。 「その自動車はのり心地がよろしいか。 もしのり心地が悪ければ、自動車の状態が悪いか、その操縦がへたであるかどちらかである。 いい自動車ととりかえて、そのあつかいを適当にすれば、のり心地は満点である。 宗教もその通りである。」  というのである。

 もしあなたの宗教が完全な喜びをあなたに与えないならば、そんな宗教は、がたがたの自動車と同じようにのり捨ててしまって、新しい宗教にのりかえればいいのである。 宗教の価値も実用主義の立場から批判されねばならないのである。 極楽へ行くというのも実用であれば現世に利益があるというのも実用である。 

 しかし立派な教であるのに、それを完全に自分が操縦することができないからというので、この宗教はまちがっているというのは、立派な自動車であるのに、運転の仕方がわからないために、この自動車は故障があって動かないといって捨ててしまうので同じである。


 何故、自分の信じている宗教でお蔭がないのか。 宗教そのものが悪いのであるか。 自分がその宗教の教の組立てをしらず、それを如何に使用すべきかを知らないがためにお蔭がないのか。 その点をよく考えて見なければならないのである。

 宗教も自動車と同じように、もっている人ともっていない人とがあるのである。 又、もっていながら、ただ置いておく人と、それを自由に乗り廻す人とがあるのである。 宗教も折角もっている限りは、それを運転して日常生活にのり廻すことが必要である。


 吾々は富をもっている。 どんな貧乏人でも多少の富をもっているのである。 それを大きくする人としない人とがあるのである。 富を増大する道は、今ある富を最大限に利用してそれを利殖することにあるのである。 そのためには富の活用法を勉強しなければならないし、実際に当って色々の場面に面して研究することが必要なのである。

 宗教も同じことである。 宗教をただもっているというだけでは、自動車のもちぐされと同じことである。 「私の宗教は祖先から真宗でございます」 或は 「私の宗教は真言宗でございます」 ・・・ 等々というけれども、さて真宗とは何ですか、真言宗とはどういう生活をするのですか、ときかれてみると何も知らぬ、ただ祖先がそういう名前の宗教を信じたというのでは、祖先が、こんな古自動車を遺産に残しておいてくれたけれども使い道がわからないというに等しいのである。

 吾々は祖先の残してくれた宗教がどんな宗教であろうとも、よくその構造を検べて見て、役に立つ部分を生かして、それを実際に活用することができるようにすることが祖先に忠実なのである。


 どんな自動車にも必ずエンジンがついているように、どんな宗教にも必ず生きて働く部分があるのである。 一ぺんも生きて働いたことのない宗教であるならば、祖先がわざわざ残しておく筈がないのである。 一度も運転したことのないエンジンのない自動車なら、そんな自動車なら古金屋へとっくに払下げてしまって、現に残っている筈がないのである。 それと同じく、今迄残っているような大宗教であるならば、どこかで生きて働いている部分がある筈である。

 宗教のエンジンともいうべき、生きて働く部分を 『真理』 というのである。 吾々はどんな宗教にも真理が存在することを信じている。 吾々は無暗に今までの宗教を破壊しようというのではないのである。 どんなガタガタの古自動車のような宗教でもエンジンを動かすように修理し部分品を近代的なものにとりかえると、かなり乗り心地よく運転さすことができるのである。

 その真理というのは人間には、仏教的にいうならば 「仏性」 即ち 「仏の生命」 が宿っているという事である。 神道やキリスト教的にいうならば、人間は神の子であり 「命(ミコト)」 であるということである。

 それをただ自動車に貼り紙して 「この自動車にエンジンあり」 と書いておくだけでは何にもならないのである。 エンジンがあるとわかったならば、それを実地に運転する工夫をするということが必要である。 それと同じように人間に 「仏の生命」 が宿っており、「神の生命」 が宿っているということがわかったならば、仏らしく、又神らしく実際に日常生活に生きることが必要なのである。 そこから宗教のおかげというものが現われてくるのである。



     『生長の家』誌  昭和24年7月号 26~27頁




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 この御文章わかりましたか? 

 中林政吉氏の名前ではありますが、
 ユニティの 『鍵シリーズ』 に収録されてますね。
 ということは ・・・

 戦後の公職追放時代のことですから
 それを探し出すのも面白いとおもいます

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