「光の泉」 真 理 先 生
〔真理先生〕
さて、神示は全篇、神の御愛の御言葉だが、それを拝読する人には、それぞれ心ひかれるところが違うだろうが、君は神示のどこに、神様の愛を一番、感じとっているかね。
〔K君〕
全篇に、愛と荘厳さがみなぎっていますが、特に好きな一節は何処かと申し上げますと、 『新天新地の神示』 の中に、 「吾れを呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくくびきを軽からしめる。 なんじ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思え。 なんじら二人ならば、われを念じて吾れと倶に三人なりと思え ・・・ 」 それから 『懺悔の神示』 の中に、 「汝らは吾が真子なればなり。 吾れ汝らと一体なり」 とございますね。 愛がひたひたと迫ってくるような御言葉。 あそこに心をいたく打たれるんです。
神様は、私たちに、「何時も私を呼びなさい、何時もお前と一緒だよ」 とやさしくおっしゃっているんですね。 その親しさ、なつかしさ ・・・ 何と表現していいでしょうか。 じっとその言葉を祈りの中で誦えつづけていると、勿体なくて涙する思いなんですね。 神は愛なりとか何とか言ったって、これほど神の愛を真実に伝えるコトバはないんですね。
神想観の中で、かく私は語り給うて下さる人格的な神を、じっと瞑視していますと、何とも言えないんですね。 生ける我が父なる母なる神様が、あたたかくここに在すという幸福感 ・・・ 魂の歓喜と妙なる充足感 ・・・ まさしく、神が今此処に生きて在ますじゃないですか。 この生ける愛の神の、我らに語りかけ給う温かき御言葉が神示そのものなんですね。
その愛の御言葉を、神想観の中で、じっと誦えながら、瞑想してごらんなさい。 静かに静かに神と対座してごらんなさいませ。 生ける神の息吹が、生ける神の鼓動がひたひたと感じられるではありませんか。 そう私は皆さんに言いたいのです。 ここに私は、神示を通して神にふれる魂の秘儀があると思うんですね。
神は知識じゃないんですね。 神は抽象的な概念でも説明でもない。 神は触れられるべきもの、体感さるべきもの、切実に如実に感じとられるべき生きてましますものだとわかったんんです。
〔真理先生〕
いい体験をしたね。 K君。 君は神示によって、確かに魂を目覚めさせられたのだよ。 君は幸せだよ、生ける神を知って ・・・ 神を体感するほどの生ける充足はないのだよ。
〔K君〕
さらに私は、神示によって、神想観の秘儀を知らして頂いたんですね。 それは、
「われ汝等に 『神想観』 という観行を教えたれば、それを為せ。 われに汲むものは常に新しき力に涸れないであろう ・・・ 」
と宣し給うているんですね。 私は今まで、神想観は毎日行じているわけではなかったんです。 やったり、やらなかったり。 それから、何か欲しいものを与えられんがために神想観するという風なところもあったんです。 事実、神想観の功徳はすばらしいので、欲するものを神様にお願いしておくと、必ず与えられるんです。 これらの体験は沢山あります。
けれども、この神示を瞑想していますと、神想観の、それはそれは深い意味がわかってきたんです。 よく神誌や御講演の中で、神想観は神授のものであると谷口先生がおっしゃる意味がわかったんです。
神想観は、神様の愛の御心が動いて、我ら人類に授けて下さったものなんですね。 その愛の御心が、 「我れ汝らに神想観を教えたればそれをなせ」 の中に、生き生きと波打っているんですね。 勿体ない神想観だと思って、神想観が一層なつかしくなったんですね。 そして、ああ、神想観は生ける神に従い愛の神と対面する行事なんだな、としみじみ実感がわいてきました。
〔真理先生〕
聖書の中のキリストの言葉に 「汝ら、我れを愛せば、わが戒を守らん」 というコトバがあるね。 むしろ神様を愛したら、神の御コトバ 〈ここでは神示〉 に無条件に従いたくなるものだよ。 君は、今、本当の意味で神様を愛し始めたのだよ。
〔K君〕
そうなんです。 今迄は、確かに自分のために神様を愛していたんですね。 ところが、今は、神様のために神様を愛する心境になりました。
〔真理先生〕
ああ、それが、とりも直さず本当の自分 〈神の子〉 を愛することなんだよ。 神はすべてのすべてだから、すべてのものを拝めるようになるんだよ。
〔K君〕
たしかに、そうです。 神様を愛するということは、神の自己顕現であるすべてのものを愛し礼拝することになるんですね。
〔真理先生〕
自分とか他人とかない、一切のものを含めた神様の立場から、そのまま凡てのものを拝み愛するんだね。
〔K君〕
近頃は、神想観をする前に、 「汝ら神想観をなせ」 の神示の御言葉を思い浮かべながら、実修に入りますと、とても楽しく素晴しい神想観が出来るようになりました。 平和な愛を深くたたえた神様のふところに抱かれて、神想観をしているみたいな境地に入れるんですね。
〔真理先生〕
神想観による霊性の開顕と神力の充足涌出とは正比例するんだよ。 神想観を怠るなよ。 神は常に見守り給うて、かく言い給うのだ。 「汝ら我が真子なればなり」 と。
『光の泉』誌 昭和38年新年号 25 ~ 28頁
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