生長の家創始者 谷 口 雅 春 大聖師
私も 『天地一切のものと和解せよ』 と云う生長の家の教を説き乍ら、人間には「理性的個性」と「動物的個性」とがある。 理性的個性は人間の実相であるが、動物的個性は、ニセ物の存在であるから、私はこれを憎むのである ―― と云う意味を書いたことがある。
これについて常に 『天地一切のものと和解せよ』 との教えを受けている生長の家誌友達から、 「常に憎んではならないと教えられているのに、憎んでも好いのであるか」 と反問の手紙を多数いただいたのである。
この場合、言葉のアヤに胡麻化されてはならないのである。 この場合、私の云った「憎む」と云う語は、興奮することでも、憤激することでも、立腹することでもない、それは 「否定する」 と云う意味である。
「動物的個性を憎む」 と云うのは 「利己的自我を否定し、厭離すること」 である。 それは「自分は利己的自我を否定する」と云うのに等しい。 或は自分は「肉体を憎む」と云っても、肉体を憎んでそれに残虐を加えると云う意味ではない。 肉体的な欲望を否定しそれを厭離することを「肉体を憎む」と云うのである。
パウロの云った「肉は益なし」と云う意味が、「動物的個性」を憎むと云う意味である。 そして私に云わせれば、「動物的個性」を否定し、「利己的自我」を否定することそのことが、人間の 『實相』 に和解することであり、‘真の人間’を愛することなのである。
『白鳩』誌 昭和22年3月号 より
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