生長の家北見教区教化部長 赤 倉 寛
昭和26年4月のこと、坐骨神経痛が再発しました。
当時、私は名寄駅の案内係として国鉄に勤務していましたが、戦時中の体力検定の際、砲丸投げの測定でギックリ腰を起したのが原因らしく、毎年坐骨神経痛を繰返して来たのでした。 それまで、医者だ、指圧だ、電気治療だと色々試して見ても、どうしても治らなかったのです。
そこで、その年は笹〇野一色総合治療所という処に毎日通って、味噌灸という珍しい治療を受けていたのでした。 (中略) たまたま治療室の隅に 『光明生活の日訓』 がさりげなく掛けられていて、それがふと目についたのです。
『吾れは宇宙の中心であり、我のみが我が世界を改善する』
私はその言葉を口づさみ乍ら、素晴しいことが書いてあるなあ、と思っていました。 一体こういう言葉を誰が書いたのであろうか、そして、この “吾れ” とは書いた人自身の吾れなのか、また、人間に共通している生命的なものを指して言っていることなのだろうかと思い、この‘吾れ’ということにひかれたのです。
笹治療師に聞きましたら、「これは生長の家の谷口雅春先生がお書きになったのである」 と教えてくれました。 私は、この先生の書いた本を読むか、お話しを聞いてみたい、それでこの歌のスランプ状態が解決出来るかもしれないと思い立ちました。
これが縁となって、翌月5月27日、名寄で開かれた田中イサノ講師の生長の家講演会に、未だ治りきらない腰をかばい乍ら杖をついて足引きずるようにして参加しました。
そして、田中イサノ先生の情熱ほとばしる生長の家の “人間・神の子、無限力” の講話に、深く感動しました。
講演会が終って、私は持参した自作の短歌5,6首を田中先生にお目にかけました。 この作品を通じて、精神面の個人指導をお願いしたいと思ったのです。 すると、田中先生は暫く御覧になって、突然に 「素晴しい青年が現われましたよ」 と周囲の人々に向って言われ、讃嘆して下さったのです。 そしてあっけにとられている私の手を握りしめ、「日本の再建のため、人類光明化のため、共に頑張りましょう」 と ・・・・
私は、参考のために聞いて見よう程度で参加したのが、思いがけない宝物に出合った如く、その場で、これこそ、日本国を再建し、世界に真の平和をもたらす偉大な御教えであると確信してしまったのです。 不思議に歓喜雀躍の想いが湧き上り、“生涯この御教えに捧げて、一人でも多くの人々に伝えながら人生を前進しよう” と決意していました。
そして講演会場を出た瞬間から何かしら体が宙に浮いた様な軽さを感じ、わが家に帰って気が付いてみると、坐骨神経痛はあとかたもなく消えて了っていたのです。
私は、短歌のスランプ状態を解決しようと思って生長の家を訪ねたところ、どうにもならなかった坐骨神経痛が消えてしまったのだから、これは儲けものをしたと思っていました。 しかしその後真理を勉強している内に判明たのです。 『信仰の活人剣』 という本に 『生命の實相』 第4巻 〈頭注版〉 の抜粋があり、“愛行の決意が病気を治す” とハッキリ書いてありました。
「 ・・・ この病気が助かったら今度こそ世の中の人のためになるために、本当の神性ある人間として働かせてもらおうと一大決心すればよいのであります。 この決心が純粋であれば、その瞬間心の世界ではもうその病気が治ってしまっているのであります。 心が変わってしまっている、心は治ってしまっているのですから、心が投影して客観化している肉体もその瞬間からめきめき快方に向かうのであります。 ・・・ 」
こうして、私は生長の家の青年会活動に飛びこみました。 (中略)
昭和47年の7月1日付で、私は道東帯広・釧路・北見教区 〈第三教区〉 担当の特務講師の辞令を戴くことになり、愈々光明化活動のプロとしての出発となりました。 その直前の6月には、プロになるための心構えを養う意味で、月始めの飛田給練成会に参加、本来性に磨きをかけ、11日からは富士河口湖練成道場で一般練成会を受け、引続き総仕上げの意味で伝道練成会 〈2泊3日〉 に参加したのです。
20名近くの伝道者はマイクロバスに乗せられ、やがて見ず知らずの街で次々に降され、決められた時間内での伝道が開始されました。 最初は3人一組で戸別訪問し、要領が判るにしたがって最後は只一人での伝道となります。 ところが、自分では一所懸命に祈っているつもりなのに、何軒訪問しても、冷たく断られる、なかなか本を買って呉れそうもない。 まさに、伝道には、過去の仕事の経歴も肩書も、信仰の深浅さえも通用しない。 ただ、私を無くすることだけでありました。
初日の終った夜に、私は静かに反省しました。 自分の祈りに真剣味が足りなかったのかも知れない。 傍に大きな犬が寄ってくると逃げ腰になったり、気になったりして、祈りはどこへやらではなかったか ・・・・
2日目からは真剣そのものでした。
訪問先では先ず標札を見て、何もかも忘れてただ、「住吉大神 〇〇家の上に天降り給いてご家族一人一人を祝福し給う。 而してこの持参した神誌・聖典がご縁となって、本当の幸せが得られますように」 と、ひたすら祈りました。
そしてそのまま訪問しますと、不思議に軒並といってよいほど、次々に本を買って下さったのです。 私にとっては、この時の伝道が最高のものとなりました。
伝道を終えて帰途についた時、天上から声が聞えて来ました。 それは 「よかったわねぇ」 という、なぜか女性言葉でした。 平和の女神様がよろこんで祝福してくれたかのように感じられ、私は、何か心に深い安らぎを覚えたものでした。
こうした数々の体験を糧に、近き将来に必ずや偉大なる輝ける神の栄光と祝福に人々が気づき、神への感謝として応え、全ての人類の幸福と平和が招来されるであろうことを確信して、今日もこの道を驀進して参ります。
わが願い産めよ増やせよ地に満てよ ひとつとなって只にぎやかに
『生長の家』誌 昭和62年新年号 より
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