生長の家創始者 谷 口 雅 春 大聖師
仏典には 「一切衆生仏性あり」 と書かれています。 これを漢字ばかりで書いたら 「一切衆生悉有仏性」 と漢字を列べて書いてある。 一切衆生 〈すべての衆生〉 は ― 衆生とは多くの人間はだ、悉く仏性あり 〈悉有仏性〉 と書かれている。
仏性ありとは仏の本性があるということである。 仏性が人間だ、人間を仏性と自覚せよ。 自覚によってこの仏性が開いたら如来だ。 如来とは真如という宇宙の本体から来り生れた真如の如という字と、“来り生れる” の “来” という字を取って、それで人間は如来だ ― とこういうように名付けられているわけなんです。
皆さんは悉くみな如来なんですよ。 何某如来なんです。 東方阿しゅく如来、西方阿弥陀如来と肩並べて、皆さんは阿弥陀如来と同列の同じ生命を有っていられるんだ。 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」 と云って 『正信偈』 と浄土真宗のお経には書いてある。
「帰命無量寿如来」 の帰命とは、帰(き)は帰する、命(みょう)は命(いのち)、帰命無量寿如来の無量寿とは無限の分量の寿命だ。 その真如から来生(らいしょう)したから、無量寿如来だ、阿弥陀如来の生命と同じに帰一することです。 吾々の命は、阿弥陀如来の生命と同じ生命なんだ。 無量寿の自分の生命をその本元に帰一せしめる。 これが帰命、帰は帰るという字です。
「帰命無量寿如来」 とは自分の生命を無量寿の本源に帰一せしめることである。 無量寿如来と云うのは阿弥陀如来のことを言う。 無限の生命で死することが無いのである。 吾々は皆、無量寿如来だ。 堅固法身の無量寿如来だ。 「帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時」 と云って、私は少年の時から称えていた。
私は少年の時、大阪で育った。 それで天満にある大きな真宗のお寺の本堂へ毎朝行って、法要の時の裃を着て威儀を正して、あの 「帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時」 とある、あのお経を唱えたもんだ。 私の義父は安藝門徒と云って、門徒というのは特に真宗の信者に限って名づけられていた。 そんな幼い時にはその意味も何もよく分らなかったが、分らないでも功徳がある。 それは “言葉の力” というものだ。
それで幼い時から 「帰命無量寿如来」 と毎日称えさせられていたので今でも潜在意識に深く印象されている。 帰命の命(みょう)という字は命(いのち)で、帰は帰する ― 元に返ることであります。 自分の生命は仮にここに肉体として生れているけれども、肉体から出たんじゃないんだ、神様 〈如来〉 の生命が‘ここ’に生れて来たのである。 その如来の生命がその生命の本性を自覚して本来の如来さまに自分の生命を返し奉る ― これが帰命であります。
命(みょう)とは命(いのち)で、帰は帰する。 帰一することで、「帰命無量寿如来不可思議光」 と云って、僕は少年時代に大阪の天満で育って、そこの大きなお寺に行って、いつもそのお経を唱えておった。 意味は分らんけれども、しかし言葉の力で、意味も分らないでも唱えておったら潜在意識で分る。 生命の本質、潜在意識の奥底には神の生命が宿っているんだから、現象の脳髄は生れてまだ幼いから分らんけれども、ここに宿っているところの本性は、無量寿如来の生命であるんだから、それを唱えたら分るんだ。
「帰命無量寿如来不可思議光」 ― “南無” と云うのは “帰命” と言うことの梵語です。 つまり、不可思議な光の如来様に帰し奉る ― ということであって、私の命は如来から生れて来たから、それを自覚して、「ここに来ている命は私の生命ではございません。 如来の命です。 今まで “俺の命” “儂の命” “私の命” と思っておったのは間違いでございます。 私の生命は無量寿如来様の命でございます」 と唱える。
無量寿とは無限の生命と書いてある。 仏教では無量寿如来とも、阿弥陀如来とも言う。 「南無阿弥陀仏」 と唱えると極楽浄土へ行くと云う、あれは嘘ではないんですよ。 死際に唱えるだけじゃいかん。 「南無不可思議光」 と、この不可思議な如来の光に南無し奉る。 南無とは帰命であって、「ここに来ている命は如来様あなたの命でございます」 と毎日唱えるんです。 それが所謂、「南無阿弥陀仏」 と云う梵語で唱えるんだ。
ここに生きている命は女の子宮から生れた肉体の塊りの命じゃないんだ。 無量寿如来の命が‘ここ’に来ているんだ ― と自覚するんです。 帰命の命(みょう)という字は命(いのち)であり、帰(き)という字は帰(かえ)るという字。 つまり 「元へ帰る」 帰一することです。 この命を無量寿如来 ― 言い替えると阿弥陀如来 ― に返すと云うことです。 返すと言っても持って行って返すんじゃない。 自覚が新たになって、今まで肉体の命だと思っておったがそうじゃないんだ、無量寿如来 〈無量とは量り知れない無限の生命(いのち)〉 の如来様の生命、阿弥陀如来様の生命がここに生きているんだと、それを自覚するんだ。 これが本当の信仰だ。
「神様、私は貧乏ですからちっと金持にして下さい」 なんてケチなことを言って頼むのは信仰じゃないんだ。 ここに無量寿如来が生きていらっしゃるんだと、自覚によってそれを拝むんだ。 「帰命無量寿如来南無不可思議光 ・・・ 」 肉眼ではその光は見えないから不可思議光だけれども、あの光は霊光であって、十方世界を照らしている。 それは如来様だけのことじゃない、吾々も皆さんも如来だ。 如来というのは宇宙の本体を仏教では真如と云うのです。 真は真理の真という字です。 真理がここに姿を現わし、無量寿如来、真如 〈真如の真(まこと)、如と言うのは、いっぱいに、普遍的に充ち満ちているものを“如”と云うのです〉 その真如から生れたから吾々は “如来” ― とこう云うわけなんです。
それだから吾々は如来である、皆さんも如来である。 如来が如来を拝むのである。 こんな有難いことはない。 皆さんは手を拍(たた)いて拝むと、私の云うことが分るんだ、分るから有難くなって皆な一緒に手を拍くんだ。 皆さんは如来である。 この自覚をだ、それをねぇ、与えるのが本当の教育と云うものである。
昭和59年2月16日
生長の家総本山 「第51回 龍宮住吉本宮団体参拝練成会」 御講話
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