山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その6)

2017-09-22 02:49:23 | くるま旅くらしの話

第06日 <9月03日(日)> 

 <行程>

八尾スポーツアリーナ駐車場 →(K・R41)→ 富山IC →(北陸道)→ 有磯海SA →(北陸道・上信越道)→ 小布施HO →(上信越道)→ 横川SA →(上信越道・関越道・圏央道)→ 常総IC →(R294)→ 自宅(帰宅)

 八尾スポーツアリーナ駐車場での3回目の朝を迎える。家を出てから6日目となり、今回はこれで旅を切り上げ、家に戻ることにしている。本当はこの足でついでに能登や飛騨の方も回りたいのだが、家には所用もありまた夏が居座っている感じの中途半端な時期でもあるので、欲張らないことにした次第。今日は我が家に近い圏央道の常総ICまでの全行程を高速道を利用するつもりでいる。

天気は、少し雲は多いが上々の様である。朝夕かなり涼しくなるのは、やはり北陸であり、関東の守谷市などとは大分違うなと思った。朝の歩行鍛錬は止めて、少し早目に出発することにした。7時半頃に出発して、北陸道富山ICを目指す。15分ほどで高速道に入り、少し走って有磯海SAで小休止し、ゴミ処理などをする。3日間分のゴミは処理する場所がなかったので、ゴミ箱いっぱいになっている。これを仕分けして所定のゴミ箱に入れてすっきりする。ここから先は安全運転に努めることにし、最高時速は90Kmまでとすることにした。概ね85km くらいのペースを保つことにした。

北陸道は富山平野を過ぎると海の近くの山の中を通るトンネルが多い。親不知などの難所だった所も今はトンネルであっという間の通過である。県境もトンネルの中だった。それらのトンネルが一段落すると間もなく上越市に入る。ここのJCTで北陸道から別れて上信越道に入る。妙高山の山麓辺りを走る時は、長い登り坂が続いてSUN号にとっては厳しい道となった。それらを通過して長野平野というのか盆地というのか、開けたエリアに入ると小布施PAがあり、ここは直ぐ傍にある道の駅とつながるハイウエイオアシスがある。孫たちへのお土産にリンゴを買って行こうと思っていたのだが、少し時期が早いらしくて、往路のアップル街道沿いには売っている店が見当たらず、道の駅:しなのまで来てようやく売店に並んでいるのを見つけて安堵したのだが、小布施の道の駅脇の市場ならば必ず早生品種のリンゴなどが並んでいるに違いないと、密かに期待を寄せての立ち寄りだった。

ハイウエイオアシスの駐車場にSUN号を置いて、少し歩いて市場の方へ行ってみた。ある、ある!種類は多くは無かったけど、たくさん並んだカゴの中には溢れるほどのリンゴが入っていた。リンゴだけではなく、桃やブドウなどもたくさん並んでいた。しかも信じられないほどの安価なのである。守谷のスーパーなどで売られているものよりも上等なものが半値以下で売られている。嬉しくなって全部買ってしまおうと思うくらいなのだ。しかし、そんなにたくさん買っても孫たちがリンゴばかり食べているわけにはゆかないし、自分などは果糖には要注意の病持ちなので、ここはぐっと自制して、適量に収めるように我慢した。紅いほっぺのネクタリンが傍にあったのでそれも買い入れ、黄金色の水蜜桃にも心を惹かれて買うことにした。小布施での買い物は予想を超える上出来で満足した。

その後は再び本線に戻って上信越道をひたすら走行する。昼食は横川の釜めしにしようと決めて、その方向に向かったのだが、なかなかその案内板などが現れない。確か佐久辺りではなかったかと、頭の中のイメージを辿るのだが、佐久を過ぎても一向に横川は近づいて来なかった。12時を過ぎているし、燃料の軽油もかなり少なくなり出している。首をかしげながら運転している内にようやく横川SAの案内表示が出て来た。考えてみれば横川は碓氷峠の群馬県側の袂近くにあるのだから、佐久などでないことは明らかなのである。とんだ勘違いをしていたらしい。とにかくようやく昼飯にありつけるので安堵した。

横川の釜めしを味わうのも久しぶりのことである。お茶を淹れて、車の中で食べることにした。外はピカピカの暑さである。長時間走ってきたので車の中は冷房がしっかり効いていて、あったかいご飯もお茶も気にならない。ウメ~などとヤギさんの鳴き声を真似ながら、釜めしをたいらげた。ここまで来れば家までもう少しである。1時間ほど休憩した後、少し給油をして再び走行を開始する。

その後は休憩なしのノンストップで上信越道から藤岡JCTを経て関越道に入り、しばらく走って、鶴ヶ島JCTから圏央道に入る。長いこと全線開通がもたついていた茨城県内を通る圏央道も、今はそれが解消して我が家に近い常総ICまで来られるようになった。このICから入ったことはあるのだけど、降りるのは初めてのことである。改めてICの造りなどを観察しながら、間もなくR294に入る。ここからだと我が家までは20分ほどである。かなりの暑さである。6日前は刈入れの済んだ田んぼは少なかったが、今はもう半分ほどは刈入れが終わっているようだった。今年は水害の気配はなさそうなので、農家の人たちは安堵していることであろう。間もなく我が家が近づき、無事の到着となる。15時45分。全走行距離は1,006kmだった。

 <旅を終えての所感>

僅か一週間にも満たない短い旅だった。旅の目的は前述の通り二つあって、一つは軽井沢で倉敷からの知人と会うこと。もう一つは越中富山は八尾の風の盆を見物することである。

この旅のそもそものきっかけとなったのは、知人Aさんからのお誘いだった。これがなかったら風の盆見物の発想は出て来なかったのである。今年はもうこの時期の旅は諦めており、秋になったらどこかへ行ってみたいと漠然と考えるだけだった。何事においても、思い切りのためには何かが必要だが、今回のAさんからのお誘いはありがたかった。しかも場所が軽井沢というのが良かった。軽井沢は避暑地であり夏の涼しさは格別である。元の勤務先にも軽井沢に保養所があって、何度か利用したことがあるのだが、他社の保養所は初めてだった。JFEの保養所は軽井沢駅の南にあって、樹木に囲まれた真に閑静な場所だった。庭にナツハゼの樹が何本か植えられていて、それが僅かに紅葉して黒い実をつけていたのも嬉しかった。この木には子どもの頃の思い出が絡まっている。落ち着いた雰囲気の中でのAさんご夫妻との歓談も楽しかった。主役は女性同士だったけど、それはそれで脇役もまた楽しいものである。お互いの話の中から、旅に絡む様々な思い出が甦り、更に又新しい旅への思いが膨らんだ。お互いの旅のスタイルは異なるのだけど、出会いと発見のもたらす感動を味わうという旅の共通の目的は違うことなく、それ故にこうしての歓談が楽しいものなのだと思う。

Aさんご夫妻の歩くという旅のスタイルは素晴らしい。飛ぶ・走るではものをしっかり見ることはできない。ものを見る確実さは、スピードに反比例するように思う。スピードが遅ければ遅いほどその対象がはっきり確認できるのである。それゆえ、歩くというのは旅の基本であり、それに止まって見るという行為が付加されて、発見や気づきが確実になるのだ。自分たちは歩きの量が次第に少なくなって来ているのを自覚しているけど、しかし感動の対象となるものに出会うのは、歩いている時であり、止まってものを見るということから外れることはない。乗り物の中からは漠然としたイメージの物しか見ることができない。この後の旅もしっかり歩いて、しっかりものを見て、出会いの感動を拾って行きたいと、改めて思った。

自分たちはこの機会を利用させて頂いて、富山まで行って風の盆を見るという楽しみを作らせて頂いているのに、Aさんご夫妻はわざわざ遠く倉敷からこの日のために出向いて下さって、この後は家に戻られるだけなのを何だか申し訳なく思いながらお別れしたのだった。Aさんには何度も倉敷や岡山県内の史跡巡りなどへのお誘いを頂いているのだけど、まだ一度もそれに応えていないのを申し訳なく思った。年内には家中の雑事も片付くと思うので、それが済んだら必ず倉敷・岡山への旅を実現させたいと思っている。Aさんご夫妻、本当にありがとうございました。

 越中おわら風の盆は面白い見物だった。面白いというのは、天気に影響されて、その体験・評価が大きく変動したからである。上天気の中ではこの祭りは名ばかりで実態は只の人混みだけ、ということで終わったに違いないのだが、天気が急変悪化して中止沙汰になったおかげで、本物の祭り見物を味わえたということなのである。哀愁感の漂う音曲に合わせての優雅な踊りをイメージして、この祭りの見物に来る人が殆どだと思うのだが、現実はその見物人があまりにも多過ぎて、本来のイメージからは祭りを遠いものにしてしまっている。これは誰の所為でもない。人々の思いが強くて多過ぎると、逆の結果を招来するという事例の一つなのだと思う。世の中には同じような踊りの祭がいろいろあるけど、見物客や観衆が多ければ多いほど、或いはどんなに多く膨らんでも却って益々盛り上がるというスタイルのものがある。徳島の阿波踊りや岐阜の郡上踊りなどがそうなのだと思うが、この風の盆は西馬音内(にしもない)の盆踊りと同じように、あまりに見物客が多過ぎると却って本来の姿を壊してしまうという部類に入るような気がした。

それはそれとして、その両面を体験し味わうことが出来たのだから、文句はない。踊りの優雅さも逞しさも音曲のもの哀しさも、皆本物だった。また祭に係わる地元の町の人たちの、この3日間にかける思いの強さもしっかり見届けた感じがした。町屋の所々には、宴会を投げ捨てて踊りに走っているような印象を受ける場所が幾つかあり、それらを覗き見ると、踊りの裏方での町の人たちの気持がわかるような気がしたのである。ものごとには表があれば必ず裏がある。裏を覗いて見ると、表の正体がわかることも結構多い。これは悪趣味なのかもしれないが、自分の特性の一つである。

この祭りを見に来る前に、八尾という町がどんな所で、どんな歴史を持ち、どのようなことからこの風の盆というものが始まり定着したのか、それを調べるのも旅の楽しみの一つなのだが、今回は殆どそれをしないままに出かけて来てしまった。地理的に何処にあるのかについては、今までに何度か近くを通っており、一応知ってはいたつもりなのだが、それ以外のことについては何も知らず、ネット上の情報を多少覗き知る程度だった。それが現地に来て見て、今まで知っていたような場所ではなさそうなのに驚かされたのはいつもの通りである。

未知の場所について各種情報からあれこれと思いを巡らすのは、地図を見ているのと同じである。どんなに正確な地図でも、位置や形状は示せても現地そのものではない。地図を見ただけで、どこに何というお寺や神社があるのかは知ることが出来ても、そのお寺や神社がどのような建物なのか、その横にある銀杏の木がどれほどの大木かなどというのを知ることはできないのである。地図の限界がそこにあると言えよう。従って本物というのは、あくまでも現地に行って足を使い目と耳を使い、五感の全てを働かせて、全身で確認しなければ解らないのである。

八尾の町を、風の盆の行われていない時間帯に二度しか歩いていないのだが、この歩きが、この町についてたくさんのことを教えてくれた。町の形状を初め寺社の存在と町内との係わり、早朝の町中を歩くとどこからでも聞こえてくる水音が火防と融雪のための施設であること、又城の山公園に上って町のつくりや遠近の地形の在りようなどを俯瞰すると、この町が飛騨方面から富山市内へ向かう街道の拠点に位置していることも判り、それらの条件を巧みに活用して町が発展して来ているということも想像できるのである。若宮八幡宮という立派な神社があり、それが養蚕宮とも呼ばれているのを知ると、この地にかつて養蚕業を介しての経済の発展があったことも理解できるし、又俯瞰すると何本かの川を挟んで田んぼが広がっており、農耕についてもそれなりの繁栄があったのが推定できるように思った。それらの繁栄の成果がこの町屋を形成し、おわら風の盆や曳山祭など、町の繁栄のシンボルとしての行事を今日につないでいるのだなと思った。

このようなことだけで八尾の何もかもがわかったわけではない。正確でもないし、ほんの一部を知っただけなのだと思う。又今度機会があれば来訪して見たいと思っているのだが、次回にはもっと新しい発見があるに違いないと楽しみである。今回は風の盆の見物に来たのだが、今度は曳山祭というのも見物して八尾の町の中に脈々と流れている日本の精神の様なものに近づけたら良いなと思っている。  (おわり)

 

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