【行程】
道の駅:高岡 →(R10・K24)→ 国富町文化会館 →(K26)→ 綾の照葉大吊橋 →(K26・K40)→ 西都風土記の丘 →(R219・K24・R10)→ 日向市美々津地区 →(R10)→ 道の駅:日向(泊) <114km>
【レポート】
今日の予定は、先ず隣の国富町の文化会館を訪ねることである。ここは亡き畏友安達巌の奥さんの出身地で、町の文化会館には彼の作品と奥さんの作品も掲げられていると聞いていた。安達巌は今はこの世にいない。幼少時の感電事故で隻手すらも失い、絵筆を口にくわえて作品を創出した洋画家だった。自分とは同世代で、彼の方が1歳年上だったので、自分は絵は描かないけどなんとなく兄事するような気持ちでのお付き合いだった。縁あって20年以上の交誼を頂いたことは、自分の人生にとって、大変意義のあることだったと思っているし、それはこれからも変わらない。8年前に宮崎を訪れたときは、まだ安達巌も健在で、時々奥さんにも故郷のことを伺ったりしたのだが、その時は未だ文化会館のことは伺ってはいなかったと思う。今回は是非とも訪ねたいと思っての来訪だった。
天気は朝方は雲が多かったが、これは海の方からの霧などの影響だったようで、しばらくすると青空が覗き出し、今日も暑くなりそうな予感がした。トイレの脇に津波注意の表示板があり、それによるとこの辺の高さは12.9mだという。海からは8km位は離れていると思うけど、道の駅:高岡は大淀川のすぐそばにあり、川を遡上した津波がここまでやってくる恐れは十分あるのだろうなと思った。東北の大地震のことを思うと、それらの事象は決して夢ごとではないなと思った。それにしても天変地変はげに恐ろしいことである。道の駅を後にして国富町に向かう。
少し時間がかかるかと思ったら、アッと今の到着だった。10分ほどの隣町で、道路も良くナビもちゃんと機能した。文化会館も直ぐに判ったのだが、心配だったのは、今日が日曜日であり事務所が閉まっていないかどうかということだった。相棒に先に下りて様子を見て貰うと、○だった。まだ9時前で開館前の時刻だったと思うが、事情を話すると事務所の方が丁寧に応対してくださった。偶々数日前事務所の燻蒸を行ったとかで、安達さんの絵は倉庫にしまってあるという。それをわざわざ出して見せてくださった。奥さんの絵も2点展示されていた。安達巌の作品は往時町からのオーダーを頂いた時、夫婦でわざわざこの地のものを描こうと下見のスケッチに来られたのだと話しておられた。そのスケッチの後1年半ほど経って作品が送られてきたとのことで、その絵には、この近くの農家らしき屋敷にこいのぼりが翻っている風景が描かれていた。克明に写実的な表現が彼の絵の一つの特徴でもあり、いつもの青空に湧く雲の姿も見事に描かれていた。この絵を口に絵筆をくわえて描いているなどとは誰も想像だにしないことだと思う。それでいいのだと思う。安達巌の絵は、まさにたくさんの血の滲んだ努力と天分が開花したものなのだと思う。改めて心を打たれたのだった。奥さんの絵を見るのは今までほとんどなかったので、どんなものが掲げられているのか、大いに楽しみだった。奥さんは安達巌の一番弟子でもある。家事や夫の世話に忙しくされていたので、なかなか落ち着いて絵を描くという時間も取れなかったのだと思う。2枚の絵は一枚はスペインだかの外国の風景、もう一枚は自宅近くの大阪あたりの暮らしの寸景のようで、いずれも安達巌の影響を受けての写実性に優れた見事な作品だった。もうアマのレベルは通り越していると思った。様々な思いを籠めながら、しばらく作品を鑑賞させて頂いた。事務所の方ともいろいろと安達さんご夫妻の話などの会話を交わし、とても嬉しい時間だった。もしかしたら今日は休みだったのかも知れず、そんなことは素振りにも見せずに丁寧に応対してくださった事務所の方に感謝、多謝、深謝である。ありがとうございました。
文化会館の後は名勝と聞く綾町の照葉大吊橋を見物しようと向かう。20分ほどで駐車場へ到着。先ずは新緑の燃え湧く照葉樹の森に圧倒される。所々混ざる杉の造林も美しい。丁度今が樹木たちの生命が長い冬から解放されて一気に活動を開始した時期なのであろう、音はしないけど彼らの喜びにあふれた声が谷間一杯にこだましているような感じがした。さっそく300円也を払って吊り橋を渡る。高所恐怖症とは言いながらも、ここまで来ておびえて引き返すのは卑怯者ということになると己に鞭打っての橋の往復だった。人一人がすれ違うだけの幅しかなく、しかも橋の板の部分が下が見えるように作られており、恐怖感は圧倒的なのである。下を見ないように早足で平気を装いながらの往復だった。相棒方はと見れば、カメラを構えながら平気で立ち止まりシャッターを切っていた。鼻歌を歌いながら踊り出すような気分らしい。何とも恐れ入るやら呆れ返るやらの気分だった。それはともかくとして、照葉樹の森の素晴らしさは、やはり日本一なのかも知れない。日本人は日本一といういうのを自慢したがるので、何とも言えないけど、この景観は日本一といっていいように思った。いち早く車に戻って、相棒の帰りを待つ間、心を整える。深呼吸。
綾の照葉大吊橋の下に広がる照葉樹の森と谷川の流れ。息を止めまさに命がけの撮影だった。川までは200m以上の高さがあると思う。拡大鏡でご覧あれ。
吊り橋の往復は肝の冷える経験だったが、照葉樹の生吹のむせ返るような森の景観は素晴らしく、ここへ来てよかったと思った。来た道を綾町の中心市街に戻りながら、これからは西都市の風土記の丘に向かう。途中綾町で少なくなっていた飲料水を買って補給する。西都原の古墳群は8年前の来訪の時には満開のコスモス畑に囲まれて天国に来たという感じがしたのが強く印象に残っている。今頃はどのような景観が用意されているのかと楽しみにしながらの訪問だった。ナビのガイドは複雑で、若干の抵抗を覚えながらの運転だったが、無事に博物館の傍までやってくることができた。そのあと少し付近を走って見たが残念ながら何の花も見当たらず、畑には麦やサツマイモなどが植えられていた。場所を間違えたのかもしれない。とにかくこの公園は広大なので、一度くらいの来訪ではどこに何があるのか判らない。先ずは腹ごしらえをすることにして、緑地に造られた駐車場に車を留める。
いい天気となった。からっとしている気配はないけど、さほどに暑くもなく丁度良い気温である。周辺の樹木はどこを見ても新緑一色である。この辺りは桜はずいぶん前に終わったようで、葉桜もすぎてもう夏を迎える体勢が整っている感じがした。楠も多くてその新緑も何とも言えない味わいがする。食事が終わって一休みしている間に、何だか歩き回るのが億劫になってきて、ここの散策は止めにして日向の美々津という所へ行くことにしようということになった。西都原の古墳群に昼食にだけやって来たなどと言うのは、考えてみれば、ずいぶんと豪勢な贅沢ではある。
とうことで一休みの後は西都原を後にし、高鍋町、都農町などを通って、日向市の美々津地区へ。ここは伝統的建物保存群の一つであり、港町としてのその昔の面影を残す町並みがあるという。駐車場が見つからず少し苦労したけど、何とか落ち着くことができた。駐車場の少し先に神武天皇お船出の地という案内板があり、行ってみるとここから大和の方に都を築くために神武天皇が船出されたのだという。古事記に記載があるのだというけど、よく解らない。皆がそういうのだからそうなのだと思う。この種の話の真偽を論ずることなどには加わりたくはない。どうせ何の証拠もないのだから本当のことなどわかりはしないのである。信ずる者は救われる程度でいい。
ま、そのような理屈や感慨はともかくとして、その後の美々津のエリアの散策には少し歩き疲れた。片道が1km以上はあり、何回か行ったり来たりしたので結構な歩きとなった。ここはその昔の高鍋秋月藩の港町として栄えた所であり、廻船問屋などが幾つかありそれらの一つが資料館となっていた。そのあたりが辛うじて昔の面影を残していたけど、建物の多くは昭和以降の新しいものばかりで、街並みの作りだけが昔の面影を残しているのが判る。人がそこに住む以上は、建物が新しくなるのは当然であり、日本の中で昔をそのまま残すというのは至難のことなのだなと思った。
美々津の散策の後は、すぐ近くにある道の駅:日向に向かう。道の駅のすぐ先の海の側に日向サンパークという温泉入浴のできる施設があり、そこに行って今日の疲れを湯に浸って癒す。道の駅はかなり混雑している様なので、そのままここにお世話ることにして一夜を明かす。
【今日(4/30)の予定行程】
道の駅:日向 →(R10・R218)→ 道の駅:高千穂(泊)