山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘12年 九州春旅レポート <第30日=4月29日(日)>

2012-04-30 07:17:55 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:高岡 →(R10・K24)→ 国富町文化会館 →(K26)→ 綾の照葉大吊橋 →(K26・K40)→ 西都風土記の丘 →(R219・K24・R10)→ 日向市美々津地区 →(R10)→ 道の駅:日向(泊) <114km>

【レポート】

 今日の予定は、先ず隣の国富町の文化会館を訪ねることである。ここは亡き畏友安達巌の奥さんの出身地で、町の文化会館には彼の作品と奥さんの作品も掲げられていると聞いていた。安達巌は今はこの世にいない。幼少時の感電事故で隻手すらも失い、絵筆を口にくわえて作品を創出した洋画家だった。自分とは同世代で、彼の方が1歳年上だったので、自分は絵は描かないけどなんとなく兄事するような気持ちでのお付き合いだった。縁あって20年以上の交誼を頂いたことは、自分の人生にとって、大変意義のあることだったと思っているし、それはこれからも変わらない。8年前に宮崎を訪れたときは、まだ安達巌も健在で、時々奥さんにも故郷のことを伺ったりしたのだが、その時は未だ文化会館のことは伺ってはいなかったと思う。今回は是非とも訪ねたいと思っての来訪だった。

 天気は朝方は雲が多かったが、これは海の方からの霧などの影響だったようで、しばらくすると青空が覗き出し、今日も暑くなりそうな予感がした。トイレの脇に津波注意の表示板があり、それによるとこの辺の高さは12.9mだという。海からは8km位は離れていると思うけど、道の駅:高岡は大淀川のすぐそばにあり、川を遡上した津波がここまでやってくる恐れは十分あるのだろうなと思った。東北の大地震のことを思うと、それらの事象は決して夢ごとではないなと思った。それにしても天変地変はげに恐ろしいことである。道の駅を後にして国富町に向かう。

 少し時間がかかるかと思ったら、アッと今の到着だった。10分ほどの隣町で、道路も良くナビもちゃんと機能した。文化会館も直ぐに判ったのだが、心配だったのは、今日が日曜日であり事務所が閉まっていないかどうかということだった。相棒に先に下りて様子を見て貰うと、○だった。まだ9時前で開館前の時刻だったと思うが、事情を話すると事務所の方が丁寧に応対してくださった。偶々数日前事務所の燻蒸を行ったとかで、安達さんの絵は倉庫にしまってあるという。それをわざわざ出して見せてくださった。奥さんの絵も2点展示されていた。安達巌の作品は往時町からのオーダーを頂いた時、夫婦でわざわざこの地のものを描こうと下見のスケッチに来られたのだと話しておられた。そのスケッチの後1年半ほど経って作品が送られてきたとのことで、その絵には、この近くの農家らしき屋敷にこいのぼりが翻っている風景が描かれていた。克明に写実的な表現が彼の絵の一つの特徴でもあり、いつもの青空に湧く雲の姿も見事に描かれていた。この絵を口に絵筆をくわえて描いているなどとは誰も想像だにしないことだと思う。それでいいのだと思う。安達巌の絵は、まさにたくさんの血の滲んだ努力と天分が開花したものなのだと思う。改めて心を打たれたのだった。奥さんの絵を見るのは今までほとんどなかったので、どんなものが掲げられているのか、大いに楽しみだった。奥さんは安達巌の一番弟子でもある。家事や夫の世話に忙しくされていたので、なかなか落ち着いて絵を描くという時間も取れなかったのだと思う。2枚の絵は一枚はスペインだかの外国の風景、もう一枚は自宅近くの大阪あたりの暮らしの寸景のようで、いずれも安達巌の影響を受けての写実性に優れた見事な作品だった。もうアマのレベルは通り越していると思った。様々な思いを籠めながら、しばらく作品を鑑賞させて頂いた。事務所の方ともいろいろと安達さんご夫妻の話などの会話を交わし、とても嬉しい時間だった。もしかしたら今日は休みだったのかも知れず、そんなことは素振りにも見せずに丁寧に応対してくださった事務所の方に感謝、多謝、深謝である。ありがとうございました。

 文化会館の後は名勝と聞く綾町の照葉大吊橋を見物しようと向かう。20分ほどで駐車場へ到着。先ずは新緑の燃え湧く照葉樹の森に圧倒される。所々混ざる杉の造林も美しい。丁度今が樹木たちの生命が長い冬から解放されて一気に活動を開始した時期なのであろう、音はしないけど彼らの喜びにあふれた声が谷間一杯にこだましているような感じがした。さっそく300円也を払って吊り橋を渡る。高所恐怖症とは言いながらも、ここまで来ておびえて引き返すのは卑怯者ということになると己に鞭打っての橋の往復だった。人一人がすれ違うだけの幅しかなく、しかも橋の板の部分が下が見えるように作られており、恐怖感は圧倒的なのである。下を見ないように早足で平気を装いながらの往復だった。相棒方はと見れば、カメラを構えながら平気で立ち止まりシャッターを切っていた。鼻歌を歌いながら踊り出すような気分らしい。何とも恐れ入るやら呆れ返るやらの気分だった。それはともかくとして、照葉樹の森の素晴らしさは、やはり日本一なのかも知れない。日本人は日本一といういうのを自慢したがるので、何とも言えないけど、この景観は日本一といっていいように思った。いち早く車に戻って、相棒の帰りを待つ間、心を整える。深呼吸。

      

綾の照葉大吊橋の下に広がる照葉樹の森と谷川の流れ。息を止めまさに命がけの撮影だった。川までは200m以上の高さがあると思う。拡大鏡でご覧あれ。

 吊り橋の往復は肝の冷える経験だったが、照葉樹の生吹のむせ返るような森の景観は素晴らしく、ここへ来てよかったと思った。来た道を綾町の中心市街に戻りながら、これからは西都市の風土記の丘に向かう。途中綾町で少なくなっていた飲料水を買って補給する。西都原の古墳群は8年前の来訪の時には満開のコスモス畑に囲まれて天国に来たという感じがしたのが強く印象に残っている。今頃はどのような景観が用意されているのかと楽しみにしながらの訪問だった。ナビのガイドは複雑で、若干の抵抗を覚えながらの運転だったが、無事に博物館の傍までやってくることができた。そのあと少し付近を走って見たが残念ながら何の花も見当たらず、畑には麦やサツマイモなどが植えられていた。場所を間違えたのかもしれない。とにかくこの公園は広大なので、一度くらいの来訪ではどこに何があるのか判らない。先ずは腹ごしらえをすることにして、緑地に造られた駐車場に車を留める。

 いい天気となった。からっとしている気配はないけど、さほどに暑くもなく丁度良い気温である。周辺の樹木はどこを見ても新緑一色である。この辺りは桜はずいぶん前に終わったようで、葉桜もすぎてもう夏を迎える体勢が整っている感じがした。楠も多くてその新緑も何とも言えない味わいがする。食事が終わって一休みしている間に、何だか歩き回るのが億劫になってきて、ここの散策は止めにして日向の美々津という所へ行くことにしようということになった。西都原の古墳群に昼食にだけやって来たなどと言うのは、考えてみれば、ずいぶんと豪勢な贅沢ではある。

 とうことで一休みの後は西都原を後にし、高鍋町、都農町などを通って、日向市の美々津地区へ。ここは伝統的建物保存群の一つであり、港町としてのその昔の面影を残す町並みがあるという。駐車場が見つからず少し苦労したけど、何とか落ち着くことができた。駐車場の少し先に神武天皇お船出の地という案内板があり、行ってみるとここから大和の方に都を築くために神武天皇が船出されたのだという。古事記に記載があるのだというけど、よく解らない。皆がそういうのだからそうなのだと思う。この種の話の真偽を論ずることなどには加わりたくはない。どうせ何の証拠もないのだから本当のことなどわかりはしないのである。信ずる者は救われる程度でいい。

 ま、そのような理屈や感慨はともかくとして、その後の美々津のエリアの散策には少し歩き疲れた。片道が1km以上はあり、何回か行ったり来たりしたので結構な歩きとなった。ここはその昔の高鍋秋月藩の港町として栄えた所であり、廻船問屋などが幾つかありそれらの一つが資料館となっていた。そのあたりが辛うじて昔の面影を残していたけど、建物の多くは昭和以降の新しいものばかりで、街並みの作りだけが昔の面影を残しているのが判る。人がそこに住む以上は、建物が新しくなるのは当然であり、日本の中で昔をそのまま残すというのは至難のことなのだなと思った。

 美々津の散策の後は、すぐ近くにある道の駅:日向に向かう。道の駅のすぐ先の海の側に日向サンパークという温泉入浴のできる施設があり、そこに行って今日の疲れを湯に浸って癒す。道の駅はかなり混雑している様なので、そのままここにお世話ることにして一夜を明かす。

【今日(4/30)の予定行程】 

道の駅:日向 →(R10・R218)→ 道の駅:高千穂(泊)

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‘12年 九州春旅レポート <第29日=4月28日(土)>

2012-04-29 06:47:09 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:くにの松原おおさき →(R220・R448・K36)→ 都井岬 →(K36・R448)→ 道の駅:なんごう →(R448・R220・222)→ 飫肥城跡 →(R222・K434・R220他)→ 鵜戸神宮参拝 →(R220・R10)→ 道の駅:高岡(泊) <161km>

【レポート】

 道の駅:くにの松原おおさきの夜は静かで、快適だった。ここは早朝から温泉が開業していて、朝風呂の好きな人にはありがたい営業スタイルの様である。又足湯もあって24時間無料で使えるようになっていたが、入っている人を一度も見かけたことはなかった。温泉を除くとくるま旅の者には、至って不親切で排他的あり、自動販売機にも使用済みの缶やペットボトルを回収する箱など一切置かれてなく、自販機の脇に誰か知らぬが、何個かごみの袋を置いて行った者が居たが、何だか同情したい気持ちになった。ごみは持って帰れというのは、販売者や生産者のエゴのような気がする。消費者のマナーにも問題があるけど、ごみの製造元が生産者や販売者であることを考えると、この回収の仕組みは家に持ち帰れというやり方だけでは片手落ちの様に思うのである。この道の駅には、統制管理者と販売者のエゴが親切やサービスなどの言葉の陰に隠れて、見え見えの様な感じがした。静かな夜はありがたかったが、もうこの道の駅にお世話になることは二度とないだろうなと思った。朝からあまりすっきりしない話となった。

 さて、今日は鹿児島県を出て宮崎県に入る日である。先ず都井岬に行き、野生化した岬馬君たちを見ることにしている。その後は日南市の飫肥城址を訪ねた後、日南海岸を眺めながら北上して鵜戸神宮に参拝し、できれば綾町の照葉大吊橋を見物して近くの道の駅に泊まりたいと考えている。車の燃料が少なくなってきているので、補給したいと考えながら走っていたのだが、志布志市内ではどこまで行っても価格を表示した店はなく、串間に行ってからにしよう諦めかけていたら、街のはずれ近くにようやく価格を表示した店を発見。どうやら新規開業間もない様で、まだ地域の垢に染まっていなかったようだ。たくさんの車が給油に訪れていた。この店もやがては表示の看板を取り外してしまうのかもしれない。顧客をバカにしているというのに気付かない、この地方の給油スタンドの経営風土は救い難いなと思った。ま、とにかく1軒でも給油ができて良かった。(給油に関しては、その後の宮崎市エリアでもきちんと表示している店は少なく、表示があってもレギュラーガソリンのみで、その他については全く埒外の様だった。)

 都井岬は20数年ぶりの訪問である。先ずは行けるところまで行くことにして岬の灯台まで行ってみた。途中道路を歩いている馬などがいたけど、大した数ではなかった。灯台の見学は有料である。少し迷ったけど高い所は苦手だし、そんな所よりも馬を見に来たのだからと上がるのは止めにして、引き返すことにした。しかしどこに行ったら馬君たちに会えるのか分からない。岬の景観は、20数年前の記憶のイメージよりもはるかに広大なのである。困って店の方に訊いたら、小松が丘という所が馬たちが一番多くいる場所だという。さっそくそこへ行ってみることにした。道脇の駐車スポットに車を留めて丘を少し上ると、そこは広大な牧場の丘となっており、たくさんの岬馬たちが草を食んでいた。岬馬というのは、もともとは高鍋藩の軍馬育成用の牧場だったとか。それが飼育を止めて放置したため、それが野生化して今日に至っているというようなことが案内板に書かれいた。小型の馬である。往時はこれくらいの馬が軍馬として使われていたらしい。してみると、TVの時代劇などに出てくる馬などは江戸時代の中ではインチキということになる。サラブレッド種の半分くらいの大きさしかないのである。しかし、ポニーではない。やっぱりちゃんとした馬なのである。同じような流れで、東北は南部藩の尻屋岬の馬たちも野生化したのが残っているけど、こちらの方は大型で足腰も太くがっしりしている。厳寒の雪の中を逞しく生きる姿から寒立馬(かんだちめ)と呼ばれているが、それと比べると南国の馬はずっと小型である。馬たちはおとなしく、無言で草を食んでいるだけだったが、時々動き回って、互いがたてがみの辺りを鼻で擦り合うようなしぐさをするのもいて、彼らの世界の中では何かのコミュニケーションなのであろう。いい天気で、見上げれば真っ青な空、眼下には水平線まで真っ蒼の海が広がって、馬たちはご機嫌だったようだ。何枚かの写真を撮った。

          

都井岬の岬馬たち。広大な丘の牧場には思い思いに草を食む馬たち屯していた。全部で頭なのかは知らないけど、尻屋岬の野生馬よりは多いのは確実だなと思った。

 ふと見ると足元にどこかで見たことがある、花の後に白く丸いふさふさのものを付けた野草が点在していた。翁草だった。翁草というのはその花を咲き終えた後のふさふさのものが翁の髭の様に見えるところから名づけられたキンポウゲ科の野草である。花の方は濃い赤紫でなかなかインパクトがある花だ。関東辺りではなかなか野生のものを見るのは難しく、今日ここで出会えたのは至極ラッキーだった。キンポウゲ科の野草には毒草が多いので、馬たちは本能的にそれを食べるのを避けているのだと思う。それで、こんなにたくさん自生しているのだなと思った。都井岬での時間は、十分に満足できるものだった。

     

翁草。この頃では野生のものを見るのは珍しい。この地にはかなりの数のものがみられるようで、もしかしたら馬たちがこの草を守ってるのかもしれない。

 車に戻り次の目的地である飫肥城のある日南市方面へ向かって出発。日南海岸はどこを通っても風光明媚の美し景観が広がっている。この景色は写真には納まらない。直接目に焼き付けておくしかない。安全運転に留意しながら、しばらくのドライブとなった。途中なんごうという道の駅で小休止しミカンなどを買う。この辺りにはポンカンやタンカンそれに日向夏という黄色系のミカンなどがあって、かんきつ類は豊富だ。どれもみんな欲しくなるけど、もういつもの1年分以上を旅の間に食べてしまっているので、ほどほどにすることにしている。でも相棒はかなりの量を抱え込んで来ていた。ミカンの他にもツワブキやピーマンなどを買ったらしく、佃煮にするとかで張り切っていた。

 日南市に入り、飫肥城址に向かう。ここは8年前に来ておりそれ以来の再訪である。ナビに従って行ったら、駐車場の反対側の方をガイドされてしまい、とんだ道草を食ってしまった。細道の悪夢を抜け出して、ようやく駐車場に到着。先ずは腹ごしらえをしてからと昼食に取り掛かる。暑い。天気が良すぎて今日は夏日近い気温になっているようだ。少し休んだ後城址の散策へ。いろいろ往時を祈念する建物などがあるけど、今日は城址だけを見散策して次に向かうことにしている。このところ坂道を上り下りすることが多く、相棒は少し腰を痛めているとかで、心配がある。史跡や名所には歩くのにはきつい場所が結構多い。歳はとりたくないものだ。飫肥城址を一巡りした後、車に戻る。飫肥城址のたたずまいは8年前とほとんど変わっていなかった。昨年放映された「坂の上の雲」の中に登場するネズミ大使だったかの時の外務大臣の小村寿太郎はこの町出身の人である。ロシアを相手取って堂々と自国の意思を表示した男はサムライだなと思う。その記念館にも寄らずに飫肥を後にした。

 その後は鵜戸神社への参拝だった。ここは8年前にも同じように参拝している。駐車場が混んでいて、一時参拝を諦めようかと思ったけど、どうにか空いたので車を留め、参拝となった。この神社は海の傍の大きな岩の洞窟の中に祀られており、そこ行くまでに急な石段を上り、トンネルを通ってさらに長い石段を降りるなど、15分もかかってしまう。相棒は大丈夫かと心配したが、神のご加護なのかこのような場所に来ると痛さなど忘れるのか、無くなってしまうのか、元気になっているようで安堵した。連休の初日の所為もあるのか、大変な人混みで中国などからの外国人も多い様だった。本殿に参拝の後、相棒はいつものように運玉にチャレンジしていた。前回は見事1個成功しており、今回もあわよくば2連勝と狙ったのだったが、残念ながらそれは叶わなかったようである。運玉とは、海岸の岩の上に穿った四角の穴に注連縄が張ってあり、そこをめがけて小さな素焼きの玉を5mほど投げるのである。入ればまさに幸運に恵まれるというわけ。入らなくても運は不運にはならない。それが普通なのだから。帰り道も厳しかったけど、どうにか参拝を終える。

     

鵜戸神宮本殿付近の様子。下方の左手の洞窟の中に本殿があり、付近は切り立った断崖である。善男善女は信仰よりもその景観に心を動かされるようだ。

 さて、今日は綾町まで行くつもりだったけど、もう時間的に無理のようだ。16時近くなっている。宮崎市内は車が渋滞していて、益々遅くなってしまうので、行くのは明日にすることにして、少し早いけど近くにある道の駅:高岡という所に行って錨を降ろすことにした。先ほど買ったツワブキやピーマンの調理なども控えており、やることは多い。宮崎市街を抜けて都城の方向へ向かい、しばらく走って到着する。この道の駅で少しばかり買い物を済ませ車に戻って駐車場の確認などをしていたら、何だか穏やかならぬ警告板があるのに気が付き、驚いた。そこには、長時間の駐車をしているものは警察に通報するなどと書かれていて、仮眠すらも許さないぞという意図があるようにも感ぜられたのである。このようなものを見たのは初めてだった。これじゃあここには泊まれないなと思い、他を調べたここからは結構遠いのである。相棒は少し興奮して、管理者の人に訊いてみるなどと飛び出していった。ちょっと心配になって自分も後を追った。駅長さんは不在のようで、事務員の方に話をしていたようだが、どうもその方もそのような警告板があったとは気付かなかったようで、はっきりした説明ができなかったようだった。ともかく仮眠することには支障はなく、一夜を明かすことも問題ないとのことだった。利用者のマナーの悪さというか、利用違反の行為に対する警告なのだと思うけど、長時間は長期間の誤りであることは明らかで、もう少し細やかな配慮をして欲しいなと思った。

 そのような騒ぎの後は、相棒は調理に専念し、自分の方は記録の整理などをしながら夕暮れ時を迎え、いつもの様な夕食となったのだった。

【今日(4/28)の予定行程】 

道の駅:高岡 →(R10・K24)→ 国富町文化会館 →(K26)→ 綾の照葉大吊橋 →(K26・K24・R219) → 西都原風土記の丘 →(K40・R10) → 道の駅:日向(泊)

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‘12年 九州春旅レポート <第28日=4月27日(金)>

2012-04-28 06:04:36 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:根占 →(R269他)→ 佐多岬 →(R269)→ 道の駅:根占 →(R269)→ 道の駅:おおすみ弥五郎伝説の里 →(R269・K523・R220)→ 志布志市郊外のコインランドリー →(R220)→ 道の駅:くにの松原おおさき(泊) <156km>

【レポート】

 根占の道の駅からは、対岸の指宿の町は目前だ。朝起きると今まであまりハッキリと見えなかった開聞岳がすっきりとした佇まいを見せていた。珍しく相棒も起き出し、写真を撮りに出かけて行った。昨日は遅く着いたので、駐車場の様子もあまりよく判らなかったのだが、朝になって周囲を見てみると、狭いけど下の海岸寄りにもスペースがあって、そこに泊まった人も居られたようだった。ただ、東北の津波の惨状を知ってしまった今では、海の近くには車を留めて寝るという勇気はない。最低でも海抜20m位以上の場所に寝場所を確保したいものだと思っている。根占はそれよりも少し低い場所にあったのではないか。先ずは波音も静かで、安全な一夜だったのが幸いだった。

 今日は先ず大隅半島の最南端、即ち九州の最南端の佐多岬を訪ねることにしている。ここにはまだ行ったことが無い。どんな風景が待っているのか楽しみである。その後は行った道を戻り、鹿屋を経由して曽於市にある道の駅:おおすみ弥五郎伝説の里というのを訪ねるつもりでいる。大隅弥五郎という名は、この地方では当然のようで、高速道のICにまでも用いられており、どのような人物なのか俄然興味が湧いてきているのである。その後は溜まっている洗濯物をコインランドリーを探して片付け、どこか温泉のある道の駅にでも泊まろうと考えている。今日が鹿児島県エリアの最後の日となり、明日からは宮崎県入りとなる予定だ。

 食事の後、いつものように為すべきことを済ませて、出発は9時少し前となった。佐多岬は根占からは33kmほどあり、最初は道路幅も広く良い道だったが、やがて海岸沿いを離れて山の中に入ると、所々狭い箇所のある道となった。でも、先日の屋久島の登山道路の様なのと比べれば、実に快適な道だった。再び海の近くに出て、最後の6kmほどは以前は有料道路だったらしい道が無料となって続いていた。しかし、少し行くと佐多岬の公園の入園料というのを徴収された。ここまで来て引き返すわけにはゆかない。有料道路料金が含まれていると納得する。そこから先の道の景観は、素晴らしかった。料金に文句を言うどころではない。値千金の景観で、おつりの方がはるかに多い感じがした。終点の駐車場に車を置き、トンネルを潜って展望台のある方へと歩く。

 トンネルは150mほどあって、そこを出ると眼下に蒼い海が陽光に煌めいていた。周辺の山には照葉樹がびっしりと茂って、所々椰子や蘇鉄なども混ざっている。南国独特の密林の様相をしていた。そこから500mほどはあったのだろうか、その照葉樹の緑のトンネルの中を歩くと、その先に展望台が建てられていた。そこへ行く途中に赤い屋根の神社があり、御崎神社とあった。場所が場所だけに簡易な造りだったが、由緒書きを見るとかなり古いものらしい。建物の脇にガジュマルのかなり大きなのが一本あって、多くの気根の髭を垂らしていたのが印象的だった。参拝の後、展望台へ。展望台からの景観は素晴らしかった。正面下には岬につながる小さな大地の出っ張りの先に小島があり、そこに白い灯台が作られていて、その向こうをゆっくりとタンカーらしき船が進んでいるのが見えた。思わず見とれてしまう。いい天気なのだが、少し霞がかかっており、種子島や硫黄島はかすかに見えるものの、先日行った屋久島の影は全く見えなかった。右手の方に回ると開聞岳が、これも少し霞んではいるが地元で見た時よりはずっとはっきりとそれらしい姿を見せていた。いつまで見ていても飽きない眺めである。展望台の中では、ここへ来たことを証明する証明書やワッペンなどが販売されており、相棒は証明書を貰っていたようである。そんなことをしなくてもふんだんに写真を撮っているのだから、それを使って自分で証明書をこさえればいいのにと思ったけど、せっかくの楽しみに泥を塗るようなことは言えないので、黙っていた。海の景観も素晴らしいけど、反対側の山の景観も素晴らしかった。関東では照葉樹林といえば、千葉県の房総や伊豆辺りにわずかに見られるくらいだと思うけど、この辺はいわばその本場なのだから、先ずは圧倒されるような景観である。この後に宮崎県の綾町の照葉樹林を見る予定でいるけど、さてどんなものなのか楽しみである。照葉樹に混ざって蘇鉄などが自生しているのは南国であることの一層の証明なのであろう。心行くまで九州最南端の地の景観を眺めて、車に戻る。

     

佐多岬の景観。九州最南端の風景は小さな島の上の白い灯台とその向こうに蒼く広がり輝く海世界だった。島の国日本では、岬の景観はどこか共通したものがある。

 次の目的地の曽於市まではかなりの距離がある。先ずは今朝までお世話になった根占の道の駅まで行って、一息入れてから向かうことにして出発。一度来た道を戻るのには少し安心感が伴う。その分油断とならぬように老人の運転には慎重さが必要だと思う。そのような心構えで、ハンドルを握り根占に到着。この地は枇杷の産地としても知られているようで、枇杷の葉で作った枇杷茶などが販売されている。相棒はその枇杷が道の駅の売店に出ているのではないかと期待していたようだったが、残念ながらこの道の駅の物産売り場はそっけなくて、加工品ばかりが置かれている感じだった。こんなことなら、途中の道端で売られていたのを買うべきだったと悔しがっていたが、車の通行では多くの場合は気が付いた時では遅いため、戻る必要があり面倒なのでつい諦めてしまうことが多い。根占の枇杷はそういうことで彼女のものとはならなかったのだった。

 根占を出た後は、道の駅:おおすみ弥五郎伝説の里に着くまで、ノンストップで走行する。約60kmを1時間半ほどかかった。途中、鹿屋の街中を通るため信号が多く、予定よりも少し遅く到着した。鹿屋は全く視野に入っておらず、そのままパスしてしまったが、後で資料などを見たら日本一のバラ園があるとかで、ちょっと寄って見ればよかったかなと悔やんだりした。ま、日本一というのは同種のものでも至る所にあるようで、特に鹿児島人はそれが好きなのではないかと思ったりした。よく考えれば何だって日本一であり、世界一なのだ。皆、どんなものでもこの世にはたった一つしかないものなのだから。

 おおすみ弥五郎伝説の里の道の駅に着いたのは、ちょうど13時頃だった。着くとすぐに相棒がレストランを覗いて、入るという。珍しく断言的である。よほどお腹が空いていたらしい。ここには弥五郎豚という黒豚が有名らしく、それを使ったトンカツなどのメニューが幾つか並んでいた。予てからトンカツに憧れていたようなので、この際思い切ってここでその夢を実現させることの様である。というのも、相棒の連れは肉類にはあまり関心がなく、積極的に食べようとしないので、一緒だとオーダーしにくいらしい。構わずに自分の好きなようにしたらというのだけど、それがなかなかできないらしい。その心理はよく解らない。今日はその枷を外したようでめでたいことであった。

 弥五郎伝説とはどんなものなのか知りたいと思ってここへ来たのが目的の一つだったが、レストランの片隅に小さな張り紙にそのようなことが書いてあるだけで、他には何の資料も見当たらなかった。やたらに黒豚や牛のことばかりが宣伝されているだけで、弥五郎どんのことはさっぱりわからない。なんだこれはと思いつつ、食事の後物産の販売所で少し野菜などを買って車に戻り出発しようと動かしたら、いきなり運転席の正面に弥五郎どんの巨大な像が目に飛び込んできた。驚いて、オッと出発を思いとどまり、そこへ行ってみることにした。この道の駅は相当に広くて、先ほどのレストランや販売所はほんの入り口の施設に過ぎなかったようである。中の方には広大なグランドゴルフ場や温泉施設などがあり、その温泉の裏の方に弥五郎公園というのがあって、そこに巨大な弥五郎どんの像が建っていたのだった。

 弥五郎どんというのは、実在の人物だったのかどうかはっきりしない様で、隼人族の首領だったとか、竹内宿祢だったとか諸説があるとのことだが、その昔大和朝廷に反乱を起こした、この地の英雄だったことは間違いない様で、いつかしら多くの話が混ざり合って、伝説の人物を作り上げていったということなのであろう。建っている像を見上げると、いかにも薩摩隼人らしい豪快な中にも峻厳を秘めた表情があって、良い出来映えだなと思った。うっかり見落とすところだたが、気づいてよかった。

     

弥五郎どんの巨大な像。この地域の伝説の人物とはどんな人だったのか、依然興味は尽きない。反乱者がやがて恭順者となり、為政者のために尽くすという事例の歴史は幾つもあり、この人物もそのような道をたどったのであろうか。

 その後はコインランドリーを探して志布志市の方へ。今夜は洗濯が終わったら近くにある道の駅:くにの松原おおさきに泊まろうと決めている。ここには温泉もあり、好都合である。見知らぬ県道を通って。、志布志市でR220に出る。右に行くか左に行くか、どちらに行けばコインランドリーが見つかるのか、丁半の博打のようなものである。右に行けば道の駅に近くなるというのを優先して、先ずは右折する。見つからなかったらもう一度左の方へ引き返すことになる。このような迷いは旅の中では付いて回ることなので、さほど問題にはしていない。さて、今日はどうなったのかといえば、正解の大当たりだったのでした。道の駅からは1kmほど手前の所になんと開店間もないピカピカの機械の揃ったコインランドリーを発見。さっそく処理に取り掛かる。と言っても、いつものように自分の役割は洗濯物の入った大袋を運ぶだけ。あとはすべて相棒の独壇場で、ちょっかいを出す余地など皆無。それからの3時間近くは記録の整理などであっという間に過ぎてしまった。

 洗濯の後は、道の駅に行きさっそく温泉へ。ここの道の駅は宿も兼業しているらしく、バスなどのお客さんもいてなかなかの盛況の様だった。敷地もかなり広大である。我々は温泉用の駐車場らしき場所の隅にお邪魔して、静かな一夜を送ったのだった。今日の一日は、佐多岬を除けば、移動に明け暮れた感じだった。このような日もある。

【今日(4/28)の予定行程】 

道の駅:くにの松原おおさき →(R220・R448・K36)→ 都井岬 →(K36・R448・R220・R222)→ 飫肥城下町探訪 →(R222・R220) → 鵜戸神宮参拝 →(R220) →(未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第27日=4月26日(木)>

2012-04-27 07:28:48 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:いぶすき →(R226他)→ 指宿市給油所 →(R226・R10・K60・R223)→ 道の駅:霧島 →(R223)→ 霧島神宮参拝 →(K60)→ (株)霧島町醸造所 →(K60・R10・R220他)→ くろず情報館 →(R220)→ 道の駅:たるみず →(R220・R269)→ 道の駅:根占(泊)      <230km>

【レポート】

 今日から旅の後半が始まった。鹿児島県から今度は九州の東側を北上して福岡県に戻り帰途につくこととなる。昨夜は船を下りて指宿の道の駅に戻った頃が嵐の最もひどい時期だったらしく、風雨に戸惑いを感ずるほどだったが、急ぎ夕食を済ませ、寝床に入って眠りについた後は、雨も降り止み、朝方になって目覚めたときは風も弱くなっていて、もう大丈夫という空模様だった。やれやれである。今回の旅では、特に大風に悩まされることが多いような気がする。

 さて、今日はどうするかまだはっきり決めてはいない。屋久島が終わった後の日程は一応は組んではいるけど、どうもその通りには行かない気がして、作った本人がそう思い、相棒も又、そんな無理の入った日程など実現するはずがないと思い込んでる様子なので、ここからはいつものように行き当たりばったりのやり方でもいいんじゃないかと思い始めている。とりあえず今日は城下町鹿児島市のシンボルともいえる仙巌園などを訪ねた後、霧島市の方に向かい、鹿児島神宮に参拝の後、大隅半島を南下して、どこか適当な道の駅に泊まろうと考えている。元々の予定では、最南端の佐多岬まで行って、引き返して根占の道の駅に泊まろうなどと考えていたけど、そんな強行日程はとても無理なのは明白なのだ。

 といういい加減な行程の腹積もりで、先ずは給油をしようともう一度指宿市街の方へ出向く。わざわざ逆方向へ行かなくてもいいようなものなのだが、指宿市内で給油価格を明示しているのは、1店舗しか見いだせなかったからである。鹿児島県エリアでは、殆どの店が売価を明示していない。3円引などと書いていながら、売価を示していないのはどういうことなのか。そのような店では絶対にといっていいほど給油しないことに決めているので、多少戻っても正しい商売をしている店で買うことにしたのだった。

 指宿で給油を終えて鹿児島市内に向かう頃から陽が差していい天気になり出した。喜入の石油備蓄基地の巨大なタンク群の脇を通って、しばらく海岸線を走って鹿児島市街へ。この走りの中で、相棒と幕末の薩摩藩の動きなどを話している内に、どうやら相棒はあまり薩摩については関心がないことが判った。一つには先年の大河ドラマの篤姫の女優があまり好きでないことがあるのかもしれない。尚古集成館や磯庭園も大金を払って見物するほどのものではないように感じている様なので、それじゃあパスして、その代りに8年前の旅で寄ったことのある霧島神宮まで足を延ばそうかということになったのである。自分的にも仙巖園などは見ており、幕末の会津藩のことを描いた「会津士魂」を読んで以降どうも薩摩や長州というのは、維新のリーダーとして双手を挙げて称賛できない気分なのである。そのことと史跡とは本来は無関係のはずなのだが、いい加減な人間なので、どうしても軽視する傾向が出てきてしまうのである。とにかく、パスすることにして、途中買い物などをして、それからは一路霧島神宮を目指す。

 大都市の鹿児島市内はさすがに混んでいて、通過するのに時間がかかった。ようやく混雑を抜けて、海岸線を姶良から隼人、国分に向かう。この辺りが合併して霧島市となったらしい。今は国分に市役所があるようだ。国分から本物の(?)霧島へは、県道を行った方が近い様なので、それを行くことにした。霧島神宮に参拝する前に、近くにある道の駅:霧島に行き昼食とする。予定よりも30分ほど遅れての到着となり、疲れた。ご飯を炊いて先ほど買ってきた新鮮な魚の刺身で食べて、少し元気を取り戻す。こんな時にはカップラーメンなどでいい加減な食事となりかねないのだけど、行き当たりばったりの旅では、急ぐ必要はないのである。腹が膨れて疲れも弱まり、イラつきも収まって霧島神宮へ。

 霧島神宮には8年前の秋に初めて参拝した。その時はちょうど秋分の日で、ホゼ祭りという収穫祭の様なものが行われており、近郊からやって来た何組もの人たちが境内の神殿の前で郷土芸能などを奉納していたのを見物した思い出がある。その時は大変な人出で、神宮のたたずまいの素晴らしさよりも、その人出の多さに圧倒されたのを思い出す。でも今日はちらほらとした人出の落ち着いた参拝となった。新緑が美しい。境内のモミジや楠などの若葉が鮮やかな緑に一帯を染め上げていた。ご神木の杉の大木までが新緑に染まっている感じだった。拝殿に立ち、二礼二拍一礼の所作で神様に敬意を表す。ここの神様は日本国建設の祖神ということらしい。天孫降臨の神話に直結した神社は、それなりに荘厳な奮起に満たされていた。連休前の静寂を溜めているのかもしれないなどと思ったりした。相棒は、何やら目的があるのか、カメラを抱えて境内の中を盛んに歩き回っていた。このような素晴らしい環境の中では、祖神の方々に守られて、どんなに歩き回っても疲れを知らぬ身体となっているのかもしれない。車に戻ってから、だいぶ経って相棒のお帰りとなった。

       

霧島神宮の荘厳なたたずまい。如何にも神話の神々が鎮座されているかのような雰囲気にあふれている。

 15時過ぎ霧島神宮を後にして、今日の宿を温泉が併設されているという道の駅:たるみずにしようと決め、出発。途中2つほどハプニングあり。その一は「明るい農村」騒動。その二は「壷畑」。

 「明るい農村」というのは、鹿児島産のいも焼酎の銘柄の名称である。東京ではプレミアム価格となっており、簡単には手に入れにくい。その醸造所が霧島神宮から至近の場所にあったのだった。工場だけかと思ったら、販売もされている様子なので、行きかけた車を戻してそこへ行ってみた。店の正面に明るい農村と書かれた掲額があり、入り口の前にはメイン商品の名称の「明るい農村」と「農家の嫁」という二つの妙な名前の木板が建てられていた。この焼酎に出会ったのは、数年前であったが、いかにもイモ焼酎らしい素朴な味に、感動したのを覚えている。変な名前というよりも戦後間もない頃の自分の故郷の様子などを思い起こさせる名称なので、最初は少しバカにして飲んだのだったが、本物と知ってからは直ちに姿勢を改めたのだった。その焼酎の製造所に出会って、感動した。霧島町醸造所というので、町がつくっているのかと訊いてみたら、そうではなく会社の名前なのだという。明るい農村も農家の嫁も、今は時代変わりして昔のそれとは全く違ったものとなっているけど、この焼酎の味はずっと不変であってほしいと思った。

      

明るい農村、霧島醸造所のユニークな販売所。ここは、米と水と気候風土と、焼酎造りの条件に恵まれた明るい農村そのものの環境だった。

 もう一つの方は、霧島市から垂水市に入る手前に福山というエリアがあり、ここが薩摩の黒酢の産地として有名な場所と知ったことだった。その中でも最も歴史のある坂元醸造という所の「くろず情報館壷畑」というのへ立ち寄った。くろずのPR施設の様なものだったけど、施設のレイアウトも展示内容も整っており、案内される方の説明も丁寧で、大変に勉強になった。一番感動したのは、壷畑と呼ばれるくろずの熟成のための壷が置かれた畑の眺めである。まさに壷の畑だった。壮観である。一体どれほどあるのか尋ねたら、5万個はあるとのことだった。これらの壷の一個一個と対話しながら、職人さんが壷畑の中を歩いて回るのだという。微生物との対話というのは、一体どういうものなのだろうかと、想像するだけでもワクワクする感じがした。この福山エリアには8軒ほどの醸造元があるらしい。くろずにもいろいろあり、皆同じように見えてもそれぞれの歴史や造り方は同じではない様で。、案内の方の話では、「くろず」と平仮名で表示しているのがこの地の特徴であり、黒酢などと漢字で表示しているものは別なのだという話だった。5年物などもあり、欲しかったけど何しろ高額なので、2年物の小さな壜を1本買った。これで2年は長生きができるかも知れない?

     

坂元醸造所のくろずの壺畑。陽光を受けて黒く輝く輝く壺の群れには神秘的なものを感ずる。植物とは違った、生き物たちがこの壺の中で活動しているのを実感できるような気がした。

 さて、その後は垂水の道の駅に向かったのだが、正面に見える桜島から立ち上る噴煙が何だかこれから行く道の駅の方向に向かってなびいている様なのである。近づくにつれ、硫黄の臭いなども漂ってきて、敏感な相棒は咳を仕出しマスクをかける羽目となった。これじゃあ、今夜ここに泊まるのは到底無理だなと思った。道の駅に着いてみると、噴煙は直接こちらには来てはいないものの、少し先の方はかなりひどい感じで、いつこちらに向かってくるかわからない状況だった。やむを得ない。ここに泊まることは断念して、思い切って根占の道の駅まで行くことに決める。これは今日第三のハプニングだったのかもしれない。温泉に入る予定も中止にして、根占の道の駅に着いたのは、19時を過ぎていた。でも途中で見た薩摩半島の開聞岳や、その近くの山に沈む夕日は、手前の錦江湾の波を金色に染めて、何とも言えない美しい景観だった。くるま旅の余慶であり、余得だった。

 根占の道の駅は当初予定していた場所だったけど、そのプロセスは全く違っており、ハプニング続きの結果の宿となった。思ったより駐車場が狭く、海が近いので相棒が騒がないかと心配したしたが、その夜は真に静かで、熟睡をものにできたのだった。

【今日(4/26)の予定行程】 

道の駅:根占 →(R269・K68他)→ 佐多岬 →(K68・R269・R220他)→ (未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第26日=4月25日(水)>

2012-04-26 05:05:10 | くるま旅くらしの話

 【行程】

御宿鶴屋 → 屋久島内観光(千尋の滝・屋久島町歴史民俗資料館・志戸子ガジュマル公園・永田いなか浜他) 宮之浦港(16時20分発 → 18時30分着)→ 指宿港 →(R226他)→ 道の駅:いぶすき(泊)

【レポート】

 御宿鶴屋の一夜は酔いに任せて直ぐに眠りにつき、いい気分で熟睡し、目覚めたのは1時過ぎだった。その後は3時間ほどブログの記事作成に取り掛かり、二度目の惰眠りを貪って起き出したのは7時近くだった。昨日までのくるま旅とは違った時間の中にあって、些か勝手が違う感じがしたが、これは当然なのかも知れない。夕食の膳も朝のごはんも何の心配もなく殿様然として頂けるというのは、我々のくるま旅ではありえないことであり、異種の旅なのだというのが改めてはっきりと確認できたような気がした。普通ならこの上げ膳据え膳の方が旅の当然の在り方だと思うけど、くるま旅の醍醐味(?)を知ってしまうと、何だか別の思いにとらわれるのである。たった1泊2日の屋久島行なのだけど、今までの旅とは全く違った時間がそこにあったのを実感した。鶴屋さんの朝ごはんは夕食とは違った行き届いた心づかいがあり、文句などはいる余地なしだった。何よりうれしいのは、釜炊きのご飯であること。一合ほどのコメを小さな釜で固形燃料を用いて炊くのだが、この水加減や火加減が絶妙で、わずかにできる焦げめしが、少年時代の懐かしい美味さの思い出につながって、何よりも嬉しかった。満腹と満足は病持ちには警戒しなければならない哀しくも愚かな注意事項なのだけど、昨日の夕食と今朝の朝食はそれを無視することにした。明日からは再び厳格な粗食を指向しなければならないけど、それは覚悟のことである。ご馳走様でした。

 さて、今日の予定だが、どうもはっきりしない。島めぐりは昨日が右回りだったので、今日は左回りで島を巡ろうと考えていたのだったが、あれこれ迷った結果、昨日寄らなかった千尋の滝というのを、もう一度右回りで行って見た後、左周りで永田エリアまで行き戻ることにしようと決めて出発。千尋の滝は(せんぴろ)の滝と読む。ついでだけど昨日の大川の滝は(おおこ)と読むのだそうだ。地名を正確に読むのは難しい。千尋の滝は、尾之間というエリアの近くにあって、なかなかの名瀑だという。水の豊かな屋久島にあって、これを見残すことは許されないと考えた次第。

 鶴屋からは車で20分ほどの距離にあって、少し山の方への細道を辿ることになったが、無事到着。今日の天気は午後辺りからかなりの確率で雨になるとのことだが、今のところは少し雲が増え出してはいるけど雨は大丈夫のようだ。駐車場に車を留め、100mほど歩くと、昨日の大川の滝とは又違った姿形の滝がそこにあった。飛沫がかかるほどの至近距離だはなかったけど、屋久島固有の花崗岩らしき石の塊の上を、すり鉢状になって流れ落ちる水の力強さには自ずと打たれるものを感じた。滝というのは、なぜかしら人間という生き物の心を動かすものがある。

 30分以上霊気を吸った後、次の目的を宮之浦エリアにある屋久島町歴史民俗資料館と決めて向かう。地図を頼りの訪問だったが、迷いもせずに到着する。この種の建物は、日本中のどこの自治体でも作られているようで、旅をする者にとっては、その土地の歴史などを知る上で、真にありがたい施設である。時々お金をかけて造っている割には、内容がオーバー過ぎるのではないかなどと思う所もあるけど、素朴だけど解りやすくて良いなと思う方が多いのに救われる。屋久島町のそれは、後者の方だった。島であるが故に、古代などの遺跡はないように思ったのだが、縄文、弥生と石器や土器などが出土しているのを知り、ここは太古から無人島ではなかったのだと改めて知ったのだった。最も印象的だったのは、屋久杉についてだったが、入り口の所に樹齢千年を超える屋久杉と、ほぼそれと同じくらいの秋田杉の切り株が並べて置いてあって、そこに年輪の刻んだ長さの違いを比較して見られるような標本が置かれていたのを見たことだった。屋久杉に対する秋田杉の大きさは略同じなのに、その秋田杉の樹齢は200年にも満たないのである。年輪を刻む密度が全く違うのだ。屋久杉の質量がいかに大きいかが判然とする標本だった。秋田杉150年の年輪を70cmとすれば、屋久杉の150年の長さは、たった5cmほどに凝縮されているのである。圧倒的な違いがそこにあった。屋久杉がいかに厳しい条件の中で、その生命の輪を積み上げてきたのかが解るというものだ。同じ杉でも屋久杉の工芸品とその他の地方の杉材の工芸品とは全く異質な感じがするのは、このような違いに基づくのであろう。改めて屋久杉の凄さを知ったのだった。このほかにも屋久島の山々に対する島人たちの祈りというか敬虔な崇敬の気持ちを表しての岳めぐりの行事や、それぞれの山々を神の姿としての権現として崇拝する山岳宗教の存在などを知り、この島が他の種子島などとは違った暮らしの環境にあること強く印象づけられたのだった。とてもいい時間だった。

     

資料館に置かれていた屋久杉(左)と秋田杉(右)の標本木。ほぼ同じ大きさなのだが、屋久杉が千年以上の樹齢であるのに対し秋田杉は2百年に満たない。

 歴史民俗資料館を出た後は、屋久島灯台の方に向かったのだが、途中志戸子という所にあるガジュマル公園というのに立ち寄る。昨日中間というエリアにあるガジュマル園を見損なっているので、今日はどうしても見ておきたいと思った。この亜熱帯や熱帯地方でしか見られない植物をしっかり見ておきたかったのである。ガジュマルといえば、気根が有名だ。気根というのは、地下ではなく地上に出ている根と考えればいいのだと思う。呼吸をしたり保水をしたりという機能がある様だ。普段土中の中の根の様子は掘り起こさない限り見ることが出来ないけど、この植物の場合は、極端な話全身丸出しで地上に這い出して生きているわけだから、不思議といえば不思議で、何だか樹木ではなくサンゴみたいな奴の様にも思えるのである。志戸子のガジュマル公園は有料だったが、そこにあったガジュマルやアコウなどの気根を持つ大木の群れは、十二分にその正体を観察するのに役立った。アコウは、昨日の指宿港の公園にも1本の大木があったけど、ここのアコウもガジュマルに劣らず迫力のある存在だった。アコウという木は、ガジュマルほどに気根があからさまではないけど、その分、幹や枝の存在が逞しい。タブの大木に絡みつくようにガジュマルとアコウが一緒になった大きな株があったが、この連中は労りあっているのか、それとも締めつけあっているいるのか、一体どっちなのだと訊いてみたい感じがした。自然界における樹木たちの生態は、人間の時間の物差しでは解を見出すのは困難だなと思った。これらの植物たちを見ていると、熱帯のジャングルを思い起こす。まだ一度もそれを体験したことはなく、これからも体験せぬままにあの世に行くのだと思うが、ガジュマルの様な気根などと言うわけのわからぬものが溢れ絡まっている世界を一度くらいは覗いてみたいものだと思った。ま、人間社会の生き様のしがらみもこの連中に負けず劣らずにややこしいのを思えば、諦めもつくというものなのかも知れない。不思議な時間と空間だった。

     

ガジュマルの一株。何本もの気根が幹から垂れ下がり、土中に向かっている。根上がりのようにも見えるけど、やはり根は下に向かっており、何とも不思議な植物である。この根の高さは2mを軽く超えている。、

 ガジュマル公園を出た後は、一路永田というエリアの、いなか浜というのを目指す。屋久島灯台はその先にある。永田エリアに行けばどこかで昼飯を食べさせてくれる所があるのではないかと期待して行ったのだが、全く見当たらず落胆した。昨日は辛うじて救われたのだったが、今日はその願いは空しかった。それにしても喫食の店もコンビニも一軒もないとは、ここに住む人たちは一体普段はどのようにして食材などを調達し、暮らしておられるのだろうか。不思議に思った。よく探せばそのような店もあるのかもしれないけど、外来者にとってはシャットアウトされた感じである。永田浜にはウミガメが産卵に上陸するらしく、日本一のウミガメの産卵地などと書かれた案内板や、観察会のガイド要領などがかかった小屋などが建てられていた。今の時期は誰も来る人はなく、ただ、数百メートルの白い砂浜が横たわっていただけだった。そのいなか浜という所から6kmほど先に屋久島灯台があるのだが、少し行ってみると急に道が狭くなり、11時頃から降り出した雨も本降りになりかけているので、何だか急に行く気がしなくなり、引き返すことにした。

 その後は、ちんたらと宮之浦エリアまで引き返し、観光土産の店などを覗きながら時間を過ごし、15時ごろにレンタカーを返却して、トッピーの乗り場待合室に落ち着いたのだった。昨日と今日と合わせて丸々12時間ほどの使える時間があったのだけど、最後はかなり余ってしまった感じで、その割には何かに急かされ続けた感じもあり、やっぱりくるま旅とは少し違う時間だった。でも屋久島の暮らしの在り様や自然の様子については、ほんの一部だけど理解をものにすることができたと思う。本当はもう少し滞在して野山を歩き回れば、この島固有の生き物たちの在り様にもっとたくさん触れることができたのだと思うけど、それは贅沢というものだ。そう心に言い聞かせて、この屋久島訪問という1泊2日の旅を終わることにした。

 高速船トッピーは16時20分の出発で、予定通りの出航だったが、その時刻頃から風雨は次第に強くなり出し、その後の18時半の指宿到着までの間は、とんでもない荒天の中の航海となった。このことを何よりも恐れていたのが相棒だった。先日のクジラとの衝突事故以上の心の乱れを覚えて生きた心地もしていない様子に少し心配となった。白っぽく蒼い顔には、船酔いの症状も出ているようで、早く指宿に着いてくれないものかと、内心気が気でなかった。何しろ船の外の海は大変なうねり様で、雨の叩きつける窓の向こうに白波が唸りながら牙をむいているのである。種子島の港に立ち寄り、予定通り指宿港に着いた時には、心底ホッとしたのだった。しかし桟橋を渡ると、もの凄い雨と風が吹き付けてきて、こりゃあとんだお迎えになったものだと、あきれ返るほどだった。鹿児島県の薩摩と大隅エリアにはいくつかの警報が出ているらしく、こんな時に無事戻れたのは不幸中の幸いということだったのかもしれない。2日ぶりにSUN号に戻り、何だか実家に帰ってホッとした気分だった。風雨の中を道の駅:いぶすきに向かう。途中夕食の買い物をして、3回目泊りとなる道の駅に着いたのは、19時半近くだった。疲れて、食事の後は直ちに寝床の中へ。

【今日(4/26)の予定行程】 

道の駅:いぶすき →(R226他)→ 鹿児島観光(城山・磯庭園他)→ (未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第25日=4月24日(火)>

2012-04-25 04:01:32 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅;いぶすき →(R226他)→ 高速船トッピー乗り場 →(8時30分:指宿港発 → 9時55分:宮之浦港到着)→ レンタカー使用 →(K77)→ 大川の滝 →(K77他)→ 紀元杉 →(K77)→ 御宿鶴屋(泊)

【レポート】

 昨夜は一騒動の後、酔いも眠気も覚めてしまって、二度寝の寝つきには苦労させられたが、いつの間にか熟睡したらしく、3時には早や目覚めてしまった。起き出してブログの記事などを書いている内に夜が明けてしまった。九州の夜明けは早く、5時を過ぎると次第に明るさが増し、6時前には日が昇る。いや、北海道の方がもっと早いのだっけ?九州に来ていると、何でも九州中心の考え方になってしまうようだ。水平線の彼方から昇る太陽は、何とも神秘的だ。日が昇るころまでには朝食を終え、もう出発の準備は完了していた。指宿港までは20分ほど。港に行ってから船の出発を待つことにして道の駅を出る。

 港の高速船乗り場に着いても、誰もおらず事務所もシャッターが下りていた。漁から戻った漁船が獲ってきた来た魚を水揚げしていたが、その上空に30羽ほどのトンビがぐるぐる舞飛んでいて、なかなか壮観だった。あまり獲物のおこぼれにありつけない様子で、トンビたちは皆痩せている感じがした。船の出航は8時半なのでまだかなり時間がある。TVをセットしてニュースなどを見ていたが、明るいニュースは何一つなく、悲惨な交通事故だの、化学工場の爆発事故だのの話ばかりだった。ようやく8時になって、切符の手続きが始まる。この時刻まで10人ほどだった乗船客が、旅館やホテルなどのバスがやって来て、団体さんが加わり、あという間にかなり混雑した人の群れとなった。満員とはゆかなかったけど、ほぼそれに近い状況で、屋久島が結構人気のある場所なんだなと思った。先日の事故で行けなかった人たちがここに加わっているなどと、ツアーの引率の人が話していた。今日はクジラは大丈夫であって欲しい。

 高速船トッピーは予定通り8時20分頃に入航し、乗船が始まった。我々は団体さんに巻き込まれない席だったので、安堵した。団体のおばさんたちの会話は漫才のようで面白いのだけど、トーンが高すぎて、その内に面白さがうんざりさに変化することが多い。トッピーはさすがに高速船という走りぶりで、海面を滑るように進行していった。船の両側に翼がついているタイプなのかと思っていたが、そうではなかったけど、速さは本物だった。今日は波穏やかで、快速船の航行には絶好のコンディションの様だ。屋久島に着いたらどこへ行くのかなどまだ何も決まっていない。あれこれ思いを巡らしている内にやがて屋久島が見えてきた。晴れという天気なのだが、昨日の開聞岳と同じように何だかぼんやりと霞んでいる感じだった。愈々待望の島に着いたというのを実感した。

 島の中での移動にはレンタカーを予約しており、港まで迎えて頂くという話だったのだが、下りてその方へ行ってみたのだが、予約した店の迎えの人が見当たらなかった。電話をしようとしたが、何とわざわざ事前にメモをして貼っていたはずなのに、そこに電話番号は書かれていなかったのである。この種の失敗はまあ普通のことなので、相棒は自分で探す!などといってどこかへ消えてしまった。モバイルのPCで電話番号を調べていたら、レンタカーの迎えの人が見つかったらしく、相棒が戻ってきた。どこかで行き違ってしまったらしい。とにかく、足の確保が出来て先ずは安堵する。レンタカーの事務所まで車に乗せて貰い、手続きを済ませたあと車の中へ。明日の午後3時半まで借りることにしている。車種は軽自動車。新しい車を用意してくれていた。今頃の車は、キーを回さないで置くだけでエンジンがかかるようになっており、10年前に作られた車しか運転したことのない自分には、最初はちょっとばかり戸惑いがあった。走り出してしばらくするともう慣れてきた。屋久島の交通量は少ない様で、却ってこんな状況の方がより安全運転に留意する必要がある。

 さて、どこに行こうかとあれこれ迷った。先ずは観光案内所に行って、何かいい情報や資料などがないかどうか聞いてみることにした。屋久島空港の傍に案内所があるというので、そこへ向かった。空港までは15分ほどか。左手に海を見ながら似た様な地形の中をしばらく走る。右手の山は霞んでよく見えず、もしかしたらここにも黄砂が飛来しているのかも知れない。山は壁の様に連なっており、どこまで行っても宮之浦岳などはどこにあるのか見当もつかない。屋久杉などは全く見当たらず、見えるのは新緑に燃え始めた照葉樹の類ばかりだった。観光事務所の中に入り、女性の事務員から説明を受けながら、何種類かの資料を頂戴した。この担当はもっぱら相棒の仕事なのだが、彼女も土地勘がないため、何を訊いたらいいのかがはっきりせず戸惑いがちのようだった。

 先ずは、今日は右回りで、安房(あんぼう)を経由して大川の滝という所まで行ってみることにした。事務所の方の話では、その先の西部林道まで行くと鹿や猿に出会えるとかいうことだったが、行くかどうかは現地で林道の状況を見てから決めることにしようと思った。大川の滝は、今いる島の位置からはちょうど一番遠い所にあり、1時間半ほどかかる見込みである。屋久島は1周が103kmほどあり、車で回ると3時間余りかかるというのをレンタカーの会社の人が話しておられた。今日はその半分を右回りで大川の滝まで行くことにし、戻りながら主な観光地を覗き立ち寄り、時間があれば屋久杉ランドの方へ行き、車で会いに行ける、ただ1本の紀元杉を見に行こうと考えた。

 安房エリアに今日の泊りの宿があるので下見をしようと考えていたのだったが、いつの間にか通り過ぎてしまい、そのまま大川の滝の方に向かう。尾之間、平内などという集落を過ぎ栗生という集落に至る。その少し先が大川の滝である。途中左に海を見て、右手に山を見るという走りの景色は変わらないのだけど、走るにつれて山の方が一段と険しさを見せ始め、剥き出しの岩が威嚇するように険しく聳える山塊が見えだしたりした。平内という所だったか、海中温泉などというのがあったが、帰りに覗いてみようと考え、往路は下見のつもりで、大方の観光スポットの見当をつけながらの走行となった。相棒は疲れているのか、最初の頃はお腹が空いたなどと言っていたが、そのうち静かになり、やがてコックリを始めて間もなく夢の世界へと旅立ったようだった。12時近くになっているので、栗生のどこかで昼食を摂ってから滝の見物をしようと考え、食事の場所を探したのだが、なかなか見つからない。ここまで来る途中でも道脇には食事のできる店はほとんど見当たらなかったのである。諦めかけた時、蕎麦、魚めしなどと書かれた旗が揺れているのを見つけ、急ぎ周辺を見たのだが店らしいものが見当たらず、一度通過したのを戻って再度確認したら、旗から少し離れた大へん判りにくい場所に「手打ちそば松竹」という擦れた看板のお店があった。開いているのか心配だったけど、声をかけたら営業しているということで、やれやれと安堵したのだった。店の中に入ると、屋久スギ材などを使っているのか、なかなか凝った造りのいい雰囲気のお店だった。蕎麦と魚めしとをオーダーする。自分の方が蕎麦。久しぶりの蕎麦は美味かった。相棒の魚めしも好評だったようである。とにかく相棒のお腹が満たされたことで安心し、大川の滝に向かう。

 大川の滝はそこから4kmほどで、滝のすぐそばまで車で行けるようになっていた。滝の落差は88mもあり、そこから水の流れ落ちる様は壮観だった。日本の滝百選にも選ばれており、屋久島では最大の滝だということだった。山の中腹から落ちる水は、岩の斜面を二つの流れとなって白い幾つもの筋を作り、左側の一方はそれを束ねるようにして大きな滝壺を作り、もう一方は白く細い流れのままに下まで落ちているのだった。スケールの大きな滝だった。周辺にはマイナスイオンが立ち込めて、何とも言えぬ清新な空気に満ちていた。暫くその空気を深呼吸する。この景観を何とかカメラに収めようとするのだけど、滝の場合はいつもそうなのだが、全景を迫力を以て写し撮るのは不可能なのである。今回もどう頑張っても半分しか撮れなかった。でも久しぶりにスケールの大きな滝のマイナスイオンをたっぷりを吸い込むことができ、十二分に満足だった。

     

大川の瀧。落差88m。山の中腹から水流は二つに分かれて落下している。下部の方の写真を一緒に取らないのが残念。左側の流れは深い滝壺穿っている。

 滝の後は西部林道の方へ行ってみたのだが、最初は広かった道が急に狭くなって、離合も難しそうな山道となり、しかも左手は急崖なのである。馴れない車でトラブルでもあったらいやだなと思い、少し走って見て直ぐに引き返すことにした。猿や鹿などは特に会えなくても大した問題ではない。そんなことより君子危うきに近寄らずである。ということで、直ぐに引き返したのだが、広い道に戻ると、何と直ぐ傍の林の中に鹿君がこちらを見ていたのである。相棒がカメラを向けると、ポーズをとるように近くの小枝を口の中に咥え入れていた。屋久島の動物の生態系では、その頂点にいるのが猿と鹿だという。いずれも屋久島独特の進化をしたとかで、鹿などは北海道のそれの半分ほどの大きさしかない。以前縄文杉を訪ねたことがあるのだけど、その時に見聞し仕入れた知識では、屋久島というのは、九州本土とは独立した島の成り立ちであり、切り立った花崗岩の岩山が長い年月をかけて今日の姿を作り上げ、そこで育った動植物の多くは固有の進化を経て今日に至っているとのこと。それらは殆どが小型化しており、同じ名前の野草でも九州本土のものと比べると皆小さく可愛いのである。なぜ小さいのかは解らないけど、大型化するニーズがなかったのか、あるいは小型でなければ生きてゆけなかったのか、そのことは彼らに訊いてみなければ分からない。否、彼らもそんなことは解るはずがない。屋久鹿君は、あまり人を恐れない様で、かといって親近感を示すのでもなさそうなのだった。

 来た道を戻りながら、帰りに寄ろうとしていた場所を次々に見逃し、ガジュマルもフルーツガーデンも気づかぬままに通り過ぎてしまった。そのうちに相棒が屋久島まで来て屋久杉の1本も見ないとは、などと言うものだから、それじゃあ何よりも先ず屋久杉ランドの方へ行って、車で行ける紀元杉というのに会いにゆこうということにした。14時近くになっており、もうこの時間では車で行く人も少なくなっているのではと思った。安房近くまで戻り、屋久杉ランドの方へ。いやあ、それからは大変な道だった。覚悟はしていてけれど、九十九折りの道は初めは広くてこんなに良い道でいいのかと思ったほどだったけど、やがては離合も厳しい山道となった。舗装はされてはいるものの随所に穴ぼこなどがあって、厳しい箇所ばかりの道となった。この間相棒はずっとコックリばかりだったのは、幸せなことではある。40分ほど走って、屋久杉ランドの事務所に着き、そこからさらに6kmほどの山道を行った所に紀元杉はあった。

 この頃には相棒も目覚めていて、早速カメラを持って飛び出していった。我々の前を走っていた観光バスからも団体さんが下りて来られ、一時紀元杉の周りはかなり混雑した。樹齢3千年の老大樹は道脇下の斜面の中に根を据えて、天に向かっていたが、そのてっぺんの方には枝の様なものは見当たらず、周辺にいくつもの寄木の様な樹木たちを従えて、聳えていた。この樹も見るべき場所は根元の力瘤であろう。その膨らみの力強さは、そこに宿っている生命の確かさを証明しているように思えるのである。この瘤が萎えないかぎり、この樹はこれから先も樹齢を重ね加えてゆくに違いない。3千年という時間に、人間は何回生まれ変わることができるのだろうか。樹木の時間は、人間には計ることのできない物差しである。縄文杉に逢った時の感動がこの杉を見ていて改めて甦ったのだった。この樹の他にも注意して付近を見てみると、何本かの屋久杉(=樹齢千年以上のものを指していう)があるのに気が付く。中には白く立ったままに枯れつくしているのもある。立ったままに生命を燃やし尽くすというのは凄まじい気がする。そのような樹がこの辺りには何本も見られるのだった。また、シラビソなどの北国の高山帯に見られるような樹木も傍にあって、ここが南国であることなど忘れてしまっている感じがした。暫く樹齢3千年の神気を味わった後、宿への帰途に向かうことにして出発。

             

紀元杉の根元の様子。樹齢3千年。巨大な瘤がうねるように根を盛り上げている。この力強さには圧倒されるものがある。 

 帰り道では、何頭かの鹿や猿に出会った。相棒は彼らとの出会いを楽しみにしていたようで、何枚もの写真をものにして満足したようだった。山道は登る時よりも下るときの方が要注意といわれるけど、車の場合も同じと考えてよい。慎重にハンドルを握って、ようやく細道を抜け、安堵する。それにしても屋久島の海側の景色と比べた山の中の景色の違いの大きさには驚く。屋久島といえば、九州最高峰の宮之浦岳を中心とする円錐形の植生の垂直分布する島というイメージが強いように思うけど、それはとんでもない誤りであって、その実際は円錐形などではなく、宮之浦岳がどこにあるのかもわからないほどの千m級の山の突き出た、針千本の様な形の島なのであった。その山々を見渡しながら、特別な感慨を抱きながら山を下り、宿に着いたのだった。

 御宿鶴屋の泊りは楽しいものだった。風呂が良かった。洗い場が畳になっているのは珍しい。きれいで清潔感あふれる浴槽に身を沈めると、今日の疲れがすーっと溶けて消えてゆく感じがした。更に夕食が素晴らしかった。ご主人の料理に込めた思いが、出される料理の一つ一つに感じられた。屋久島の良さを伝えて、今宵の客に味わって貰おうという心づかいが伝わってきて嬉しい。見たことも味わったこともない肴での一杯は超最高である。その中で最も嬉しかったのは、トビウオのから揚げで憧れの焼酎三岳を味わえたことである。十何年か前、縄文杉に会いにこの島を訪れた時に味わったのと同じ取り合わせのメニューに出会えて、感動した。屋久島の名酒の三岳は、この10余年の間に、すっかり名を全国に知られて、今では入手困難な酒(=焼酎)となってしまったが、ここで再会できて、しかもトビウオのから揚げと一緒だとは、こんな嬉しいことはない。相棒には、「あなたが、あたしを屋久島に連れてきたのは、このためだったのでしょう」などと言われたりしたけど、もしかしたら図星だったのかもしれない。御宿鶴屋の若いご夫妻に多謝。感謝。 かくして屋久島の夜は過ぎて行った次第。

     

トビウオのから揚げ。トビウオは屋久島の代表的な魚である・これくらいの大きさのから揚げ島のが焼酎には一番合っているように思う。最高った。

【今日(4/24)の予定行程】 

御宿鶴屋 →(K77他)→(未定)→ 宮之浦港→(16時20分発→18時30分着)→ 指宿港 → 道の駅:いぶすき(泊)

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‘12年 九州春旅レポート <第24日=4月23日(月)>

2012-04-24 04:27:12 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅;いぶすき →(R226他)→ 高速船トッピー乗り場事務所 →(R26・K28)→ 池田湖 →(K28)→ 唐仙峡 →(K28)→ 枚開神社 →(K28他)→ 開聞岳山麓ふれあい公園 →(R226他)→ 道の駅:山川港活お海道 →(R226他)→ 指宿市内トッピー乗り場(泊)<86km>

【レポート】

 明日の屋久島行を控えて、今日は余裕日である。昨日も半余裕日だったが、今日は鹿児島県の薩摩半島南端の残っている観光地の開聞岳や池田湖などをゆっくり見て回り、明日に備える考えでいる。朝の天気は霧がかかっていて、うすぼんやりとした感じだったが、気温は高くやがては晴れて暑い一日となるのではないかと思った。昨夜は我々の他に何台かの旅車が泊まっていたようで、大型のキャブコンもおられたようだった。道の駅は海に突き出た高台に造られており、脇道を通って、海岸まで下りて釣りをする人などもいるらしく、竿を手に歩いている人が何人かいるのを見かけたりした。指宿はそら豆日本一の産地のようで、8時半に開かれる地産物の売店には、たくさんのそら豆が並べられていた。買いに来られる人も早くからいて、結構賑わっていた。魅力的な海産物も多くあったが、これらは屋久島から戻ってからにすることにした。そら豆とオクラを買った。夕食の肴である。

 9時半頃出発して、先ずは指宿港のトッピー乗り場の事務所に向かう。昨日の事件がどうなったのか知っておかないと、明日のことが心配だからである。今朝の鹿児島版ニュースでは、昨日の事故にあった人たちが14~15時間もかかってようやく鹿児島港に着いたなどというのが報道されて、衝突の時は海が血の色に染まっていたなどと、穏やかならぬ話がなされていた。やはりほどにひどい衝撃だったようである。トッピーの事務所に行ってみると、今朝の便は予定通り出港したということで。、明日も大丈夫だなと安心した。心配性の相棒もホッとした表情だった。

 安心を得た後は、池田湖方面へ向かう。途中から開聞岳が見える場所に来たのだが、ボンヤリと霞がかかっていて、辛うじて輪郭を確認できる程度だった。朝霧の所為でこうなっているのであろうと、先ずは池田湖の方へ行ってみることにした。池田湖はその昔子供たちも連れて一度来たような記憶がある。ネス湖のネッシーならぬイッシーなるものが出たとか見えたとかで話題になった少し後の頃ではなかったか。記憶は定かでない。先ずは行けるところまで行くことにして、観光地らしき場所は後回にしして、湖を山の上から眺望できる場所まで行ってみた。小さな公園があり、そこからの池田湖の景観はいつも写真で見るのとは異なり、北海道の摩周湖に似た感じだった。違うのは、その湖畔に棚田が上に向かって広がっており、ここには人の暮らす生吹が見えることだった。公園の周りには今を盛りとつつじの花が咲き乱れ、その上を何匹かのアゲハたちが飛び舞っていた。もうここは初夏になっているなと思った。坂を上ってくる途中の道脇には、紫蘭の花が咲きこぼれていた。

 来た道を戻り、ゆっくり走って、ドライブインなどのある場所に寄って休む。大うなぎと書かれた看板があり、水槽の様なものがあったので覗いてみると、いた!まさに巨大なまっ黒い奴が、じっと動かずに底に沈んでいた。1m以上はあろうか、太さも50cmは超えているのではなかろうか。池田湖の大うなぎの話は何度も聞いてはいるけど、実際に見たのは初めてだった。相棒は気持ちが悪くなるので見ないという。見てしまったらうなぎが食べなられなくなってしまうという心配もあるらしい。確かに見ない方がいいように思った。一時話題になったイッシーの像も幾つか造られていた。一体あれは何だったのだろうか。そして今全く話題にもならないのは、なぜなのだろうか。人間の気まぐれと錯覚は今に始まったことではなく、太古の時代などでは、このような騒ぎは連日のことだったのかもしれない。池田湖からは開聞岳が見えるものだとばかり思っていたけど、レイアウト上は見えないようになっているのか、今日は全くぼんやりした影すらも見えなかった。

 池田湖を後にして、開聞岳に向かう途中に唐仙峡という案内板があったので、何か渓谷の様なものがあるのかと行ってみたのだが、それらしいものは何もなくて、ただ流しそうめんを食べさせるという店のようなものが2~3軒あっただけだった。もしかしたらそれらの店が渓谷を独り占めにしてしまっているのかもしれない。流しそうめんの発祥の地などと書かれていたが、何のことかよく解らない。そのことにどんな意味と価値があるのか、肝心の唐仙峡を見せて貰えなけでば、思いつくこともできないではないか。少し腹を立てながら、その場を後にした。

 いい天気なのだが、霞がかかっていて、いつまで経っても開聞岳はぼんやりとしか見えない。それにしても不思議な山である。900mを超える高さの円錐形の山が、海辺にニョキッと立っているいるのである。わが故郷の筑波山よりも高いのだ。火山活動の最後のパワーが海の傍にこの山を造ったのかもしれない。てっぺんの方まで樹木で覆われており、この山にも植生の垂直分布が見られるに違いない。その開聞岳の麓に枚聞神社というのがあり、ちよっと寄って参拝した。知らずに行ったのだが、この神社には海彦、山彦兄弟の伝説が伝わっており、玉手箱の実物も残されているとか。朱色の建物が目立つ神社だった。玉手箱の方は見なかったけど、境内の楠などの大木には心を惹かれた。

 その後はもう観光には飽きて、開聞山麓にあるふれあいパークという所へ行って休むことにした。丁度昼時なので、大休止することにした。相棒は少し疲れが出たようで、あくびが次第に多くなりだしていた。こんな時は寝るに限るのである。食事の後、横になって午睡をとってもらうことにした。自分の方は、記録の整理などをした後、付近を少しばかり散策などして過ごす。ふれあいパークと呼ばれるここは、開聞岳登山の基地となっているらしく、近くにはキャンプ場などがあり、今日も登山を終えたご夫婦らしき何組かがリュックを背負って管理事務所に顔を見せておられたようだった。近くの松林の松の木が、100本以上も枯れたまま立っており、何だか不気味な感じがした。松の木の立ち枯れといえば、その原因が松喰い虫と考えられることが多いけど、こんなに大量の松の木が枯れるのは、虫の所為だけではなく土壌の富栄養価現象なのではないかと思う。もしかしたら中国から飛んでくる黄砂などが何か怪しげな物質を運んできているのかもしれない。樹木が枯れているのを見ると何だか可哀想な気持ちになるのである。ここの管理をされている人たちはどのように思っているのだろうか。

 15時までの予定が、相棒が少し早く目覚めたので、ここにいるのを止め、今夜はトッピー乗り場に泊まるのは止めにして道の駅:山川港活お海道にしようと、そこへ向かうことにして出発。昨日寄っている場所である。行って売店の中を覗いてみたけど、今夜と明日の食事の食材の調達をするにはちょっと不満があり、しばらく考えた結果、今夜は昨日と同じ道の駅:いぶすきにお世話になることに変更する。いぶすきの道の駅には、欲しいものが用意されているからだった。16時過ぎ到着。

明日は、愈々屋久島行である。トッピー乗り場までは20分程度の距離なので、明日は6時半ごろにここを出発すればいい。いろいろ持参するものの準備をしなければならないけど、先ずは自分の方も疲れているので、一杯やって一眠りすることにした。ところが、目覚める前に何やらドタン、バタンと車をいじり回る音で強制的に眠りから覚めさせられたのだった。何だろうと思い頭を起こして起きてみると、相棒が動き回っていて、水がなくなり、LPガスも切れてしまい、その補給などに大童だったとのこと。何で起こさないのかというと、幾ら起こしても目覚めなかったのだという。こりゃあ、ちょっと飲み過ぎたかと、その後はその事件の対応に追い回されたのだった。終わったのは20時を過ぎており、やれやれと車の中に戻ると、ちょうどTVのNHK家族の乾杯という番組で、屋久島訪問のことが放映されていた。丁度いいタイミングである。宮之浦小学校の子供たちとの交流のことなどが放映されていたが、明日の訪問では、何か関わりの様なものが出てくるのかもしれない。そんなことを勝手に思いながら、2度目の寝床に潜り込んだのだった。

【今日(4/24)の予定行程】 

指宿港:高速船トッピー乗り場(8時30分発) → 屋久島町:宮之浦港(9時45分着) → 屋久島観光(レンタカー)→ 御宿鶴屋(泊)

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‘12年 九州春旅レポート <第23日=4月22日(日)>

2012-04-23 07:21:08 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅;川辺やすらぎの郷 →(R225他)→ 清水磨崖仏 →(R225・K27・K232・R226)→ 道の駅:喜入 →(R226)→ 道の駅:いぶすき →(R226他)→ 指宿港:高速船トッピー乗り場 →(R226他)→ 道の駅:山川港活お海道 →(R226他)→ 長崎の鼻 →(R226他)→ 指宿市内「吉の湯」 →(R226他)→ 道の駅:指宿(泊) <106km>

【レポート】

 昨日からの強風と大雨は、明け方近くなって先ず風の方が止み、明るくなる頃には雨の方の次第に弱くなり、ついに降り尽きて止んだという感じだった。とにかく終夜にわたってとんでもない悪天候だった。こんな時は降るだけ降り、吹くだけ吹いてさっさとその悪行を収めてしまって貰った方がすっきりする。天の気分というのにもそのようなことがあるのだろうか。とにかく心配だった風も止んで、ホッとした朝だった。旅に出ると、在宅の時はほとんど気にもかけなかった毎朝の天気が気になるのは当然であり、時々天意というものを思ったりするのである。

 今日は、特段の予定もなく、明日の二日間は、明後日の屋久島行までの待機時間として、指宿近郊の観光地などを訪ねながらのんびり過ごそうと考えている。今日のメインの目的は、明後日の屋久島行の指宿港から出る高速船トッピーの乗船場とSUN号を留めておく駐車場の確認である。何しろ初めての場所なので、状況が全く分からないのである。指宿といえば、砂風呂が有名な温泉のある所くらいしか知らず、福岡に7年間も住んでいながら一度も訪ねたことが無かったのだった。

 という風に決めているが、朝地図を見ていたら、昨日通ってきた道の脇に清水磨崖仏という案内板があったけど、その近くに湧水があるとの表記があった。どんな湧水なのか、汲んでみたいなと思った。磨崖仏の方にも少しばかり関心があるので、せっかくだからちょっと覗いてみようと思った。指宿の方へはその後でも十分に時間は余るほどある。ということで、そこへ行ってみることにして出発。10分ほどで到着。磨崖仏は、岩野公園という大きな駐車場のある公園の一角にあって、その広大な公園の中を何という名か知らないけど水量の多い急流が曲がって流れており、その流れの片側が大きな剥き出しの石の壁となっていて、そこに刻まれているのだった。行ってみてまず吃驚したのは、広い駐車場に満車に近い車が泊まっており、老人や若者が続々と公園の中に向かって歩いていることだった。何やらイベントでもあるのかと看板などを見てみたけど、何もない。相棒がご老人の一人に訊いたところ、グランドゴルフに来ているのだとか。何か大会の様なものがあるらしい。中には広い芝生の広場があり、そこで大会が開かれるらしく、200人以上の人がおちこちにそれぞれのグループ仲間と話や練習などをしていた。若者の方は何やらのレクリエーション活動らしく、二つに分かれて縄跳びなどをしていた。日曜日の早朝から、近隣の大勢の老若男女が集まって、清新な空気の下で楽しく体を動かすというのは、大いに結構なことだなと思った。

 肝心の磨崖仏と湧水の方はといえば、磨崖仏は近くまで行くと、崩壊の恐れがあるとかで立ち入り禁止となっており、遠くからしかそれを望めなかった。湧水の方は、汲むというような場所はなく、ただ水量豊かな川が流れ、それを農業用に引いている用水の様なものがあるらしく、それら全体に湧水が寄与しているらしい。水の汲むのは諦め、磨崖仏の方を写真を撮ったりしていたが、近くに行かないと説明板も読めず、何のことやらさっぱりわからないので、ちょっこし失礼して禁を破り、一通り磨崖仏の説明と石壁に造られ、描かれたそれらを覗かせてもらった。実にたくさんの仏像や梵字、様々な仏印などが彫り刻まれていた。解説板によると、鎌倉時代から明治に至るまでにいろいろな方たちがここに仏に対する思いや、亡くなった人たちへの供養の意味を込めて刻んだということだった。

 磨崖仏の探訪を終えて公園の中を横切って車に戻ったのだが、何だか現代と遠い過去の間を横切ってているような感じがして、今日は磨崖仏の皆さんたちも瞑想をやめているのかなと思ったりした。老人が元気になるのが、この国にとって最も大切なことではないかと自分は思っており、このような賑やかな集いを見かけると何だか嬉しくなってしまう。北海道ではパークゴルフが盛んだけど、九州ではグランドゴルフが盛んらしい。どちらも似た様な競技だけど、土地の豊かな北海道のパークゴルフはすべて芝生に造られており、それが当然と考えられているけど、グランドゴルフの多くは土の運動場で行われることが多く、この公園でのグランドゴルフは特別に恵まれているのかなと思った。自分的にはやはりパークの方が数段面白いと思っている。そんなことはともかく、老人が元気でPPK(=ピン・ピン・コロリ)を実現しないと、この国は医療費だけで破たんする可能性を孕んでいる。PPK実現のためには心身共に健康であることが必須要件であり、この地のこの催しの様な企画が、その実現に大きく貢献するのだと思う。くるま旅も又その一つであり、勿論自分自身もPPKでゆきたいと思っている。とんだ話となりました。

 清水の磨崖仏を後にして、先ずは喜入の道の駅に行ってみることにして出発。一つ二つと山道を超えて海岸線に出て、40分ほどで喜入の道の駅に到着する。ここも初めて訪れる場所である。しかし、くるま旅の仲間内では、かなり有名になっている場所の一つだ。冬の間に北の方からやって来たくるま旅の人たちがここで越冬もどきの暮らしを楽しんでいるという話をずいぶん前から聞いている。その話の中には、楽しいものばかりではなく、近隣の地元の人からいろいろ苦情が出ているという話も混ざっており、一体どんな所で、どんな暮らしをしているのかなと一応の関心があった所である。喜入といえば、自分的には石油の備蓄基地がある場所ということぐらいしか知らず、そのような場所での長期滞在には相当の勇気がいるのではないかなどと考えていたのだった。実際に来てみると、何だかごちゃごちゃしていて、さほどに余裕のある場所とも思えなかった。温泉は低料金で、これはありがたいと思うけど、その他に関してはそれほど条件がいいとは思えなかった。

 ごみ処理に関しては、VTRのようなもので、ごみを捨てないようにとのPRの様な画面が流れており、これはもしかしたら、部外者に対する警告の様なものかなと思ったりした。そこに訴えられている内容は当然のことなのだが、売ることばかり考えて、買う側のことは考えずごみ箱を一切置かないなどという商売には、あるいは観光地に対しては怒りを覚えるのである。汚させているのは、買う側や使う側に全責任があるような言い方は、物(=財貨)の生産から流通・消費・廃棄に至る全プロセスを考えてみると、その根源は生産に始まっており、極端に言えば、物作りとはゴミ作りでもあるともいえるのである。今日の様な大量生産・大量消費の時代では、消費者のマナーだけでは御しきれないごみ処理の問題があるのではないか。規制するという方法だけではない、国家としてのごみ処理体制の構築が必要ではないかというのが持論なのだが、……。喜入の道の駅には、キャンピングカー族に対する相当の警戒があるように思われたのだった。勿論それに対抗する考えなど全くなく、むしろその気持ちの方を大切に受け止めなければならないと思っている。自分的には、道の駅での長期滞在には反対の立場であり、テーブルを出すとか、オーニングを使うとか、洗濯物を干すとかなど言語道断だと思っている。しかし、ごみ処理とこれらとは本質的に全く別のものだと思っているので、ここのところは強調しておきたい。

 喜入を後にして、次は道の駅:いぶすきに立ち寄る。ここも勿論初めての場所だ。海側にあって高台に造られた道の駅で、裏の方に展望台もあり景観も良い。今日はなかなかの賑わいで第2駐車場に車を留めて、販売所に行き、地元産のキャベツなどを買った。近くに鉄道も走っており、交通の集中する地形にあるようである。お昼は指宿港のトッピー乗り場に行ってしようと考え、直ぐに指宿港に向かう。道の駅から指宿港までは10kmほどあって、15分ほどかかった。着いてみると、広い駐車場があり、その海に近いほんの傍らに小さな建物があって、それがトッピーの乗り場の事務所だった。さっそく中に入って駐車場のことを確認したのだったが、事務所の中では数人の男たちが熱心にTVを見ているので、何事だろうと画面を覗いたら、お昼のニュースの報道だった。何とそれを見たら、高速船トッピーがクジラのようなものと衝突してけが人が出たとのことである。しかもその高速船は自力での航行ができなくなり、曳航されて鹿児島に、向かっているとか。TVを見ていたのは、事務所の人たちだけではなく、高速船に乗った観光客に関わりのあるバスの運転手の人たちだったようだ。彼らもバスをどう動かすべきか迷っているのであろう。いやあ、びっくりした。相棒はかなりショックを受けたようだった。何がショック化といえば、クジラの様なものとぶつかったという話にである。自分たちが乗った時にもぶつかるかも知れない、そして今度は船が壊れて沈むかもしれないという誇大妄想の様な心理なのである。これが収まるまでには時間が必要となる。ところで、明後日は大丈夫なのか事務所の人に訊いてみたが、何とも答えてはくれなかった。ただ、トッピーの高速船は6艘あるということなので何とかなるのではないかと自分的には思った。いずれにしても屋久島に行けるかどうかは、トッピーが運行されるかどうかにかかっており、ダメなら諦めるしかない。

 昼食の後は、長崎の鼻まで行ってみることにした。長崎の鼻には一度だけ行った記憶があるが、朧である。相棒は初めてのことである。途中道の駅:山川港活お海道という妙な名前の道の駅に寄る。鮮魚類とさつま揚げなどが販売されていた。この辺りはそら豆の産地で、もうそろそろ最盛期を過ぎているようだが、来る途中にそら豆の畑を数多く見てきている。そのそら豆を入れて作ったさつま揚げを相棒が買っていた。今夜の肴にということらしい。グッドである。長崎の鼻に行く途中に、日本最南端の駅というのの案内板があり、相棒が行ってみたいというので、ちょっと立ち寄る。「西大山」というその駅は結構人気があるらしく、観光バスなども何台もやって来ていて、かなりの賑わいに驚かされた。なんでも「最」の付く場所には人は心を惹かれるものらしい。それが何故なのかは自分にはよく解らない。

 長崎の鼻に着いたのは、15時半近くだった。今日は風呂に入るつもりでいるので植物園の中には入らず、付近の様子を少し覗いただけにして、近くの金魚草畑の花の香りを楽しみながら開聞岳の雄姿をカメラに収めて、今日は指宿のどこかの温泉に入って、道の駅:いぶすきの厄介になることに決める。指宿の温泉は、相棒がどこかで見つけてきた吉の湯という温泉に行くことにした。こんな時はナビが力を発揮して、難なく吉の湯を探し当てた。小さな温泉だったが、とても心落ち着く造りで、1時間ほど澄んだ温泉を味わった。温泉は、様々な種類の浴槽が備わっているのもいいけど、このような小じんまりとした静かなお湯も大切だなと思った。入浴料はたったの300円だった。ありがたい。

 温泉の後は、一路道の駅:いぶすきへ。先ほど来ているので、迷いはない。どこに車を留めるのか迷ったが、風当たりの一番少ない場所を選ぶことにした。それからはいつもと同じような過ごし方となったが、一つだけ気になって、トッピーの運航のことを調べようとネットのホームページにアクセスしたのだが、何も状況の説明は掲載されていなかった。このトッピーを運航している会社は、真に不親切で、予約に関しても1か月前から受け付けると言っておきながら、何回アクセスしても受け付ける画面は出て来なかった。ネットにホームページを出しているということは、情報をスピーディに伝えるということに意義があるというのに、この運営の仕方には顧客を無視するというか殆ど意識していないということが伝わってくる。明後日は本当に大丈夫なのか、心配になった。ま。、それはそれとして、先ずは安眠が大切。

【今日(4/23)の行程予定】 

道の駅:いぶすき →(R226・K28) → 池田湖 →(K28)→ 開聞岳麓の観光地探訪 → ?(未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第22日=4月21日(土)>

2012-04-22 02:26:05 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅;きんぽう木花館 →(R270・K31・R225・R27)→ 知覧武家屋敷群駐車場 →(K27・K34)→ 枕崎お魚センター →(R225)→ 川辺やすらぎの郷(泊) <70km>

 【レポート】

 きんぽう木花館の夜は、前夜から吹き始めた風が次第に強くなりだし、朝方にかけては車が時々揺り動かされる程の強風となった。今度の旅では、3回目の強風の到来である。雨はほとんど降らなかったようで、朝になって外を見てみると、雲は走っているものの雨雲はまだやって来ていない様だった。駅の傍に何やら銅像のようなものが建っているので、傍に行ってみると木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のそれだった。説明によると古事記に記されている神話の木花咲耶姫の生まれ育ったのが、阿多という所であり、この今の金峰町がその阿多にあたる場所なのだとか。その神話からここに金ぴかの像を奉ったということらしい。そばに石坂まさを作詞・作曲になる「このはなさくや姫」という歌の歌詞が書かれた記念板が建てられていた。まだ一度も耳にしていない歌だった。南東の方になるのだろうか、金峰山が、今日は風の送り主になったかの様にこちらを見下ろしていた。川の向こうにドーム型の建物があるので行ってみたら、町の歴史交流館というものだった。何やら連休の間に砂の塑像の競技会なのか、展覧会のようなものがあるらしく、前庭の辺りに、何点かの小さな作品が展示されていた。出発時刻を遅らせて見るほどでもないなと考え、入るのは止めた。

 今日の予定は、知覧の武家屋敷群跡を見るだけで、その後どうするかは何も決めていない。大変な強風なので、それに予報では午後からは雨も降り出すとのことだから、動くのは止めてどこかの道の駅を選んでそこへ行き、じっとしていることにしている。旅の中ではこんな日があっても仕方がない。一番心配なのは、3日後に迫った屋久島行の日と翌日にこのような大風が吹いて、予約しているトッピーという高速船が就航できなくなることである。これがダメになると宿の予約も不意になり、レンタカーもダメとなってしまう。くるま旅の中に予めの決め事をするとこのような心配が付きまとうので、解ってはいるものの、当日が来るまでは何がしかの心配がついて回る。ま、なるようになるしかない。

 9時過ぎ、ナビに行く先を入れて知覧に向かって出発。このところ、だんだんナビを使う回数が増えだしてきた。一応は地図を見ているけど、だんだんそれが面倒くさくなりだしたので、要注意である。基本的にナビなし主義で行きたいと考えている。地図を見る楽しみを煩わしさに変えてしまってはならないと思っている。旅の中に効率主義を取り入れるのは、必要最小限であるようにしたい。考えとやることの不一致は生来のものだけど、地図の楽しみを失うことは、旅の楽しみを大きく減退させることにつながるので、自戒しなければならないと思っている。

 知覧の町には思ったよりもかなり早く到着した。30分ほどの距離だとは地図上では思えなかったのだけど、これは勘違いのようだった。9時半過ぎには駐車場に車を留め、散策に出発する。まだ市の有料駐車場には、係りの人も来ていなかった。市役所前の信号を渡って、脇を流れる麓川というのに沿って少し歩くと、そこが知覧の麓武家屋敷群の入り口だった。麓川というのも薩摩藩のこの地の外城の麓に因んでつけられた名称であるのかもしれない。入り口の所で、武家屋敷の中に幾つかある庭園の鑑賞のための共通入園券を500円で販売しており、声をかけられたが、自分たちは庭園などを見るよりも武家屋敷の在り様を見て回るのが目的なので、途中で興味関心が湧いたら中に入ることにして、そのまま屋敷の通りに足を向ける。

 知覧が外城の中でどのような位置や役割をしめていたのかよく解らないけど、昨日の入来などに比べると、個々の屋敷の敷地はかなり広くて、余裕があるように思えた。その昔の家をそのまま保存したのか復元したのか、茅葺屋根の武家屋敷があったので、中を覗いてみた。二ツ屋と呼ばれる建築様式には、おとこ玄関とおんな玄関という二つの玄関があって、男女の区分が生活の中でも厳しかったような気がした。薩摩おごじょは逞しいと聞いているけど、それらはこのような暮らしの中で鍛えられた精神だったのかもしれない。現代のおごじょは如何に相成ってござるのだろうか。

 石垣とその上に造られた生垣は見事だった。どのような保存・維持の仕組みがあるのか分からないけど、各家の手入れは素晴らしく、武家屋敷の端然とした在り様を際立たせていた。特に槇の木の生垣は、見事に手入れされ、圧倒される感じがした。お茶の木の生垣も見事だった。けれども何よりもしっかりと昔を語っているのは、やはり石垣だと思う。ここの石垣は、他の麓の武家屋敷と比べてより以上の高さを持つ規模のものが多いように感じた。石組みも切り出した大小の石を組み合わせて作ったものや、小型の丸い玉石の様なものを積み上げたものなど、よく見ると家々によって工夫の違いが見られて面白い。庭の方は、有料の所には入らず終いだったが、無料の家の縁側に腰掛けながら、そこに設えられた庭石などのレイアウトを見ながら、どの家でもそれなりに工夫がなされて、それぞれが自分の庭の景観を楽しんだのではないかと思った。競って庭園を造ったのではなく、武士といっても郷士である身分では、せめて庭ぐらいは自分の思いを込めて造り、鑑賞しようと考えたのではないか。そのようなことを考えながら、1時間半ほどかけて屋敷の中をあちこちと散策した。

   

知覧麓武家屋敷群の景観。ここは庭園をウリにしているだけあって、石垣の上に作られた生垣が見事だった。植えらtているのは、槇の木とお茶のき木が多いように思った。

 バスツアーの観光客も多く、中には外国からの来客も混ざって、この観光地はなかなかの盛況のようだった。これだけ整備が行き届いておれば、現代に残る昔の日本を訪ねることに興味がある者なら、一度はここを訪ねてみたいと思うに違いないと思った。相棒とはとうの昔に別行動となっていた。早く車に戻るのはいつも自分の方である。相棒という人は、こんな場所では、必ず誰かを捉まえて話し込むという習性を持っているので、一緒にいてそれを邪魔してはならないとも思い、いつも途中でいい加減に見切りをつけて自分は早く車に戻るのである。駐車場にはちゃんと料金徴収の人が位置に着いており、無料ではなかったようである。200円也を徴収された。リーズナブルである。

 11時半ごろようやく相棒も戻って、さて、どうするか。風は相変わらず強く吹いていて、時々突風に見舞われるけど、雨はまだ降り出してはいない。道の駅に行くには早すぎる時間である。考えた結果、枕崎に魚の市場のようなものがあると観光案内の本に載っているので、ちょっとそこを覗いてみることにした。枕崎はカツオの取り扱いで有名である。初鰹というのが、この地ではいつの頃となるのか分からないけど、行ってみたらもしかしたらそれが食べられるかも知れない。なんだかんだ言いながら、やっぱり食べ物のことは忘れ去ることはない。とにかく行ってみることにして出発。知覧から枕崎までは30分ほどの距離である。

 途中、しばらく走ると、知覧茶の栽培地がが広がっていた。黒く覆いをかぶせた畝も多く見られたけど、鮮やかな緑の新芽の映え輝く一面の茶畑の世界は、実に見事で壮観だった。霜よけの扇風機のようなものが無数に建っていて、それらが強い風の中にカラカラと音を立てているのが、少し気に入らなかったが、鮮緑の広大な広がりはそんなものを無視できるほどの豊かさに見えた。知覧茶の名は世に高いものがあるけど、こんなにも広大な作付けでの栽培がされているとは知らなかった。静岡の茶畑や京都の宇治地方の茶畑などを訪ねる機会もあったけど、知覧のこの地は周辺の山などがさほどに高くはなく、それだけに広さが目立つのかもしれない。見事な景観だった。道の脇に製茶工場があって、製品の販売もしている様なので寄って見ることにした。相棒は、今年飲むお茶を今回の九州の旅で買い求める考えでいる。嬉野や八女などの茶にも関心があるようだったが、一番の期待はこの知覧茶のようだった。というのも南国なので、新茶が手に入るかもしれないと期待したようだった。関東エリアのお茶については、どうしても原発事故の後の放射能の問題が頭から離れない様で、九州ならば安心ということらしい。事務所の中に入って、色々聞いている間、自分の方は新緑の茶畑の写真などを撮る。

   

知覧の茶畑の景観。広大な平野(といっても微妙な起伏に富んでいる)に広がる鮮緑の芸術といった感じだった。シラス台地を改良してこの畑が生まれたと聞いているけど、ここまで来るための先人の努力は並大抵のものではなかったと思う。改めてその尽力に敬意を表したい。

 相棒はだいぶ話し込んでいたようだったが、結局まだ新茶には早い時期で。、一部早く作られたものもあるけど、手が届くような価格ではなく、とても1年分を買うなんてことはできない。結局せっかく来たのだからと、何袋か昨年製のものを買ったようだった。5月の連休を過ぎてからが新茶の本番となるとのことだが、それは我々が自宅に戻った頃となってしまう。仕方がないことである。気を取り直して枕崎に向かう。10分ほどで到着。

 枕崎の海は白波を立てて荒れ狂っていた。港の中はさほどでもなかったが、それでもやっぱり3日後のことを思うと、この荒れ様が気になった。枕崎のお魚センターというのがあったので、そこへ行ってみることにした。魚の販売所を訪ねるのは久しぶりのことである。茨城県では時々那珂湊の市場に出かけていたのだったが、今は津波の被害とその後の放射能騒ぎでずっとご無沙汰している。幾ら大丈夫だといわれても、肴の放射能は個体の問題が大きいので、気になり出したら買う気にはなれないというのが、消費者の心情なのだと思う。相棒は完全に不信感を持ってしまっているので、これから先も那珂湊を魚を求めて訪ねることはできないのではないかと思っている。故郷ではそのような状況なのだけど、枕崎にはそのような心配はない。興味津々で訪ねたのだった。

 枕崎といえばカツオだと思うけど、もう昼時の所為なのか、鮮魚の方は殆ど見られず、加工品ばかりが目立って、がっかりした。カツオも2~3本あったけど、丸々1本買うわけにもゆかず、ただ見るだけだった。せっかく来たのだから昼食はここでしようと、おばちゃんが腕を奮う食堂で、魚の定食を頼んで食した。それなりに美味かった。このところべジタリアン(=菜食主義)志向を忘れかけている危うさを感じている。今日の夕食はタジン鍋にして、野菜だけにし、あとは五木の豆腐の刺身にしようなどと思ったりした。

 今夜は内陸部にある道の駅:川辺やすらぎの郷という所へ行くことに決め、向かう。食事を終えるころから雨が降り出し、次第に本降りとなった。予報通り、これから明日にかけて風雨が強まっての大荒れの天気となる様だ。嬉しくはない天のご機嫌である。心配なのは雨よりも風の方である。突風に見舞われるので、しっかりハンドルを握りながら、道の駅に着いたのは、13時半頃だった。山の谷あいのような場所に造られた道の駅なので、風の影響が少しは減って弱まるのかと思ったけど、それ以上に風の勢いは強くて、外に置いてある花や苗などの鉢も飛ばされそうなほどの状況だった。これじゃあ、どうしようもない。もうここで明日になるまでじっと我慢して過ごすことにする。まだ日暮れまでにはたっぷり時間があるので、先ずはこの旅で2回目の午睡を楽しむ。相棒は何やら計算や調べ物をしていたようで。自分が16時過ぎ目覚めて起き出した後、寝床に潜り込んでいた。相棒が眠っている間、ブログの下書きを書いたり、屋久島行の出発まで、明日からの二日間をどう過ごすかなどについてあれこれ思いをめぐらした。

 風雨は益々強くなり、風に吹かれた雨が時々車の窓に叩きつけられるようにぶつかって来ていた。この状態のまま夕食時を迎え、タジン鍋の野菜を食べながら、予定通りの喫食を済ます。TVは設定すれば映るのだろうけど、風雨が強いので外に出てそのような作業をする気にはなれず、見ないことにして再び寝床の中へ。今日はこれで終わり。

【今日(4/22)の行程予定】 

道の駅:川辺やすらぎの郷 →(K23他) 道の駅:喜入 →(R226)→ 道の駅:指宿 → ?(未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第21日=4月20日(金)>

2012-04-21 04:36:14 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅;黒之瀬戸だんだん市場 →(R328・R3・K42)→ 道の駅:樋脇 →(K42・R328他)→ 入来麓武家屋敷 → 大宮神社(入来町日の丸にあり) →(R328・R3・K32・R270他)→ 吹上温泉市営浴場 →(R270)→ 道の駅:きんぽう木花館(泊) <117km>

 【レポート】

 昨夜は思っていたよりは雨の量が少なかったようで、静かな夜を過ごすことができた。朝になって外をみると、雨は上がっており、雲も薄くなっているいるようで、もしかしたら晴れ間も出るのではないかと期待した。ネットの予報では今日は終日曇りとなっていた。時々こちらの都合のいいように予報を裏切ってくれる日があるとありがたいのだが、今日はそうなって欲しいなと思った。いつものように準備を終えて出発したのだったが、車の脇にあった何やらのコンテストの作品の蔓(かずら)のようなもので作った巨大な黒ジョカの写真を撮るのを忘れて戻り、ついでにもう一つ道の横にあった同じコンテストの巨大なスズメバチの作品もカメラに収めた。更に、そういえばここは之瀬戸という、橋の架かる前は海の航行の難所だったというのに気付き、これを見忘れるのは不謹慎と思い瀬戸の渦などを展望できる小高い丘に登ることにした。行ってみるとこれは壮観だった。今は橋が架かっているので、気づかずに通り過ぎてしまうのだけど、橋の下の方は海流の渦巻く船の難所なのだった。万葉集の歌人大伴旅人などもこの地を訪れ、故郷を偲ぶ歌を残しているとか。歌碑が建てられていた。うっかり見逃すところだった。地元の方は、道の駅などでもう少し力を入れて之瀬戸の渦潮のことなどをアピールしたらいいのにと思った。「一に玄海、二に鳴門、三に薩摩の之瀬戸」といわれる日本三大急潮との説明板があったけど、一般に知られているのは、鳴門の渦潮だけではないかと思う。長島では花フェスタが開かれるのか、開かれているのか、道の駅の周辺には様々な花が咲き乱れていて、旅の疲れをしばし癒してくれたのは嬉しい。出発が20分ほど遅れてしまったのが、この遅れた時間が貴重だったような気がした。

           

黒之瀬戸の急潮とその上に架かる黒之瀬戸大橋。この景観を見ながら、万葉の歌人大伴旅人は次のような歌を詠んだとの歌碑があった。「隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり」この急潮の流れを見ながら、故郷の吉野の瀧のこと思い出した、望郷の歌のようである。

 今日はこの先、さつま川内市にある薩摩藩外城の一つである入来麓武家屋敷を訪ねる予定だけど、その他は特に決めておらず、入来の後はどこか温泉を探して入り、その後は道の駅:きんぽう木花館という南さつま市にある道の駅に泊まることにしようかと考えている。昨日から鹿児島県入りを果たしているのだけど、先ずは薩摩半島の方に重点を置いて屋久島行までの間を過ごすようにしようと考えている。日程的には1日の余裕日があるので、どこをどう訪ねようかと、嬉しい迷いの続いている今頃なのである。

 道の駅:黒之瀬戸だんだん市場を出た後は、昨日の道を戻り、阿久根の果物店に立ち寄り、お世話になっている知人宛に少しばかり土地の柑橘類を送った。今はサワーポメロという関東では耳にしたこともない、文旦や晩白柚よりは小さく、グレープフルーツよりは少し大きい、グレープフルーツに味は似ているけど、それとは少し違った味のする果物を送ることにしたのだった。

その後はR3を南下してさつま川内市に入り、県道42号を道の駅:樋脇を目指す。途中で、飲料水とLPガスのカセットボンベなどを補給する。道の駅:樋脇には正午少し過ぎに到着。入来の武家屋敷に行く前にここで昼食、小休止とする。道の駅:樋脇に来るのは勿論初めだが、ここは市比野温泉というのがあって、なんでも幕末頃の藩主の島津久光公がこの地をメジロ取りに訪れた際に、地元のもてなしにこの湯に入られ、お湯を絶賛されたとかで、それ以来大いに名を挙げた温泉なのだとかいうことが書かれていた。道の駅には足湯があり、何人かの人が足を浸しての温泉浴を楽しんでいた。又構内には温泉を汲む場所があり、この湯は飲料にも向いているとかで、それを汲みに来る人が絶えることなく、時には列を作っているほどだった。食事の後、我々もほんの少しそのお湯を汲んだりした。

樋脇の道の駅を出た後は、近くにある入来麓の武家屋敷を訪ねる。10分ほどで到着。ここは駐車場が武家屋敷群の入り口にあって判りやすく、苦労しないで済んだ。車を降りて、城跡に建てられている小学校への道を辿りながら散策を開始する。武家屋敷を歩くのは、この旅でも今回でもう3度目となるので、凡その町づくりのコンセプトなどは見当がつくようになった。特に薩摩藩の麓という外城の場合は、その名が麓というように解りやすい。つまりは、城を中心に麓が取り巻いており、その中に馬場と呼ばれる軍事教練の施設というか広場が設けられているのである。その馬場がこの入来には3~4か所あったようで、出水麓と比べると規模は小さいのに軍事教練には力を入れていた外城だったのだろうか。その昔を如実に伝えているのは、石垣が一番だなと思いつつ、その石垣が整然と並ぶ町中を歩き回った。小さな神社や朽ちかけた石塔などが散見され、その昔にここで暮らした人々の心の拠り所や慰めの場所だったのだなと思いを馳せたのだった。1時間ほど散策の後、今日の宿を予定している道の駅のある南さつま市の方へ向かう。

     

入来麓武家屋敷の様子。この地も出水の武家屋敷の造りに良く似ており、石垣が整然と組まれて屋敷の区割りを示し、その暮らしのありようを偲ばせていた。

 武家屋敷を出て直ぐに君が代発祥の地と書かれた案内板を見つけ、ちょっと立ち寄ってみることにした。小さな村社の様な神社があり、そこへ行くと鳥居の脇に「大宮神社」と書かれた石柱があった。神社の拝殿の脇に君が代発祥の地の由来が書かれた板があり、それによるとこの神社に奉納される舞の中に君が代の一節があり、国歌君が代はこれを元にしてつくられたのだという。又この神社の周辺は「日の丸」という地名らしく、そのようなことを示す標識などが交差点の信号の表示板にも書かれていた。何だか日本国の原点を見ているような感じがしたが、その割には神社はぞんざいに扱われているようで、質素というよりも荒廃という印象を受けるのは、この国の現在や未来を象徴しているのだろうか。国家を歌わない人間が多く住みだしたこの国では、今強制的に歌わせようという動きがあるけど、君が代という、そもそもの舞とはどんなものなのか、一度見てみたいなと思った。そしてその一節の意味するものが何なのか知りたいとも思った。それを知ることは君が代の真の理解につながることであり、日本人の生き方や社会というものに対するものの考え方を知る上で大いに力になることのように思った。君が代が、天皇のためにあるというような発想ではないことが確認できるのではないかとも思ったのである。なお、私自身は君が代を歌うことに何の違和感も抱いてはいない。

     

 国歌君が代発祥の地を自負する入来町日の丸地区にある大宮神社。朱塗りの神殿は最近補修されたようだったが、その他の境内は元気がないように思えた。

  ハプニング的な立ち寄りの後は、ナビのガイドに素直に従って、道の駅:きんぽう木花館を目指す。そこへ行く途中に吹上温泉というのがあるので、先ずはそこへ寄って温泉に入ってから道の駅に行こうとする。最初ナビに吹上温泉を打ちこんだら、そこに着くまでに1700km以上あり、到着予定も明日の午前中の様な表示が出たので驚いた。よく見たらそれは何と北海道は十勝岳の麓にある吹上温泉で、白銀荘のことを指していたのである。全国にかなりの数の吹上温泉があるに違いない。薩摩半島といえば、吹上浜が有名であり、その近くにある温泉なので吹上温泉と呼ばれているのだと思うけど、倅から譲り受けた少し古いナビには、薩摩の吹上温泉は入っていなかったようで、大笑いとなった。

無事吹上温泉に着いて、当初はAC誌の付録の道の駅案内に載っている、みどり荘という所に行こうと考えていたのだが、その手前に市営の公衆浴場というのがあり、今の時間帯では空いていると思われるので、そこへ行ってみることにした。サウナも露天風呂もない、二つの浴槽だけの質素な設備の温泉だったが、却って落ち着いて入ることができて満足だった。料金も280円と安価だった。今のところ2日に1回の割で温泉に入っており、このペースで行くと、入浴料もバカにならない。良質な泉質の湯に低料金で入れることはありがたいことである。鹿児島県には低料金の入浴施設が多い様なので、これから先も大いに期待している。

17時過ぎ道の駅:きんぽう木花館に着く。温泉に出てからずっと汗が出続けていたので、先ずは着替えを済ませてさっぱりする。ここも初めて来る場所で、周辺の様子などもさっぱりわからない。きんぽうという駅名の半分は、どうやら東方にある山の名前らしい。木花館というのは、何やら此花咲くや姫の伝説のようなものから採った名なのだろうか。よく解らないけど、明日説明板をよく読んでみたいと思った。今日は先ず、体が冷えない内に一杯やって、五木の固豆腐などを味わいつつ夕食を摂ることが第一である。久しぶり(?)にビールで乾杯して、五木の山の恵みを味わう。それにしてもこの固豆腐は絶品だなと思う。何しろめったに冷奴など口にしない相棒でさえも絶賛しながら食べているのである。1日経って、チーズの様な味になってきた感がした。昨年北海道でごちそうになった牛乳豆腐にも近いような味と食感だった。明後日辺りまでは、大丈夫だななどと考えながら、食事を終え、いつものように早めの就寝となった。、

【今日(4/21)の行程予定】 

道の駅:きんぽう木花館 →(R270他) → 知覧町探訪 → ?(未定)

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