西条市氷見から横峰寺への道をとるとこのダム湖に突き当たります。そこを右折し、少し走ってまた右に入って登ると横峰寺へ、写真下の道を右に行くと石鎚登山ロープウェイ乗り場になります。正面奥の山陰になる辺りがダム堰堤です。もうしばらくして紅葉の頃には美しい景色だろうと思います。
車遍路の場合、63番吉祥寺の後でお参りしますが順番にここで紹介します。昨年の台風の後、半年ほどは通行不能で麓の別院に仮納経所を置いて凌いでいましたが4月から何とか通れるようになりました。しかし歪んだガードレールがそのまま残っていたりして完全復旧はまだまだのようです。私が35年前に通った本来の歩き遍路の道はまだ通れないようで、今は歩き遍路も大部分はこの道を通るようです。大駐車場から坂を下るとこの大師堂脇に下ります。
伊予国分寺です。35年前に道に迷ったところで、今回は気をつけて、と思っていたのですが標識に従って走ったはずなのに途中から迷ってしまって、時間をロスしました。地図通りに遠回りでも確実な道を通れば良かったかと思います。
旧国分寺は現在地から100mほど東にあり、当時の石礎や瓦が残っており国の史跡になっているようです。
境内には修行握手大師像があり、握手をしてお願いをすると叶えていただけるとか。ただし、お大師様も忙しいのでお願いは一つにして欲しいとか。
次の札所に向かう途中、ここから5kmくらいの所に桜井漆器会館があり、工程を見学でき、製品も売っています。
旧国分寺は現在地から100mほど東にあり、当時の石礎や瓦が残っており国の史跡になっているようです。
境内には修行握手大師像があり、握手をしてお願いをすると叶えていただけるとか。ただし、お大師様も忙しいのでお願いは一つにして欲しいとか。
次の札所に向かう途中、ここから5kmくらいの所に桜井漆器会館があり、工程を見学でき、製品も売っています。
永福寺から少し下ってまた登ります。随分登ったところに山門がありますが、車はその前を通って境内のすぐ横までいけます。この本堂の前、両側に沙羅双樹(夏椿)と思われる木があります。白い花が数輪まだ残っていました。ここの御住職は子ども達に武道を教えておられるとTVで紹介されていました。
泰山寺から蒼社川を渡った向かいの山の中腹にあります。寺のすぐ下に駐車場(有料)がありますが混雑している時でなければ境内まで入れます。
この寺には江戸時代、寛政年間(1789~1801)の納経帳が残っており、当時は3ヶ月かけて88ヶ所を巡拝していたようです。今の歩き遍路の倍近くかかっています。
この寺には江戸時代、寛政年間(1789~1801)の納経帳が残っており、当時は3ヶ月かけて88ヶ所を巡拝していたようです。今の歩き遍路の倍近くかかっています。
南光坊から車で10分足らず、高台の見晴らしの良いところにあります。この大師堂は数年前は宿坊前に本堂の方を向いて建っていたのですが、今は移動されて宿坊に向かい合うように建っています。
本坊前におられた年配のご婦人にお接待を受けました。手作りの手まりですが、丁寧に糸を巻いてあり、作るのも大変だったろうと思います。参拝者みんなに渡しておられましたが、一緒にキャンデーも頂いたりして却って気の毒な気がしました。「お接待」はそのお遍路さんにではなくお遍路さんを通して御大師様にするのだから拒否してはいけないと、30年前のお参りの時に言われたことがあるので有り難くお受けしました。その代わり他のお寺でもその方の安泰を祈りたいと思います。
本坊前におられた年配のご婦人にお接待を受けました。手作りの手まりですが、丁寧に糸を巻いてあり、作るのも大変だったろうと思います。参拝者みんなに渡しておられましたが、一緒にキャンデーも頂いたりして却って気の毒な気がしました。「お接待」はそのお遍路さんにではなくお遍路さんを通して御大師様にするのだから拒否してはいけないと、30年前のお参りの時に言われたことがあるので有り難くお受けしました。その代わり他のお寺でもその方の安泰を祈りたいと思います。
今治の中心部、市役所のすぐ近くにあります。元々は大三島に大山祇神社とその別当寺24坊がありましたが、島にあるため参拝に不便だと和鋼5(712)年に別宮を越智郡日吉村に移して8坊を造立、その一つが南光坊だったということです。
太平洋戦争時の空襲でで大師堂と護摩堂以外は焼失、本堂や仁王門は再建され、まだ新しく見えます。
太平洋戦争時の空襲でで大師堂と護摩堂以外は焼失、本堂や仁王門は再建され、まだ新しく見えます。
円明寺から約一時間、今治市内にあります。円明寺は「えんみょうじ」、こちらは「えんめいじ」と読みます。弘法大師が再興したときにはこのお寺も「円明寺」だったらしいのですが、明治になって第五十三番札所円明寺と同じ寺号であったため、俗称であった延命寺に改めたとのことです。
大師堂の左奥の目立たない場所にあります。灯明を置く台に擬して作ったのでしょうか、十字架の形のようにも見え、マリア像と思える姿も彫ってあります。キリシタン禁制の時代にこっそりとお参りしていた人達がいたのでしょうか。