大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

紀伊国屋文左衛門と濱口儀兵衛

2011年05月11日 | 日々の暮らし
あの日,和歌山県湯浅の町を散策していて,息子は地元の人から
「TVドラマ“JIN~仁~”に登場する(主人公がペニシリンをつくるお金を支援している)商人は,この町出身の濱口という人がモデルやねん。」と聞いたようだ。
町の散策がおわり,車を停めてある湯浅駅へと歩いていたら,船に乗った青年の銅像を発見!
息子は,「この人が“JIN~仁~”に登場する濱口儀兵衛という人?」と聞いてきた。
「稲むらの火」の話や安政地震の復興に貢献した話をしながら町を散策してきたから無理はない。
「この人は紀伊国屋文左衛門や。聞いたことないの?」と私が言うと,
「知らんわ・・・なにした人?」と彼は答えた。
(私は,紀伊国屋文左衛門の方が濱口儀兵衛より有名やと思ってた。やっぱり息子と世代が違うからやろか?)
私は,「紀州(和歌山)からみかんや材木を江戸に運んで大金持ちになった人や。」と答えたんやけど・・・
おおてたやろか???

@紀伊国屋文左衛門
生没年不詳。江戸前期の豪商。通称は紀文。紀伊国の生まれといわれ、故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなしたとつたえられる。貞享年間(1684~88)に江戸の京橋本八丁堀3丁目(東京都中央区)に材木問屋を開業。1697年(元禄10)ごろには老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀とむすびついて、駿府の豪商松木新左衛門とともに、御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達をうけおった。下総(しもうさ)国香取社の普請用材なども調達している。こうした事業は巨利を生み、奈良屋茂左衛門とならび全盛をきわめた。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽(だいじん)とよばれ、それも資力の宣伝効果となって商売上の信用を高めた。しかし、1700年幕府御用達の特権をうばわれたうえ、柳沢・荻原らが引退したことで商売もふるわなくなった。さらに深川木場の火災で所有する材木を焼失したため、正徳年間(1711~16)材木商を廃業。その後、浅草寺内のち深川八幡(東京都江東区)に閑居した。山東京伝の「近世奇跡考」(1804)によれば、34年(享保19)66歳で没したという。死後、元禄町人を代表する豪快な生きざまが、人情本や歌舞伎の題材に多くとりあげられた。

@濱口儀兵衛
濱口儀兵衛(1820~1886年)は紀州、総州(千葉銚子)、江戸で代々手広く醤油製造業を営む濱口家(ヤマサ醤油)七代目当主。(湯浅廣村は醤油発祥の地)
儀兵衛は佐久間象山に学び、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を結ぶ。地震発生前にも私財で「耐久社」(現県立耐久高校)や共立学舎という学校を創立するなど、後進の育成や社会事業の発展に努めた篤志家。地震発生当時34歳の働き盛り、自らも九死に一生を得た後、直ちに救済、復興対策(橋梁、堤防構築、失業対策等)に奔走する。
翌年から4年の歳月、延べ人員56,736人、銀94貫の私財を費やして全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤「広村堤防」を築いた。これは津波で職を失った人を助けるとともに、1946年(昭和21年)に発生した昭和の南海地震津波から住民を守り抜いた。
その広村堤防は今でも広川町に史跡として残され、毎年11月に「津浪祭」が「感恩碑」の前で開催され儀兵衛の偉業を称えている。後年濱口梧陵を名乗り、新政府では大参事、初代和歌山県会議長、初代駅逓頭(郵政大臣に相当)などの要職に就き、近代日本の発展に貢献し多くの足跡を残した。世界一周の旅行中、ニューヨークで客死(66歳)するが、今でも幕末の英傑(義人)として広く愛され、畏敬されている。アメリカ・コロラド州の小学校では「稲むらの火」の英訳(ザ・バーニング・オブ・ザ・ライス・フィールズ)が副読本の教材として使われた。

【写真】①②文平(紀伊国屋文左衛門)の像
    ③紀伊国屋文左衛門本舗の飴

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8 コメント

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Unknown (山口ももり)
2011-05-11 09:02:54
いい記事ですねえ。紀国屋文左衛門、材木をイカダに組んで、太平洋岸を江戸へ渡ったとか???たしか「菜の花の沖」に書いてましたねえ。命がけの大仕事ですねえ。大きな材木を船で運ぶのとは訳が違うでしょう。濱口儀兵衛
のことは此方のブログで知りました。えらい人やなあ。
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Unknown (miwako )
2011-05-11 10:24:50
おはようございますーー

和歌山も良い所ですねぇ^0^♪

海の幸、山の幸、美味しい調味料。。
先人の知恵を守る純朴な人々が素晴らしいなぁ。

只今までに十数回の引越しをしている流浪の民の私。
故郷も安らぎの住処とて持ててません。
よしっ!頑張って終の棲家探そう~~っと。
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-05-11 17:32:42
ももりさんへ
私の世代では紀国屋文左衛門の方をしっているのに,息子の世代では濱口儀兵衛・・・
やっぱり,その時代その時代でヒーローも代わっていくものなのですね。
今度は濱口儀兵衛についてもっと知りたいと思うようになりました。

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Unknown (瓜亀仙人)
2011-05-11 17:35:53
miwakoさんへ
miwakoさんは,十数回の引越しをしている流浪の民だとか・・・
羨ましいです!
私は,井伏鱒二の山椒魚のように,この盆地から出て住んだことがありません。
今の家も,建て替えるまでは築250年という古民家でした。
憧れますねぇ~引越し!
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維持管理にお金66 (山口ももり)
2011-05-12 09:25:26
築250年という古民家....惜しいことをしましたねえ。国家的財産でした。私の田舎も、さ・あ・あ・・100年以上ってずーっと前に言ってましたから・・・さ・あ・あ・・立てかえるよりよっぽど維持管理にお金がかかるようです。
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-05-12 18:29:35
ももりさんへ
築250年の古民家生活もよかったのですが,倒れる危険性もあり,屋根の下敷きになりたくはありませんでした。
神戸の地震前に建て替えました。
結果,建て替えておいてよかったです!
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Unknown (山桜)
2011-05-12 21:38:52
「稲むらの火」のお話は聞いていましたが、地名までは知りませんでした。 何かご縁が?分かりません^^;

紀伊国屋は知っていますが、ヤマサの創業者さんのお名前までは…「JIN」で取り上げられてメジャーになったのかしら? 
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Unknown (瓜亀仙人)
2011-05-13 19:09:37
山桜さんへ
この濱口儀兵衛(梧陵)さんは,故郷の和歌山での津波復興対策以外に,医学への支援を厚く行っているらしい。
梧陵の支援と影響を受けた一人が関寛斎。
寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎(三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。
なお、西洋種痘所が焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付したということです。

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