urauranus(ゆり)のあけてびっくりおもちゃ箱

「枡野浩一のかんたん短歌blog」にトラックバックで投稿するためのblogでしたが…??? 日々の記録……記憶。

『りぼん』

2006-11-29 15:59:12 | Weblog
小学生から中学生にかけて、まんが雑誌『なかよし』を、わたしは毎月買っていた。
同級生に『りぼん』を買っている子がいて、読み終えると毎月交換していた。
六年生の時、修学旅行から帰ると、わたし宛に手紙が10通近く届いていた。親に「お前、何かしたのか?」と訊かれた。
すっかり忘れていたけれど、そういえばと思い出した。
『りぼん』のまんがのページの下には、二行の「文通しましょう」みたいなコーナーがあった。一行はメッセージ、もう一行に住所と名前、学年もしくは年齢が、小さな字で載っていた。
それに何ヶ月か前に、葉書を書いて出した記憶があった。なんとなく、軽い気持ちで出したと思う。メッセージは、いろいろもっと書いたと思うけど、詳しくは思い出せなかった。
確認したら、やっぱり『りぼん』に載っていた。
それから毎日、お手紙が届いた。
北は北海道の男の子から、南は忘れた。
男も『りぼん』を読んでいるのか??? 買っているのか??? と、とても驚いた。が、きれいな丁寧な字だった。
「お父さんは横山やすしです」という手紙もあった。が、聞いたことあるような気もするけれど……と、その時のわたしにはわからなかった……。
最初の頃に届いた手紙には返事を書いて出したのだけれど、あっという間に持っていたレターセットも買ってきたレターセットも切手もおこづかいもなくなり、返事を書くことはあきらめた。切手が入っていた子には、「ごめんなさい。こんなにお手紙をもらってしまったので、あなたとは文通できません」と、書いて出した。
『りぼん』は全部で400ページくらいはあったと思う。少なめにみても、月に200人は載っていたと思う。小さな字で、見ている人はわずかなものじゃないかと、なんとなく思っていた。
一月ちょっとたって、来た手紙の数をかぞえたら、110通くらいあった。
それから、テレビで難病の女の子に全国から激励のお手紙や鶴が届いてますというような報道を見ると、毎日毎日、きっとものすごい量が届いているんだろうなぁ……と、思った。
中学生になって、クラスメイトにお父さんが郵便配達をしている子がいて、わたしのことを知っていた。きっと、なぜ? と思っていただろう……。

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ファンレター

2006-11-29 15:57:53 | Weblog
まんが雑誌には「○○先生に、ファンレターを出そう!」と毎月、どのまんがにも必ず載っていて、小学生、中学生の頃に何度か手紙を書いて出した。
「大すきです! がんばってください」みたいな感じで。
そして必ず、コピーだったけれど、返事の葉書が届きました。すきなまんが家さんの可愛い絵と「お手紙ありがとう。これからも応援してね。がんばります」みたいなメッセージがあって、とてもうれしかった。

中学生の頃、その雑誌の全まんが家さんへのアンケートが載っていて、とあるまんが家さんが、「デビューした時に、絵がヘタだというファンレターをもらいました」と答えていて、ええっ、それってファンレターじゃないのでは……? と、びっくりした。
「絵がヘタだけれど、でもがんばってください。期待してます」……って感じだったのだろうか?

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『なかよし』とか付録とか

2006-11-29 15:55:36 | Weblog
小学生から中学生にかけて、まんが雑誌『なかよし』を、わたしは毎月買っていた。買い始めたのは小学三年生の時。
当時、380円くらいだったと思う。
毎月楽しみにしていた。まんがだけでなく付録や懸賞も。
1月号とか2月号は「豪華! 11大付録!」とか、付録もたくさんあってうれしかった。
付録は、まんが家さんの絵入りのレターセットとかノートとかシールとか、組み立てると箱になったり、ソーイングボックスみたいなのもあった。
ソーイングボックスは、木製でバスケットみたいに上に真ん中に持つところがあって、上の部分は上に開き、側面(正面?)は引き出しになってるのだけれど(この説明でわかってもらえるのか?)、それが、紙製なのだけれど、ちっちゃいけれど、すごいなあと感心していた。
レターセットも市販のものと比べたら量は少なめだったけれど、でも市販のものは380円くらいしていたので、なんてお得なんだろうと思っていた。
ノートも売っているものに比べたらページ数も少ないけれど、でも買うノートは、その頃100円だった。すきなまんが家さんの可愛い絵も入っていて、とても満足していた。
連載まんがの中に一つだけ、絵もすきじゃないし(線が太くて、絵柄も可愛くなかった。わたしには)、ストーリーもさっぱりわからなくて(セリフがほとんどなくてわたしには???だった)読まないものがあった。
で、おこづかいで買うわたしの380円が、まんが家さんや付録とか本屋さんにちょっとずつ行くのかなあ……こいつにだけは、わたしは、払いたくない! だって、読んでないんだもん!! と思った。
380円の内、こいつにいったいいくらくらい行くんだろう?
まんが家さんていくらくらいもらってるんだろう?
わたしが買いに行く本屋だけで、『なかよし』は何冊くらい売れているんだろう?
全国でいったいどれくらい売れてるんだろう?
とか、いろいろ考えた。
で、あ! 掛け算習った! 
380円×10冊 で、3800円
なんだ、ゼロつけるだけじゃん。
380円×100冊 で、38000円
380円×1000冊 で、380000円
380円×10000冊 で、3800000円
なんだかすごい大金に思え、ここでやめた。

『なかよし』の付録は、雑誌の間に薄くぺったんこになってはさまっていた。ほとんど紙製だったと思う。組み立てると(簡単だったけれど)、ちょっと感動することもあった。

3年生か4年生の時、理科の時間に顕微鏡を使い、顕微鏡がほしいなぁ、でも高そうだなぁと思っていたら、学研の科学の付録に顕微鏡が付いてきた。
筆箱よりも小さく、赤いプラスチック製で、覗くレンズ枠は黒かった。
(わたしの記憶によると、5.5×11×2.5cmくらいの直方体)
ちっちゃいのに、ちゃっちいのに、ちゃんと顕微鏡だ! すごい! と、とても感動した。
(でも、あまりというかほとんど使うことはなかった。)

二年くらい前かな? 今は小学生が買うまんが雑誌の付録に化粧品が付いていると何かで読んで、ええっ、ほんとう? と、とても驚いた。

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『なかよし』とか懸賞とか

2006-11-29 15:54:17 | Weblog
小学生から中学生にかけて、まんが雑誌『なかよし』を、わたしは毎月買っていた。
懸賞は、まんが家さんの絵入りのいろんなオリジナルグッズやサイン入り色紙、モデルが身に付けている洋服とか、見るもの全部ほしいものばかりで、毎月応募していた。応募券を貼り、希望の商品を指定しなければいけないので、これもこれもほしいんだけどなぁ~と悩みながら、毎月葉書を5枚くらいは出し続けていた。
が、まったく当たらなかった。
クラスメートの家に遊びに行ったら、
「これ、『マーガレット』で妹が当たった」
と、見せてくれたのは唐草模様の大きなハンカチ(風呂敷?)だった。小さなワンポイントに、まんが家さんの絵が入っていた。
うらやましかった。(泥棒の風呂敷の柄? と、ちょっぴり思ったけど。)
『なかよし』の懸賞はさっぱり当たらなかったけれど、中学生の頃、『増刊My Birthday』で、ヒランヤシールとミロ・ビーナス・ワッペンが当たっって、うれしかった!
(どちらも、二千円とか三千円で売られているものだったけど。ヒランヤシールは、もったいなくてずっと貼らずにとっておいたんだけど、どこにいっちゃったんだろう……? あの頃、雑誌によくヒランヤパワーペンダントの広告が載っていたんだけれど、ヒランヤパワーはどこに行っちゃったんだろう……?)
『おまじないコミックス』では日下部拓海さん(まんが家)のサイン入りハンカチが当たって、とてもうれしかった!(二十年近く前? 今も持っています。)
が、サイン入りハンカチって、色紙に書くように大きくサインと絵が入っているのかと思ってましたが、ポケットに入るくらいにたたまれたサイズの絵とサインで、なんかちっちゃい……と、ちょっと不満だった。
こういうものなのかな? それとも控えめな人だったんだろうか……。

大人になってからは数年前に、WOWWOWの「宝塚 スターの小部屋」に応募し、巧ひびきさんのサイン色紙が当たって、うれしかった!(額に入れて部屋に飾ってます。)
写真も付いていて、色紙にしっかり貼ってあり、それが少しサインに被っちゃってるのが……ちょっと悲しい。

★おまけの追記
何年か前に、名古屋から阪急交通社のバス旅行で宝塚を観に行った。
帰りのバスで、「サイン入り色紙を頂けたので、じゃんけんで勝った人にプレゼントします」と、全員でのじゃんけん大会があった。
夫婦で来ていた男性に当たり、特に喜びの表情もなく、無欲な人に当たるのかなあ……? と、思った。
「阪急交通社の宝塚観劇を利用していただけますと、必ずサイン色紙がプレゼントされるので、ぜひまた阪急交通社をご利用下ささい」と、添乗員は言っていた。(今もたぶんそうなんじゃないかと思うけど、保証はできません。)

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これは…4

2006-11-11 02:05:37 | Weblog
ほのぼの君と犬と中日ドラゴンズのキャラクター(のひとつ)です。
品名は「ドラゴンズレジかご用バッグ」で、そのポケット部分。

わたしはこれから(ちょっとの間)、鞄作りに励む。
……と書くとなんか大げさだが、
がんばってちゃんと完成させるぞ! という宣言。
(やっぱりなんか大げさ)

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これは…3

2006-11-11 01:44:15 | Weblog
オーラ写真です。
どーでもいーが、わたしのオーラはオレンジと緑であった。
そういえば昔(何年か前)、江原(啓之)さんの本を読んだ時の
オーラの色の診断結果は、オレンジだった。
(十年くらい前まではは、黄色だったのかもしれない。
オーラを撮ってくれた人は
「体調とか、別の日に撮ると、また違う色になっていることもある」
と言ってましたが。)
後ろにあるのは、『Dr.コパの風水手帳2007』。
来年のラッキーカラーは、オレンジ、ライトグリーン、ゴールドだそう。
その後ろにあるのは、オレンジとグリーンの装丁の本。

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これは…2

2006-11-07 19:01:34 | Weblog
ワタです。

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これは…1

2006-11-07 18:59:04 | Weblog
フウセントワタです。

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宿題

2006-11-06 20:42:00 | Weblog
小学一年生の頃だったと思う。
わたしはこたつで算数の宿題をしていた。ぼーっと。
とつぜん、そばにいた母親の平手打ちが飛んできた。
びっくりして母親を見ると、恐ろしい顔で
「なんだこれは! 0なのか6なのかわからん! 字というものは読めなきゃ字じゃない!!」と、怒鳴られた。
こういうことは日常茶飯事で、わたしにはこれが「ふつう」だった。
が、世間一般では「ふつう」ではないということが、だんだんわかっていった。

中学一年の時、クラスメイトの文字がさっぱり読めなかった。きたなすぎて。
一生懸命、解読しようとしたけれど、わたしには無理だった。
それをすらすら読む、別のクラスメイトに驚かされた。なんだか彼女が、すごい人に思えた。

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習い事

2006-11-06 19:46:18 | Weblog
わたしが通っていた幼稚園にはエレクトーンが何台かある部屋があり、土曜日の午後、ヤマハの音楽教室の先生が来て、希望者は受けられた。よく憶えてないけど、希望者は多くて、何クラスか時間ごとに分けられていたと思う。
それを受けられるのは年中からで、わたしは二年間受けた。母親の希望だったと思う。
(幼稚園には、わたしは三年通った。わたしの希望らしいが、近所の子が一つ年上の子が多かったから、そりゃ誰でも「わたしも行きたい」と言うだろう。)
小学生になり、近所にはそろばん塾があった。そこは二階がそろばん塾で、一階に自転車置き場と小さな部屋があった。
小さな部屋にはピアノとエレクトーンが置かれていて、ピアノ兼エレクトーン講師が雇われていた。そこへ、週一回、ピアノを習いに行っていた。
20分だったか30分だったか忘れたけど、自分の時間が決まっていて、少し早めに行って勝手に入り、ソファに座って楽譜を開きながら準備し、前の人の終わるのを待つという感じだった。
終わったら、「ありがとうございました」と、さっさと帰る。流れ作業(?)な感じ(?)。
わたしは、学校と違って、「練習してきた」と言えばどんどん進み、みてもらえるピアノが楽しくて、練習した。
三年生になってすぐ、「私が教えられることはもうないので、私の先生を紹介します」と言われた。
それから土曜日の夜、隣の市の新しい先生〈男)の所へ、母親の運転する車で通うことになった。片道40分くらい。
その先生の家は農家だと聞いたような記憶があるけれど、そうだったのかよくわからない。
離れに、診療所の待合室のような感じの部屋があり、古いオルガンやソファ、壁には時計があった。
奥の部屋はとても広く、ゆったりと真ん中にグランドピアノが二台並んで置かれていた。部屋にはレコードや楽譜の入った本棚やソファがあった。
レッスンは30分だったか40分だったか忘れたけど、時間が決まっていた。が、5分で終わることもあれば、2時間たっていたこともあった。
レッスンが終わり部屋を出ると、次に習いに来ている女の子がお母さんと待っていた。
母親は二人に謝っていた。
その先生の所には一年も通うことはなかった。
ある日、レッスンが終わった後、「お母さん、お話が……」と、わたしは待合室で待っていた。
翌週、レッスンを受けに行き、レッスンは受けずに帰ってきた。
部屋に入ってすぐ、「ピアノはやめることにしました。ありがとうございました」とかなんとか、母親は先生に言っていた。
「ピアノはもうやめようね」と後で、母親に言われたけれど、わたしには訳がわからなかった。
が、毎週毎週、帰り道の40分間、二人だけの車内で、母親の罵詈雑言を浴びせられ続けることに疲れていたので、少しほっとしていた。
後になって、わたしは知った。
「お母さん、お話が……」の続きは、「素質があるので、留学を考えてみて下さい」だったと。
そして、考えるも何も、うちにはそんなお金はなかった……と思う。
(でも、父親は会社の人に「娘にピアノを買ってやりたいので、金を貸してくれ」と言われ、貸してやった。その男は返しもせずに数年後、今度は「息子を野球留学させるのにお金が足りないから貸してくれ」と言い、「そんな金はない」と断ると「社内預金があるのを調べて知っている。それを貸してくれ」と言ったらしい。たぶん貸したと思う。そんな父親を持った子どもはたいへんしあわせですね。うらやましい。)
留学してもピアニストにはなれなかったと思うけど、でも、留学はしてみたかった!

庶民って、本当に、つまらない。
今度生まれる時は、絶対に金持ちの娘がいいな。

何もやめさせることはなかったのに……と、今は思うけど。
(でもまあ、習うのをやめてからピアノを弾かなくなったのは、また別の理由がある。)
昔、自分でピアノが上手だと思ったことは一度もない。
(実際、弾き込んでも、弾きこなせてもいなかったと思う。)
レコードを聴いて、なぜわたしのピアノはレコードみたいに美しくないんだろう? 曲が違うのかな? ピアノが違うから? なにが違うんだろう? と思っていた。
きっと、わたしのピアノってレコードなんかよりもすっごくイイ! と思えるくらいに上手かったら、どんな条件をも乗り越えて、きっと素晴らしいピアニストになれていただろう。
そろばん塾の一階で習っていた頃、前の生徒のレッスンの様子を聞きながら、「わたしはピアノの先生にはならないし、なれない。練習もしてこないような子はみたくないし、みれない。やる気のない子には教えられない」と、強く思ったことを憶えている。

四年生の頃だったと思うけど、ピアノをやめた後、クラスメイトに「今日、いっしょに遊ぼう。あっ、今日、ピアノの日だった。いいや、いっしょに行こう!」と、言われ、とてもおどろいた。
そして、行ってみて、さらにおどろいた。
あまりにも違っていた。
ピアノのレッスンというよりは、音楽を楽しみましょうというお遊び。
わたしもいっしょにと言われ、歌った。
最後におやつも出てきた。わたしにも。
習い始めたばかりだったのかもしれないけれど、レベル的には、幼稚園の頃のヤマハの音楽教室にも劣ると思う。

その後、「ピアノを十年習っている」と無邪気に、うれしそうに言う人のピアノを聞いて、おどろいたことがある。
「ぷ、十年習ってその程度なんて笑える」と、素直に無邪気に言ってしまえる人間であったならば、少しはわたしの気は晴れただろうか。
大人になった今、わたしの手は小さく、指は短く、ピアノを弾きたいとはあまり思えない。
かなしい。本当に、心から、かなしい。

習い事は、無意味に時間と年月をかけた方が、世間的な一般的評価も本人の満足度も高いと、わたしは学んだ。
が、わたしは凝り性で飽き性のよう。性分は、なかなか変えられるものではない。
無意味に時間と年月をかけるには、お金の力が必要だということもわかった。
努力すると、努力したからこそ、ダメになったということも多いので、何事ももっと適当にやろうと思う。

わたしは、ただ、しあわせになりたい。
神様、こんな(根性の悪いかもしれない)わたしでも、しあわせになれますか?
それともやっぱり、前世の行いがあまりにも悪かったのだろうか。

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玉ねぎのミイラ

2006-11-06 19:44:36 | Weblog
小学一年生の時、「給食は残してはいけません」「嫌いなものも食べなくてはいけません」という教師だった。
給食の時間は、席順による六人くらいの班ごとに机をつけて食べるようになっていた。
その学校は、給食の後は掃除の時間となっていて、掃除の場所はその席順の班ごとに決まっていた。
その時、わたしは一番廊下側の前の席だった。名前は忘れたけど、同じ列の後ろの方に違う班だったけれど、嫌いなものがあって給食が食べられないという子がいて、その子が教えてくれた。
机の下でティッシュを広げ何枚か重ね、それを左手に乗せ、同じ班の男子がちょっとおもしろいことを言った時に、イヤなんだけれど我慢して嫌いなものを、右手のスプーンで口へ運ぶ。そして、両手を口に当てて笑ったふりをして、吐き出す。机の下でティッシュを丸めて、それはなるべく早目にゴミ箱へポイ。
ポイントは、「口に入れるのは1回ですむように、嫌いなものだけその前に集めておく」とか「両手からティッシュがはみ出さないようにする」とか「なるべく不自然にならないように、自然にやる」とか。
しばらくやっていた。
ちゃんと、隣の席の子にも他の子たちにも気づかれずにやり、二人は成功の合図を送り合ったりしていた。
ゴミ箱は教室に二つ、大きい方は廊下側の後ろの角に、小さい方は教師の机の近く、前の黒板の下に置かれていた。
吐き出したものは、後ろの大きなゴミ箱に捨てていた。
ゴミ箱にはビニールのゴミ袋がセットされていた。図工の時間に工作をした時は、1日でゴミ箱はいっぱいになったけれど、それ以外はなかなかゴミは出ず、あふれそうになると掃除の時間にしばって焼却炉へ持って行っていた。
その時、わたしは教室を掃除する班だった。教室の掃除は六人では無理なので二班あった。
なぜかその時、ゴミ箱にはビニールがセットされていなくて、数人でビニール袋にゴミをあけていた。そのうちの一人が、こぼれたゴミの中から「これ、なんだろう?」と、かちかちになった、生まれてはじめて見る物体を持っていた。(よく憶えてないけど、大きさは消しゴムくらいで、色は茶色だったかな?)
教室にいるみんな、それが何なのかわからず、教師も「なにかなぁ」とわからなかったみたいだけれど、わたしは気づいた。
あまりに変わり果てた姿にすぐにはわからなかったけれど、それはわたしが吐き出した、ミイラと化した玉ねぎだった。
しらんぷりしてたけど、内心、いったいいつのだろう? ゴミ箱の中でいったい何が起こってたんだろう? と、とても不思議だった。
新しいものはティッシュだということがわかる形で、誰かが鼻をかんだものだと思ってるかもしれないけど、あの中には……と、わたしはゴミ袋の中身を見ていた。
わたしに教えてくれた子は、その時、校庭の草むしりの班だったと思う。そこには、いなかった。
こんなことは二度とないだろうけど、でもばれないうちにやめなくては……他の方法を考えなくては……と、小心者のわたしは思った。

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かんたん人参料理

2006-11-03 01:46:55 | Weblog
ずいぶん前に、通販のカタログ(だったかな?)に載っていた、読者の投稿レシピ。

人参一本をスライサーで薄切りにし、オイルで炒めます。
(人参は輪切りではなく、三つくらいに切って、縦に薄く切ります。)
胡椒(わたしは多め)、バルサミコ、醤油で味付けします。

これだけ。
「人参一本ぺろりです」とあったけど、その通り。
わたしは子どもの頃から、人参(ピーマンも)が大すきなので、胡椒もすきなので、たまに食べたくなって作ります。かんたんだし。
人参嫌いの人にもおすすめできるかどうかは、わかりません。

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好き嫌いとか

2006-11-03 01:44:57 | Weblog
子どもの頃から、にんじんとピーマンが大すきだった。味だけでなく、色もとてもキレイ!
緑のつやつやのピーマンの美しさは、わたしを少し、しあわせにしてくれる。
にんじんとピーマンがきらいという子どもは多いようだけれど、わたしには理解不能。
で、わたしの玉ねぎが嫌いというのも、人には理解されない。
好き嫌いではなく、アレルギー反応もじんましんも出ないけれど、拒絶反応が出る。拒絶反応の説明はめんどうで、聞いた人の気分を悪くするかもしれないようなもので、そして説明しても理解されず、ただの好き嫌いだとしか思われないので、説明はしない。
が、以前、食についてのエッセイを募集していたのを見て、衝動的に書いて送ってしまった。
そして冊子になったものが届いた。
応募のほとんどが冊子に収録されていた。
げっ、まさか採用されるなんて思ってもみなかった……。ただ、知ってほしかっただけ……。(誰かに)
目次と最初に載っていた嵐山光三郎さんの寄稿しか、未だに読んでない。
……怖くて、開けない……。
きっとほとんどの人は、食の楽しさ、素晴らしさ、喜びを書かれているんだろうと思う。
わたしの書いたものを読んでしまって気分を悪くしている方、すみません。

幼稚園、小学校、中学校とずっと給食だった。
毎日、玉ねぎが入っていた。
毎日、毎日、毎日、毎日、わたしには拷問だった。
「給食は残さず食べましょう」とか、「世界には飢えて死んでいく子どもたちもいます。残飯はゼロにしましょう」と、クラスごとに残飯の量の少なさを競う、残飯ゼロ週間というのもあった。
小学二年生の時には、帰りの会で、「今日、給食を残した人は立ってください。明日は全部食べられるようにがんばりましょう」と、毎日立たされた。
別に、だれにも迷惑かけてないのに……。
となりのクラスの若い先生は、残してもいいって言ってるのに、なんでうちのクラスは……?
なんだったか忘れたけど、「先生これ、残してもいいですか?」って生徒の十数人が聞きに行ったら、めんどくさそうに「はい」「はい」「はい」と答えて、その日だけ残してもOKになったり。
教師の嫌いなものが出た時は、近くの席の生徒に「お前これ好きだろう? やる!」と生徒の皿に入れたり。(わたしは、見た。)
教師っていいなぁ。早くおとなになりたいなぁ。と思っていた。
自分のルールは自分で決める、とも思った。

学校なんてくだらないと、ずっと思っている。

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