ナックルボーク2号 

たいしゅんの唄と野球の夕べ

スカイ・クロラ

2008年08月06日 23時46分07秒 | 映画
午後3時過ぎ。

ラゾーナ川崎の5階にある映画館を出た。
目の前には眩しい青空が広がっていた。
夏の青空に白い雲はよく似合う。

8月6日はいつもこんな
暑くて蝉の声に包まれた日が多い。

スカイ・クロラ」という作品を観た。

劇場の予告を観て
気になっていた。
押井作品は初めて観る。

物語の前半は
主人公の感情の起伏のないキャラクターに馴染めず、
なかなか映画の世界に入れないでいた。

戦闘シーンの華々しさに
「戦争賛美の映画か?」と一瞬思った。

完全に戦争のなくなった世界で
ショーとしての戦争が始まる。
しかし、これは戦争だ。
人が死んでいるのだから。
この戦争を止める抗議活動が起きていなければ、
これはとんでもない世の中だ。

その職業戦争家の登場人物たちの置かれた環境が理解出来てきて、
少しずつ彼らがいとおしくなってきた。

彼らは間違いなく人間だよ。
こんな事は絶対許される事じゃない。

戦争が始まるとまず最初に奪われるのが文化的なことらしい。
単純にこうして映画が観れなくなったり、
歌が歌えなくなったりすると思うと
やはり断固戦争には反対する。

63年前の広島は
何もなければ今日のように
ただの夏の日だった。

それが一番だ。

原爆の犠牲になった人々が
悲しまない世の中を作っていく義務が
我々にはある。

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3 コメント

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これは未だ観とらんのう... (kuehiko)
2008-08-07 02:15:18
押井守監督が過去から一貫して作品表現しとる事と高橋悠治さんが「音楽の反方法論序説」他で論じとる事とは或る意味同じ様に思えるのう...。
荘子の「胡蝶の夢」話に始まってのう...。

「音楽は単なる促しに過ぎない...」
「それがどうした?たかが映画だ...」

この螺子者ん二人はいっつもこう云いよる(笑)
勿論、前提に成っとる作品は充分に素晴らしい...。
「この世界の悪夢の源泉は一体何なのか?」

...ほいじゃあ、何が出来るんかのう?
例えば、誰もが原爆について語る事は出来る。
でも、本當に語る義務が有る者の多くは語ろうとせん。
ましてや、泣く事や悲しむ事はそれだけでは何の役にも立たんぞ...。
いつの間にか...誰かに聞いた他者との違いや起源を問う事、他愛無く信じ込む事から...戦争の準備は始まる。
オカルト嫌いの或る物理学教授が...、ダライ・ラマがあらゆる手段を持って抗して来た本當の悪夢の事を認める事は出来ずに、それよりも見かけの民主主義と見せかけの安定や理論配列とを好むのに似ての(笑)

真に成熟した者んだけが孤立を恐れんらしいのう...。
まずは、他者に対する想像力を持とう、ちょびっとだけでも自分自身で有ろう。
そうして、数千度の灼熱にも馴らされん螺子者んでおろう(笑)
8月6日 (たいしゅん)
2008-08-07 22:27:33
>あんこいちの兄貴さま。

ヒロシマの語り部の人達はみな高齢となり、風化していく一方です。
だから我々広島で生きてきた人間は、自分達の街が一瞬にして消えた悲しい歴史を伝えていく義務があります。
もう2度とあってはならない事だから。

カープの栗原選手が自身のブログで8月6日について書いています。
http://ameblo.jp/kenta-kurihara/entry-10124074888.html
他県出身の彼がカープを通して、広島の街を愛してくれているのが
よく分かり、嬉しかったです。

市民球場は平和公園そばにあり、広島出身ではないカープファンが
歴史にふれ、平和を自然に感じれる場所にあるだけに、移転は残念です。

V-pointは移転せずあそこで営業し続けてもらいたいですね。
8:15 8/6以外の365日 (kuehiko)
2008-08-08 05:45:23
>弟よ

被爆一世達にはこの世界や国家やなんかに、もの申す権利や資格は当然あるじゃろう...。
儂等の様な被爆二世以降の世代は、権利とか義務とかを云うよりも、先ず、自分自身に向けてその「資格」が有るのか?を...日々問わず語りにせにゃあならんじゃろうの...。

「原爆はいけん...クラスター爆弾もいけん...対人地雷も...んーっ、それ以外の空襲爆撃は?...じゃあライフルは?自動小銃は?リボルバーは?ダガーナイフは?DU弾は問題ない?...何人以下の殺傷能力なら無視出来る?そもそも軍隊や武器が無くなれば戦争も無くなるんか?...」

知人の戦場カメラマンは、カンボジアやサラエボで思うたらしい...
「地獄ってのは...あの世に有るんじゃなくて、この世に有るんですよ...」

語り部がいなくなるのが、風化なのか?浪費なのか?黙殺なのか?
繰り返される歴史とは何なのか?復興の内容そのものは歴史としては免責されるのか?...自分の頭ぁ、ちゃんと使うて考えにゃあいけんわいやのう(笑)

クラブや球団の応援や支援も「お仕事」になったら終いじゃ...。
ヒロシマの訴えもルーチン・ワークに成るんが「風化」じゃなかろうかの?

儂も、もう四半世紀近く世界中を断続的に放浪して来たが、「ヒロシマ」を意図して無視する人はおっても、知らん人は会うた事が無かった...。外の世界に自ら出て行かんと自分に今出来る事なんか解りゃせん...。
東京や首都圏に長く暮らすと東京大空襲や各地の空襲の話を年配の被災者から伺えたりする。放射線の影響以外、何もその悲惨さは変わらん事に若い頃は愕然とした。何よりも今現在迄、一貫して大した補償も無く、犬死に野垂れ死に同然な事に...、怒りに震える。

クラブのプロサッカーには、アジアや世界の舞台が有る...。
儂等、被爆二世三世四世...はそこに行かにゃあいけん...。