ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

歴史と紬の町 結城市内散策

2012年09月22日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2012年9月22日(土)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成24年度第18回(2012年第29回)「歴史と紬の町結城」を散策するウォーキングに参加した。


この日の行き先は結城ということもあって、車では距離があるため、電車を乗り継いで行くことにした。
また、少しでも安くということから、”ときわ路パス”が利用できる土曜日とした。
常磐線荒川沖駅には11名が集まった。


土浦駅からは4名が参加、合計15名となった。
友部駅で水戸線小山行電車を待つ。


水戸線車内
この日は男性は4名のみ、圧倒的に女性が多い。


9時54分、結城駅に到着し、駅前で準備体操だ。


駅前はタクシーが1台客待ちをしているだけで閑散としていた。


10時9分、出発。
結城に到着した時には小雨が降っていたが、いつの間にか止んでいた。


この日の先導役を結城市を推薦したH子さんに頼もうとしたが、結城は初めてとのことで、
会長が務めることに。(実は会長もこの日のコースは初めて)
まあ何とかなるだろう。


称名寺の塀


称名寺しょうみょうじ)の裏から入る。
親鸞聖人の高弟であった真仏が開基の寺。浄土真宗本願寺派の名刹である。
親鸞の直筆といわれる「往生要集」や朝光の肖像画や木像などの文化財などを所蔵。


称名寺の総門


本堂の読経がお寺中に響き渡る。スピーカーを使ってはいるが、実に朗々たる声だ。
大勢の人が本堂でお参りをしていた。
そういえば今日は、お彼岸の中日だ。
お墓参りの邪魔にならないように気をつけよう。


結城家初代朝光の墓
朝光は、下野の豪族小山政光の第3子として生まれ、14歳の時、母の寒川尼に連れられて源頼朝に見参し、
朝の一字をもらって元服した。
以来、頼朝の御家人として活躍し、寿永二年(1183)志田義広の乱の恩賞として結城郡を分け与えられたのが、
関東の名門結城家の始まりである。
称名寺には初代朝光から四代時広までの供養塔がある。


次に向かったのが称名寺のすぐ裏にある孝顕寺こうけんじ)だ。


孝顕寺は曹洞宗(禅)のお寺で、結城水野家の菩提所。
朱塗りの三門(山門)は江戸時代中期に建てられたもので、八脚、入母屋、瓦葺、楼門形式で迫力がある。
結城市指定有形文化財になっている。


孝顕寺本堂
創建は永正十二年(1515)、結城家十五代政朝が独放禅師を招いて開山したのが始まりと伝えられる。
当初は玉岡の地に永正寺として創建されたが、慶長四年(1599)十八代秀康(徳川家康の二男)により、
現在地に移され孝顕寺と寺名を改称し、七堂伽藍を造営した。
政朝夫妻の肖像画、十七代晴朝の肖像画(いずれも茨城県指定重要文化財)が伝わる。


孝顕寺の裏にはお墓がびっしりと並んでいた。
突き当ったところに結城水野家の墓がある。


酒造蔵元武勇
酒蔵見学も出来るそうだが、9月~4月の土日は定休日となっている。


街中で見かけた地蔵堂


毘沙門天の総門


毘沙門堂


毘沙門堂中興専戒上人之墓(左)
右は水子地蔵尊供養の碑


結城酒蔵
初代は、結城氏が豊臣秀吉の養子・秀康(徳川家康の二男)を継嗣として迎えた時、
秀康に随行して京都・伏見から移り住んだとされる。
安政六年(1859)の酒造鑑札を持つ、老舗の酒蔵である。


弘経寺の裏側から見えた高さ10mの結城酒蔵の煉瓦煙突は、
明治三十六年(1903)の建設と伝わり、歴史を感じさせる煙突である。
煉瓦煙突の他、酒造業を始めた安政六年(1859)の安政蔵や、慶応年間(1865~68)の新蔵は
常時見学出来るとのことなので、一度見学してみたい。
いずれも国登録有形文化財となっている。


弘経寺(ぐぎょうじ)の山門


参道は大木のトンネルになっており、ひんやりと涼しい。


二の門は楼門形式の堂々たる構えで関東十八壇林に相応しい。


弘経寺本堂
弘経寺は浄土宗の寺院で山号は寿亀山。本尊は阿弥陀如来。
創建は文禄四年(1595)、結城家18代秀康が娘松姫の菩提を弔う為、飯沼(水海道市)の弘経寺の住職檀誉上人を
招いて開山したのが始まりと伝えられている。
創建以来、一度も焼失していないそうである。


本堂の中には大勢の人がお参りをしていた。
慶長年間(1596~1615)には浄土宗関東十八檀林(学問所)が設置されている。
江戸時代の俳人である与謝蕪村に縁のある寺院としても知られている。


金福寺こんぷくじ
証誠大師一遍上人を宗祖とする時宗の寺。
正応二年(1289)他阿呑海の開基による寺院とのこと。


すぐ隣に光福寺がある。
呼明南坊上人(こみょうなんぼうしょうにん)を開山とする真言宗豊山派の寺院である。
室町時代末期の弘治四年(1558)、光福寺の佑慶(ゆうけい)が東寺の亮恵(りょうえい)から印信を受けた後中興した。
これは、裏の妙国寺から見たところ。


結城は城下町で蔵造りの家が多いことで知られる。
街中で見かけた古い蔵(1)


古い蔵(2)


妙国寺
法頂山妙国寺と称し、室町時代初期貞和元年(1345)、日宣上人を開山とする日蓮宗の寺院。


この後、安穏寺を目指したが、寺の裏道を進んでしまい道を間違ってしまった。
引き返すのも大変だし、せめて写真だけでもと撮ったのが、裏の塀越しの写真である。
安穏寺は奈良時代に律宗の寺として創建されたが、後に禅宗に改められた。
天保十二年(1841)に建てられた本堂と至徳二年(1385)に建てられた朱塗りの楼門形式の山門などがあるそうなので、
また日を改めて訪れることにしたい。


神明神社
鳥居横の碑には結城七社の六之宮と刻まれている。


神明神社で一息入れる案も出たが、まだ先が長いことから、城址公園へ向かうことに。
11時を少し回ったところだったが、店から蒲焼の何とも言えない匂いが漂ってきた。
少しお腹も空いてきた。


城址公園へ向う途中、源翁和尚げんのうおしょう)の墓が。


源翁和尚の墓
源翁和尚は南北朝期の曹洞宗の僧侶で、越後国で生まれ、陸上寺で出家。
18歳の時禅宗に転じ、能登国総持寺の峨山禅師の弟子となって修行した後、諸国を回って多くの寺院を創建した。
室町時代の応安四年(1371)に結城家八代直光の招きで結城を訪れ、安穏寺を禅宗の寺に改めて開山した。
(案内板より抜粋)


説明板に見入る。
源翁和尚は安穏寺に4年間滞在したのち、会津に行き、
さらに那須では、悪い煙を噴き上げて人や鳥獣たちに害を与えていた殺生石を二つに割り、
石の中にいた悪霊を成仏させた人物として知られている。(中略)
殺生石にまつわる伝説は、民話・能・浄瑠璃などに取り上げられ、全国的に知られており、
このことから、石を砕いたりする槌を「げんのう」と呼ぶようになったと云われている。
『そういやぁ げんのうって言ってたなぁ』
『なあるほどぉ そうだったのねっ』


源翁和尚の墓の前で、一休み。


結城小学校前を通過
『立派な校舎だわねぇ』


11時23分、城址公園の聡敏神社そうびんじんじゃ)に到着。


江戸前期「鬼日向」と恐れられた歴戦の勇士、備後国福山藩藩祖“水野勝成”が、祀られている。
結城には水野勝成のひ孫である水野勝長が1,700年に能登から移封され水野家初代結城藩主となるが、
水野家宗家でもある初代水野勝成の武功・功績を偲んで聡敏大明神として祀られたそうである。


”あじさい坂”を進んで城址公園を後にする。


後ろに見える小高いところが城址公園
かつての結城城跡だ。


松月院
曹洞宗富田山松月院と号し、本寺は、乗国寺。
享禄二年(1529)に、乗国寺四世の信及前豚が開創したと云われている。
本尊は、釈迦如来坐像と文殊菩薩像・普賢菩薩の三尊仏となっている。


伝統工芸館
館内では本場結城紬のはた織の実演及び体験ができる。


お昼は、伝統工芸館の許可を得て、前の庭で食べることにした。


『外で食べるのって美味しいわねぇ』


お昼も終わり、少しだけ工芸館を見学していくことにした。
結城と言えば「結城紬」があまりにも有名である。
2010年11月、「結城紬」の技術や歴史が、ユネスコ「無形文化遺産」に登録されたことは記憶に新しい。
伝統工芸館入口に、茨城県本場結城紬織物協同組合の方々の合作「特大暖簾」が展示されている。
値段は想像がつかない。


つむぎの器具


糸つむぎ作業の様子(写真)


真綿から糸を紡ぐ
真綿を両手で広げ「つくし」と呼ばれる器具にからみつけ、その端から糸を引き出す。
片方の手で糸を引き、唾液をつけたもう片方の指先で真綿を細く捻るようにしてまとめ糸にする。
均一な太さを保つためには熟練した技が必要であり、特に40-50歳の女性のつむぎ手の唾液には粘りがあり
照りのある良い糸ができるという。
引いた糸は「おぼけ」という容器に溜めてゆき、一秤分の真綿が全て糸になった状態を1ボッチと呼ぶ。
個人差はあるが1ボッチの糸つむぎにかかる日数は7-10日、長さは約4-5千mである。
(Wikipediaより)


熱心に機織の説明に聞き入る女性たち。


伝統工芸館を出て乗国寺へ向かう。
『あそこに見えているのが乗国寺?』


乗国寺の総門(四脚門)は延宝七年(1679)の創建。


総門をくぐると羅漢さまが並んで迎えてくれる。
左側には六地蔵が並んでいる。


山門(楼門)は大正十三年(1924)に改築されたもの。


乗国寺本堂
曹洞宗見竜山覚心院乗国寺と号し、本寺は、下総国総寧寺。
宝徳元年(1449)結城13代成朝公が結城合戦で戦死した12代持朝公の菩提を弔うために
松庵宗栄を招いて三国山福厳寺として建立したと伝えられている。
現在の本堂は、文久元年(1860)に建立されたもの。


永代供養塔「六角堂」
堂内には延命地蔵尊が本尊として祀られている。


鐘楼


乗国寺を観終わったところでほぼ半分は歩いたことになる。
ここから結城駅へ引き返すことになる。
昼過ぎ頃から日差しが強くなり、ややペースが落ちてきた。


道端にポツンと北向地蔵が佇んでいた。


13時26分、大輪寺に到着。
これまで巡った寺には見られなかった仁王門だ。


仁王像(阿の像)
門の左側には吽の像が睨みを効かせている。


仁王門の日陰で一休みだ。


大輪寺本堂
新義真言宗豊山派如意山観音院大輪寺と号する。
寺伝によると、結城家初代朝光が常陸国河内郡田河原に在った大輪坊の僧・元観僧都を招き、
安真元年(1227)坊舎を移築し、大輪寺と改め、結城家代々の祈願所となったと伝えられている。
(パンフレットより)


大輪寺を出て、市役所方向へ進む。


結城市役所が見えてきた。
白塗りの「築地塀」が印象的である。


結城市役所


結城市役所のすぐ側に住吉神社がある。
康永二年(1343)、結城七代直朝は北極星を守る北斗七星から領内の由緒ある七つの神社を
結城七社と定め庇護し、住吉神社もその一社に数えられている。


住吉神社で最後の休憩を摂り・・・


鳥居をくぐり、住吉神社を後にする。


街中に入ると、あちこちに蔵造りの建物が目に入ってきた。
真盛堂は明治三十年頃の見世蔵である。


赤萩本店はお茶や砂糖の商店だ。
明治二十年建築の老舗である。


磯田家住宅は明治中期の建築だそうだ。


こちらは元禄十一年創業の御菓子司「蛸屋
およそお菓子屋らしくない名前である。
『美味しそうだわぁ』
『我慢した方が良いよっ』


たこ焼き、たいやき、お好み焼き
『食べたいけど我慢しようっと』


14時10分、ようやく結城駅前の「観光物産センター」に到着した。


一息入れるとともに土産を買い求める。


観光物産センターを後にして結城駅に向かう。


14時30分、結城駅に到着、友部行きは14時45分、ちょうど良いタイミングである。


帰りの電車内


和やかな雰囲気が車内に溢れる。
少々お疲れ気味の人も。


車窓から加波山が見えた。
11月中旬の例会で登る山だ。
その頃には、紅葉に染まっていることだろう。


この日は駆け足で結城市内を散策して回った。
結城は初めてであり、実際歩いてみて実にお寺の多い町ということを実感した。
浄土真宗、曹洞宗、浄土宗、時宗、日蓮宗、真言宗と宗派も様々だった。
また、古い酒造や見世蔵の多い町でもあり、城下町という歴史を感じさせる町でもあった。
ウォーキングがメインということから、今回は結城のほんの一部しか見ておらず、
与謝蕪村ゆかりの句碑などまだまだ見所は多い。
機会があれば個人的にも訪れてみたい町ではある。

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