ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.92 熊本城

2014年08月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月18日(月)

この日朝、ホテル華の荘を出発し、人吉市内で土産に球磨焼酎を買い求め、
昨日回りきれなかった人吉城を一回りし、熊本城を目指した。

熊本城は別名を銀杏城と呼ばれる。

熊本城の前身は、鹿子木(かのこぎ)氏が茶臼山一帯に築城した隈本城で、
現在見られる黒板の壁が印象的な熊本城は、慶長六年(1601)、加藤清正によって築かれた。
最高所にある本丸には大天守や小天守を建て、各曲輪には宇土櫓をはじめ、
天守に匹敵する五階櫓を5基も建てて並べた。
慶長十二年(1607)に完成した。
加藤清正は城完成の4年後に没し、忠広が跡を継いだ。
しかし、寛永九年(1632)に忠広は改易となり、替わって小倉から細川忠利が入城し、
細川家は11代城主を勤め上げ、明治維新を迎えた。

熊本城の真価を天下に知らしめたのは、築城から270年も経った明治十年(1877)の西南戦争のときであった。
西郷隆盛に率いられた西郷軍が、明治政府に対して蜂起し、約4,000名の政府軍の将兵が守る熊本城を攻撃した。
政府軍の将兵は懸命に防備した。
簡単に落せるだろうとたかをくくっていた西郷軍は、城に容易に近づくことさえできなかった。
この戦いの中、西郷は「清正公と戦をしているようだ」と言ったと云われている。
落城はしなかったが、西郷軍の攻撃の前に、城内で謎の出火があり、大小天守、本丸御殿など多くを焼失した。


熊本城に近いコンビニで簡単な昼食を済ませ、12時5分、二の丸駐車場に到着。


二の丸駐車場から大天守と小天守を望む。


二の丸広場を通って西大手櫓門へ向かう。


西大手櫓門の手前の堀


西出丸の長塀に沿って堀られている。


西大手櫓門


内(西出丸)から見た西大手櫓門


広大な西出丸と長塀
その先に戌亥櫓が見える。


西出丸の戌亥櫓
西出丸の西北(成亥の方角)にある隅櫓で、木造で二層三階。
平成15年8月に復元された。


奉行丸
この曲輪は、細川氏入国後、奉行所が置かれたことから奉行丸と呼ばれている。
奉行所は御奉行所・御勘定方・小物成・御郡代の四部門からなり、多くの藩士が公務を行っていた。


奉行丸の未申櫓(ひつじさるやぐら
熊本城復元整備計画の一環として、平成15年までに未申櫓・元太鼓櫓・塀を復元した。


西出丸から見た南大手櫓門


枡形から見た南大手櫓門
櫓内部では西南戦争関連遺跡の特別展が公開されていた。
奉行丸から入れるようになっている。


西出丸から宇土櫓を望む。


巨大な破風に飾られた三層五階櫓の宇土櫓。
大天守、小天守に次ぐ「第三の天守」とも呼ばれる。


右から宇土櫓、大天守、小天守の三天守そろい踏みだ。
直線的な破風が特徴的な宇土櫓、その櫓台石垣(高さ約30m)の反り立つ姿は壮観である。
宇土櫓が巨大な天守閣のように見える。


入城料一人500円を払って頬当御門(ほおあてごもん)を入る。


頬当御門虎口枡形の石垣の先に大天守が見える。


頬当御門虎口枡形を進む。


頬当御門虎口枡形から宇土櫓の隅櫓を臨む。


平左衛門丸に進むと目の前に大天守と小天守が現れた。
その雄姿には圧倒されそうだ。


首掛石
本丸の西側、平左衛門丸に首掛石といわれる凹凸の石がある。
数人がかりでも運べなかったこの石を、横手の五郎は首に掛けて運んだと云われる。
五郎が城造りを手伝ったのは、加藤清正と一騎打ちを行い、戦死した父親の仇を討つために城に入りこむことだった。
だが五郎は取り押さえられ、井戸に投げ込まれてしまう。
上から石を次々と落されたが、五郎はそれを受け止めては足元に置き、どんどん上がってくる。
そこで砂が落され、ついに生き埋めにされたという伝説が残されている。


井戸
加藤清正は朝鮮出兵のとき、蔚山城(うるさんじょう)での籠城戦の経験から、
城内に120余りの井戸を掘ったと云われている。
この井戸もその中の一つで水面までの深さが36mもある。覗きこんで見たが底は見えなかった。
この他にも城内には17の井戸が現存している。


大天守と小天守の前に宇土櫓に登ってみる。
三層五階で、現存する11の櫓のひとつだ。
第三の天守とも云われ、他の城では天守級の大きさである。
破風が直線を活かした造りで、一種幾何学的でさえある。


宇土櫓内部


宇土櫓の柱組み模型


宇土櫓の狭く急な階段を上る。


宇土櫓の天守に到着


宇土櫓からの眺望(1)
大天守と小天守を望む


宇土櫓からの眺望(2)
宇土櫓の隅櫓、頬当御門、南大手櫓門、西大手櫓門方面


大天守・小天守の眺望はどこから撮っても素晴らしい。
昭和35年(1960)に外観が復元された。
西面から石垣を見ると、大天守の石垣は勾配が緩く、小天守の石垣は急で技術的に新しい。
このことから、当初は大天守のみで、その後石垣を積み増して小天守を建てたと推測されている。


大天守・小天守へ向かうには、本丸御殿の下を通らなければならない。
これは本丸御殿地下通路への道だ。


本丸御殿地下通路への入口
地下通路の中は暗いのでその入口は闇り御門(くらがりごもん)と云われている。


地下通路の様子
本丸御殿は、2つの石垣を跨ぐように建てられているため、通路を地下に造る必要があった。
その地下通路の中は昼でも暗いので闇り通路(くらがりつうろ)と呼ばれる。
ここが御殿への正式な入口である。
石垣の上に梁が掛けられ、そこに柱が建てられている。


地下通路の先に不開門(あかずのもん)があった。
城の北東にある門。
北東は鬼門とされ、この方角は塞いでも、開放してもいけないとされ、扉が閉ざされていた。
ちょっと外へ出てみよう。


本丸御殿の地下通路からの不開門を出たところ。


不開門の先の様子
再び本丸御殿地下通路へ戻る。


本丸御殿の地下通路を抜けると、


本丸である。
目の前に大・小天守が威風堂々と聳え、迫ってくる感じだ。


天守へ登る前に本丸御殿へ入ってみよう。


本丸御殿大広間内部
この部屋は天井が高く、大きな梁が渡されていた。


本丸御殿内部
大広間の完成後に増築されたと考えられる大台所。
天井は高く、大きな梁で支えられている。
囲炉裏には発掘された当時の石の一部をそのまま使用している。


鶴の間


鶴の間から手前から梅の間・櫻の間・桐の間・若松の間を見通したところ。
一番奥に藩主の間である若松の間がある。
若松の間に藩主が、桐の間・櫻の間・梅の間に家来が控えることになる。


梅の間・櫻の間・桐の間・若松の間と長い廊下が続く。


外は本丸御殿小広間跡だ。


若松の間は、藩主の間である。


昭君の間
本丸御殿にある最も重要な部屋である。壁や天井は絢爛の絵が描かれている。
昭君の間は、実は「将軍の間」の隠語という説もある、そうだ。


熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将である。
その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、
西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」という、のだそうだ。


御殿内部には立派な茶室もある。


こちらは家老の間


本丸御殿を出て、いよいよ天守閣へ。
大天守と小天守は昭和三十五年(1960)に再建された、望楼型の巨大天守である。
小天守をともなって清正流石垣上に建つ。
明治十年(1877)の西南戦争では城内に籠った新政府軍を西郷軍が攻めたが落城せず、城の強固さは証明された。
しかし、西郷軍の攻撃の前に、城内で謎の出火があり、大小天守、本丸御殿など多くを焼失した。


登城口は小天守で大天守が出口になっている。


小天守の登城口


小天守からの眺望(1)
大天守を望む


小天守からの眺望(2)
宇土櫓方面


小天守からの眺望(3)
長局櫓方面


小天守からの眺望(4)
NHK方面


小天守から大天守へ向かう途中、
大天守・小天守の骨組み模型が展示してあった。


大天守に到着
大天守へ登るのにかなりきつそうだったが、意外と元気そうなかみさんたちだ。


大天守からの眺望(1)
宇土櫓・西出丸方面


大天守からの眺望(2)
長局櫓、県立美術館・NHK方面
本丸御殿は大銀杏に隠れて見えない。


大天守からの眺望(3)
小天守を望む。


大天守からの眺望(4)
本丸御殿


大天守からの眺望(5)
熊本市街地の南東方面
ビルの一面全体にクマもんが描かれている。


天守閣をバックに記念撮影


長局櫓で抹茶(300円)でも飲んで一服しよう。


『美味しいっ』


本丸御殿の闇り御門を出たところから大天守を見上げる。


二様の石垣へ向かう。
正面の石垣の上に見えるのは本丸御殿だ。


二様の石垣へ向かう途中の景色は絵になる。
石垣が素晴らしい。


二様の石垣
ここの石垣は、隅部の反り(勾配)や積み方が著しく異なっている姿が同時に観れることから、
「二様の石垣」と云われている。
向かって右手、隅部の勾配が緩やかな石垣が築城当初の加藤時代のものと考えられている。
この石垣は下部は勾配が緩やかなので、何となく登れるような気がするが、途中まで登って上を見上げると
石垣が覆いかぶさってくるような錯覚を覚えるという。これこそ清正流石垣である。
左手は細川時代になって増築されたもので、勾配が急になっている。


隅部の石の形や積み方にも違いが観られ、重ね積みから算木積みへと時代による石積み技術の
進歩が解る貴重な資料となっている。
また、不揃いの石を使っている加藤時代の積み方(乱れ積み)と、比較的同じ大きさに加工した石を使い、
整然と積み上げる細川時代の積み方(布積み)も平部において観ることができる。


二様の石垣で、かみさんたちは車に戻ると言い出した。
いつものことだが、ここでかみさんたちと分かれ、石垣コースに従って竹の丸へ向かった。


石垣コースの石垣(1)


石垣コースの石垣(2)
素晴らしい石垣の美が堪能できる。


石垣コースの石垣(3)
竹の丸から大天守を望む。
中央の一段高い石垣は、竹之丸五階櫓跡と思われる。


竹の丸に立っている楠木


竹の丸の井戸
加藤清正は籠城の際に備えて城内に120余の水量豊かな井戸を掘ったと云われている。
この井戸もその中の一つで深さ約7mある。
覆屋は、市制100周年を記念して明治四年頃に撮影された古い写真を参考にして再建したもの。


竹の丸を右手に進むと、櫨方門(はぜかたもん)がある。
いったん外に出て門を撮影し、再び竹の丸へ戻る。


櫨方門の左手を観ると、飯田丸五階櫓が聳えていた。
飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓である。
この石垣の反りは急なので、細川時代のものと思われる。
飯田丸の名称は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛が管理していたことから、こう呼ばれるようになった、とのこと。


石垣コースは、櫨方門で一応終わるため、竹の丸から櫓コースを進むことにした。
竹の丸には肥後名花園がある。
第六代肥後藩主細川重賢(しげかた)が家臣の精神教育の目的で園芸を奨励したため、
同好会「花連」が生まれ、六名花の母体を築いた。
名花は、肥後椿をはじめ、


事後菊、


肥後山茶花、


肥後花菖蒲、


肥後勺薬、それに肥後朝顔の六花を言う。
かつては武士の園芸だっただけに、現在までその厳格な栽培方法が伝えられ、
一部は今なお門外不出とされており、純粋種が保たれている、そうだ。


平御櫓(ひらおんやぐら
平御櫓は、長塀の防御線を一段高い位置から援護する役割や、須戸口門から侵入した敵を、
東竹の丸との連携で挟み打ちにするための櫓であった。
櫓に登る石段は、敵が須戸口門を突破したときに、この石段を崩して侵入を防ぎ、
敵中でも孤立した拠点として最後まで戦うために造られた櫓であったと、考えられている、とのこと。


須戸口門(すどぐちもん
竹の丸の東の虎口に位置し、本丸の南側に設けられた最前線の門である。


虎口の間の門構えが柵のように隙間を開けて造られたので、須戸口門と呼ばれた。
この虎口は戦闘用に設けられたもので、平常時に出入りするところではなかった。


櫓コースに従って進む。


高石垣の上に十四間櫓・四間櫓が見える。


源之進櫓
櫓の外壁には狭間、石落としが備えられている。


熊本大神宮


東十八間櫓


六地蔵憧(ろくじぞうどう
石の六角灯篭の傘の下の龕部(がんぶ)と云われる各面に地蔵尊像を彫刻したもの。
人間は死後、六道をまわるとされており、その六道の辻に立って救済するために作られた。


本丸御殿下の石垣を進むと、


東竹の丸に出た。
先ほど下から見上げた源之進櫓・四間櫓・十四間櫓が並んでいる。
源之進櫓は、普段は武器・武具の倉庫として使われていた。


源之進櫓・四間櫓・十四間櫓に続いて七間櫓・田子櫓が並んでいる。
この後、櫓コースは東竹の丸から二様の石垣、本丸御殿へと続く。


数寄屋丸に立ち寄ってみた。
不思議な模様の地図石があった。
打込接(うちこみはぎ)という方法で、箱型に99個の切石が組まれた場所がある。
組み合わせた境界が地図のように見えるため、「地図石」と呼ばれる。
その模様は熊本城の縄張を表すとも、日本地図に見えるとも、城下町の地図とも云われてきた。
実はこの空間は、古地図には「御待合」と記されている。
来客者を遊興の場である数寄屋丸へ案内するための待合所として利用されたようで、
人の目を楽しませるために石垣と敷石をきれいに組んだものとみられる。


数寄屋丸
数寄屋丸とは、秀吉築城大坂城の「山里丸」の流れをひくもので、
熊本城における文化的遊興の空間であったと思われる。
茶会・能・連歌の会などが催され、二階御広間もそのような用途に使われていたと考えられている。(熊本市)


二の丸駐車場に向かう途中、花嫁・花婿姿の若者を見掛けた。
記念の撮影をするためなのか、時折パラつく小雨の中を南大手櫓門方向へ消えていった。


駐車場に着いたときには、15時40分を過ぎていた。
熊本城には、3時間半以上いたことになるが、それでも熊本城の全てを観た訳ではない。
まだまだ観たいところはいっぱいあったが、時間的にも、そろそろ大分へ帰る時間である。
後ろ髪を引かれる思いで熊本城を後にした。
また、何かの機会に熊本を訪れることがあれば、真っ先に訪れてみたい。

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