ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第二回 内藤新宿から高井戸宿へ

2016年05月29日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年5月29日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことにした。

「甲州街道を歩く」第二回目は、内藤新宿から高井戸宿(京王線つつじヶ丘)までの約11Kmを歩いた。
高井戸宿の最寄り駅としては、京王線芦花公園駅であるが、”距離が短すぎる”との理由で、
急遽つつじヶ丘駅まで延長した、という次第。

出発地の新宿駅南口に集まったのは、自分も入れて7名。
「特選街道を歩く」と同じ面々である。


目の前に「バスタ新宿」が。
4Fが高速バスの乗場で、3Fが降車場・タクシー乗場になっている。
『ここに新しくできたんだぁ』


9時8分、とりあえず高井戸宿の芦花公園駅目指して出発!


西新宿一丁目交差点ルミネ前


9時14分、KDDI前を通過
以前勤めていた会社だ。
土浦市に引っ越してから20年間余り通った想い出のある場所である。


通りの反対側に文化学園大を眺めながら進む。


9時20分、新宿パークタワー前を通過


西新宿三丁目交差点
直ぐ右手が首都高4号線の新宿出入口だ。


NTT東日本本社ビル
見上げていると首が疲れる。


9時30分、初台交差点を通過


続いて新国立劇場前を通過
新国立劇場は、オペラ・バレエ・ダンス・演劇など最高水準の現代舞台芸術を発信し続けます、
とのことだが、まだ一度も訪れたことはない。


甲州街道は、首都高4号線沿いに続いている。


9時48分、京王線幡ヶ谷駅付近を通過


新宿駅を出発して40分余、細い路地で一休み。
この日の予想最高気温は28度、既にそのくらいはあるだろう。


首都高4号線に沿って進む。


10時3分、中野通り幡ヶ谷陸橋を通過


笹塚駅バス停前を通過


10時17分、環七通り大原交差点を渡る。


10時22分、日本橋から13Kmの地点を通過
新宿駅を出発して休憩を入れて1時間15分なので、既に4Kmは歩いていると思われる。
『この分じゃ昼頃にゴールの芦花公園に着いちゃうねっ』
『せっかくだからもうちょっと歩いた方が良さそうだねっ』
ということで、急遽つつじヶ丘辺りまでゴールを延長することになった。


代田橋駅過ぎた辺りでビワの実を見かけた。
『こんなところでビワの実を見れるなんてねっ』


井の頭通り松原交差点
松原和泉陸橋


10時33分、井の頭線を通過


続いて明治大学前を通過
『いやぁ立派な建物だねぇ』


建物の立派さに感心しながら和泉校舎の塀に沿って進むと・・・


塩硝蔵地跡の説明板が目に入った。
次のように案内されていた。
現在、明治大学和泉校舎および本願寺派築地別院和田堀廟所となっているこの付近は、
江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。
敷地はおよそ一万八千八百九十六坪(約62,000㎡)あり、御蔵地(貯蔵庫)は、
五棟・二町二反九畝五歩(約23,000㎡)の規模であったといわれます。
当時、塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心三人が年番で交替居住し、警備や雑用には
付近の十六ヶ村に対して、昼夜交替で三人づつの課役が徴せられました。(以下略)


明治大学和泉校舎の直ぐ隣に築地本願寺和田堀廟所があった。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、
阿弥陀如来立像が本尊として安置されている。
大正十二年(1923)の関東大震災によって築地本願寺は焼失したが、
昭和十年(1935)、インド様式の大本堂が完成した。
(杉並区教育委員会)


極楽橋の先に


インド様式の大本堂があった。
中では法要が行われており、重厚な読経が本堂に響き渡っていた。


大本堂に隣接して、広大な墓地があった。
陸軍省火薬庫跡が払下げられることになり、昭和四年出願が許可され、
翌五年地名にちなんで和田堀廟所と名付けられた。
12,000坪(39,600㎡)の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園墓地として注目された。
樋口一葉・九条武子・観音寺潮五郎・古賀政男・水谷八重子・服部良一等有名人の墓がある。
また、明暦の大火(1657)で焼失した築地本願寺の再建に力を尽した佃島の人々の墓地があり、
その佃島の祖先33名の由来が書かれた石碑も建てられている。(杉並区教育委員会)


甲州街道沿いに玉川上水路敷があったので、歩いてみた。


玉川上水路敷は、小さな公園になっている。
木陰に包まれて涼しい。


残念なことに、これから開花を迎える紫陽花の葉が、悉く虫に喰い尽されていた。
日陰の葉ほど見るも無残な状態である。
『あらぁ これからという時に残念だね~っ』
『消毒しないのかしらっ』


玉川上水路敷から再び甲州街道を進む。


コンビニ前で暫し休憩
延長した芦花公園からつつじヶ丘辺りまでの地図をコピーして配布した。


11時24分、日本橋から15Kmの地点を通過


11時31分、清月山覚蔵寺に到着
覚蔵寺の創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1614)に実成院日相が、
真言宗寺院を日蓮宗寺院に改めて中興したと伝えられる、とのこと。
”開運鬼子母尊神安置”の文字が見える。


本堂
日蓮上人の直刻と言われている鬼子母神像が安置されている、とのこと。


境内の一角に綺麗に手入れされた小さな竹林があった。
『きれいな竹林だねっ』


11時41分、続いて宗源寺に到着
ここも日蓮宗の寺院だ。


南北朝時代の板碑や寺宝の滝沢求馬筆の涅槃像がある、とのこと。


境内にある不動堂は、もともと宿の入り口にあった高井山本覚院、通称高井堂のものだったが、
明治44年(1911)に本覚院が宗源寺に合併されて、不動堂をここに移した。
この「高井堂」が、高井戸宿の名の由来になったという説も。


宗源寺のラカンマキは、杉並区指定天然記念物になっている。
胸高周囲2m15Cm、樹高9m(目測)、樹齢は推定350年だそうだ。


甲州街道を進む。


庭一杯に石像が並んでいる。
旧街道の道標などは、まるで本物みたいである。


『石の彫刻屋さんだから何だって作れちゃうんだねっ』


11時52分、日本橋から16Kmの地点を通過


道端に咲くドクダミの花が可愛らしい。


鎌倉街道入口で首都高4号線と分岐して、


欅並木の甲州街道を進むと・・・


11時59分、うまい具合に吉野家があった。
ちょうど昼時ということもあり、”麦とろ”の幟に誘われて、


何と全員が”麦とろ”を注文し、


カウンター席に並んで”麦とろ”に舌鼓を打つ。
こういうときは、早くて安いのが一番なのである。


環八通りまで500mの地点を通過


12時37分、環八通りに到着。


環八通りを横断し、横断陸橋を渡って、


いったん甲州街道と分れて旧甲州街道を進む。


12時44分、曹洞禅宗萬年山長泉寺に到着
上高井戸宿の本陣を務めた武蔵屋の墓が有る、そうだ。


参道脇の砂利の上に石像が無造作に並べられている。


享保十三年(728)建立の観音堂
狩野家二代目養朴門人、絵師中田小左衛門吉信の享保十三年(1728)作の、
板絵着色西国巡礼図二面(一対)が奉納されている。


境内には承応3年(1654)造立の地蔵や石塔などが多数ある。


本堂は、慶安元年(1648)の創建で、本尊は大日如来像


本堂の両脇に並ぶ羅漢像


当初予定していた芦花公園駅は、長泉寺の直ぐ近くだが、ここで終ってはもったいない、という声に、
つつじヶ丘辺りまで延長することにしたのである。


この日初めて見た街道歩きに相応しい古い家であるが、
遠からず壊されてしまうのかもしれない。
この家の裏手は既に建物は無く、整地が進んでいる様子だった。


烏山下宿バス停を通過


13時10分、千歳烏山駅付近を通過


13時16分、成城消防署烏山出張所前を通過


コンビニで体調を整えている人がいるため、腰を下して一休みだ。


里程標(新一里塚)碑なるものがあった。
新一里塚は、明治三年に内藤新宿を起点として甲州街道に建てられた新しい一里塚で、
正面・左側面・右側面には「内藤新宿より三里 品川県」とある。
品川県とは、明治二年布告された「府県施政順序規則」により、
荏原郡、豊島郡の半分および多摩郡の一部を含めた地域をいう。
(世田谷区教育委員会)


13時37分、世田谷給田郵便局前を通過


13時41分、仙川に架かる大川橋に到着


上流を現在の甲州街道が走っているのが見える。


仙川を亀が悠然と泳いでいた。


つつじヶ丘駅を目指す。


13時46分、仙川三差路で現甲州街道に合流


13時50分、昌翁寺(しょうおうじ)に到着
仙川領主の飯高主水貞政が建立し、菩提寺とした。
貞政は、もと今川義元の家臣だったが徳川家康に帰属し、戦功により旗本となり、
下仙川村の領地を与えられた。


門前には元禄時代の庚申塔2基と宝暦の廻国塔が並ぶ。


明治12年3月の仙川の大災で、古記録や什器類を焼失。
本堂は大正13年に再建された。
現在の本堂は昭和60年に新築したもの。


13時59分、日本橋から20Kmの地点を通過
新宿から11Kmほど歩いたことになる。


仙川一里塚跡碑
仙川駅入口のコンビニの前に、小さな石碑があった。
甲州街道5番目の一里塚で、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。
慶長七年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれた。


やや視界が開けた場所に出た。
つつじヶ丘駅は間もなくだ。


中仙川遊歩道


14時15分、調布市の天然記念物「金子の銀杏」に到着


肝心な銀杏の木は、竹林の中にあるようだが、竹が邪魔をして良く見えない。


裏の中仙川遊歩道へ回ってみると、大銀杏の木があった。
稲荷社前の一対の銀杏は、目通り幹囲4.09mと1.97mで、太いほうが雄木。
細いほうの雌木(雄木の陰で見えない)が実を付ける。
個人の敷地なのか、周りは鉄柵に囲まれて中へは入れない。


つつじヶ丘交番前の信号を20mほど過ぎると、右手に細長い参道があり、
100mほど先に朱色の金龍寺山門が見えた。


14時24分、真っ赤な山門をくぐる。


境内には十八羅漢の像があちこちに置かれている。


今まで聞いたことのない名前の羅漢像である。


源頼朝の祈願によると云われる閻魔十大王は、ひときわ目を引く。


金龍寺の創立は、建永元年(1206)の古刹である。
山門をはじめ寺の随所に葵の御紋が見られ、徳川家との由来を感じさせる。


境内には水琴窟も。
水を注ぐと澄み切った音色が聞こえ、疲れが癒される感じだ。


皆さん、かなり疲れた様子。
この日は、ここまでにしておこう。


つつじヶ丘駅へ向かう。


14時47分、つつじヶ丘駅に到着


京王線・山の手線と乗り継ぎ、日暮里駅から常磐線で帰路についた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「甲州街道を歩く」第一回目(内藤新宿~つつじヶ丘駅)を終わった。
当初予定していた高井戸宿(芦花公園駅)をつつじヶ丘駅まで延長した。
次回は、この日延長した分を深大寺訪問に充てて、深大寺名物の蕎麦を
食べようということになった。
次回の「甲州街道を歩く」が楽しみである。

この日の万歩計は、24,000歩を少し超えていた。

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